樋口季一郎陸軍中将は、オトポール事件で2万人のユダヤ人の命を救い、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊の奇跡の撤退を成功させ、千島列島の占守島の戦いを指揮して北海道の500万の人口を守った昭和の名将です。
1 樋口季一郎陸軍中将
樋口季一郎陸軍中将は明治21(1888)年兵庫県三原郡本庄村上本庄の廻船問屋で、大地主の奥濱久八の元に長男として生まれました。
ところが廻船問屋は、明治になって蒸気船に押されて衰退。
家業が衰退に向かった結果、11歳のときには両親が離婚。
母・まつの実家に引き取られてすごしました。
樋口季一郎少年は優秀な子でした。
三原高等小学校、私立尋常中学鳳鳴義塾を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子になり、大正7(1918)年、陸軍大学を卒業しています。
卒業後、ウラジオストックとハバロフスクに勤務した後、駐在武官としてポーランドに赴任しました。
ウラジオストックとハバロフスク時代は、多くのロシア人と親交を結ぶと同時に、ロシア文学も熱心に学びました。
このときにトルストイのアンナ・カレーニナの全訳にも取り組んでいます。
またこの時期、ロシア人の先生に師事してピアノもマスターしました。
大正14(1925)年に赴任したポーランドのワルシャワでは、夫人とともに社交ダンスを習得し、ヨーロッパ社交界デビューを果たしてもいます。
下の動画にもご出演いただいている樋口季一郎陸軍中将のお孫さんの隆一氏は、日本を代表する音楽学者のひとりですが、これもまた樋口季一郎氏の血筋のなせるわざなのかもと思ったりします。
昭和12(1937)年8月、樋口季一郎氏は関東軍に特務機関長として赴任しました。
ここで同年12月に、ハルビンで内科医をしていたハルビンユダヤ人協会の会長のアブラハム・カウフマン博士(1885~1971)の訪問を受けました。
カウフマン博士は、
「ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるため、
ハルピンで極東ユダヤ人大会の
開催をしたいから許可してほしい」
と申し出ました。
ドイツが猛然と力を発揮していた時代です。
けれど樋口季一郎氏は、これを即決で許可しています。
12月26日、第一回極東ユダヤ人大会が開催されました。
ゲストとして招待された樋口季一郎氏は、次のような演説を行いました。
「諸君、ユダヤ人諸君は、
お気の毒にも世界何れの場所においても
『祖国なる土』を持たぬ。
如何に無能なる少数民族も、
いやしくも民族たる限り、
何ほどかの土を持っている。
ユダヤ人がその科学、芸術、産業の分野において
他の如何なる民族に比し、
劣ることなき才能と天分を持っていることは
歴史がそれを立証している。
然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、
世界の一隅おいて、
キシネフのポグロム(注1)が行われ、
ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは
人道主義の名において、
また人類の一人として
私は衷心悲しむものである。
ある一国は、
好ましからざる分子として、
法律上同胞であるべき人々を追放するという。
それを何処へ追放せんとするか。
追放せんとするならば、
その行先を明示し、
あらかじめそれを準備すべきてある。
当然の処置を講ぜずしての追放は、
刃を加えざる虐殺に等しい。
私は個人として、心からかかる行為をにくむ。
ユダヤ追放の前に
彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」
会場は、万雷の拍手に包まれました。
(注1)キシナウのポグロムとは1903年、帝政ロシア領であったユダヤ人虐殺事件。キシナウはモルドバ共和国の首都。
2 オトポール事件
それから3カ月も経たないうちに起きたのが「オトポール事件」です。
昭和13(1938)年3月、ソ連と満州国の国境付近の、気温がマイナス20度にもなる極寒のオトポール駅に、ユダヤ難民が満州国に入れず足止めされていました。
彼らは着の身着のままでドイツや周辺諸国を逃げ出した人々でした。
旅費も食事も防寒服も満足になく凍死寸前の状況にありました。
満州国外交部は、ドイツに遠慮して彼等の入国を拒否しました。
これを救ったのが当時ハルビンで関東軍特務機関長だった樋口季一郎氏でした。
オトポール事件については、樋口季一郎氏の回想録に詳しく書かれています。
「満州国は門戸を閉じた。
ユダヤ人たちは、
わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って
野営的生活をしながら
オトポール駅に屯ろしている。
もし満州国が入国を拒否する場合、
彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。
ポーランドも、ロシアも、
彼らの通過を許している。
しかるに『五族協和』をモットーとする、
『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は
不可思議千万である。
これは日本の圧迫によるか、
ドイツの要求に基づくか、
はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか」
この当時、日本は日独防共協定を結んでいましたが、ドイツはこれを拡大解釈して、ユダヤ人も防共の対象にしていました。
つまり日本がユダヤ人を保護すれば、ドイツはこれを外交上の問題とすることは明らかな状況でした。
樋口季一郎氏はこれを「政治上の問題」ではなく「人道上の問題」とすることで、ユダヤ人を保護しました。
南満州鉄道の総裁だった松岡洋右(まつおかようすけ)は、樋口に相談されて直ちに救援列車の出動を命じました。
オトポールに近い南満州鉄道の満州里駅は、ハルピンから900km後方にありました。
このため列車の本数が少なく臨時列車の派遣が必要であったためです。
3月12日、ハルピン駅に最初の列車が到着しました。
ハルピン在住のユダヤ人たちがこれを出迎えました。
彼らは同胞の救出をことのほか喜びました。
この特別臨時列車はその後、合わせて13本運行されました。
救われたユダヤ難民は約2万人と伝えられています。
救われたユダヤ難民たちは上海に、あるいはアメリカへと旅立って行きました。
樋口季一郎氏のこうした対応は、当然ながら外交問題に発展しました。
樋口季一郎氏は一市民ではありません。
関東軍の将軍です。
ドイツのリッべントロップ外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送りました。
「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、
両民族の握手提携が日に濃厚を加えつつあることは
欣快とするところである。
然(しか)るに聞くところによれば、
ハルビンにおいて日本陸軍の某少将(当時)が、
ドイツの国策を批判し、誹謗しつつありと。
もし然りとすれば、
日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。
請う。速やかに善処ありたし。」
これに対して樋口季一郎氏は次の手紙を書き、関東軍司令官だった植田謙吉に郵送しています。
「私の行為は決して間違っていない。
法治国家として当然のことをしたまでである。
満州国は日本の属国ではない。
ましてドイツの属国でもない。
たとえユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、
人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」
関東軍司令部に出頭を命じられた樋口季一郎氏は、参謀総長だった東条英機に会いました。
「ヒトラーのお先棒を担いで
弱いものいじめをすることが
正しいと思われますか?」
そう聞く樋口季一郎氏に、東条英機は樋口季一郎氏の意見を全面的に受け入れる決断をしました。
オトポール事件は、日本国内の新聞では記事になっていません。
樋口季一郎氏の家族でさえ、その死後に事態を知っています。
このときの樋口季一郎氏の行為を、アブラハム・カウフマンの息子のテオドル・カウフマンは著作の中で次のように述べています。
「樋口は世界で最も公正な人物の一人である。
そしてユダヤ人にとっての真の友人である。」
3 キスカ島撤退
昭和18(1943)年、北方軍司令官として札幌にいた樋口季一郎陸軍中将は、アリューシャン諸島で孤軍となったキスカ島守備隊を帰還させるべく大本営に談判し、奇跡の撤退を成功させました。
キスカ島は北太平洋にあるアリューシャン列島にある島です。
島には日本側の守備隊6千名が残留していました。
2ヶ月前には、キスカ島よりも手前にあるアッツ島で、島の守備隊2,650名が玉砕したばかりでした。
樋口季一郎陸軍中将は木村昌福(きむらまさとみ)海軍中将にはかり、キスカ島守備隊の撤退作戦を行いました。
これを「ケ号作戦」といいます。
ちなみに、「ケ」というのは、日本軍が撤退作戦を行うときに必ず用いた作戦名で、「ケ」は「乾坤一擲」という意味です。
キスカ撤退作戦は、最初、潜水艦で行われました。
この時点で日本海軍は、ソロモン方面の作戦で多数の駆逐艦を失っていたため、これ以上の艦の損耗を避けたかったのです。
昭和18(1943)年6月、15隻の潜水艦で2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約800名が後送されました。
また守備隊には、弾薬125トン、糧食100トンを輸送することに成功しました。
しかし潜水艦が米軍の哨戒網に発見され、一回目の潜水艦輸送作戦で、「伊二四潜水艦」を、二回目の輸送作戦では、「伊七潜水艦」、「伊九潜水艦」を失なっています。
成果の割に、損害が多いのです。
あまりに効率が悪い。
このままでは、全軍の撤退は不可能です。
樋口季一郎陸軍中将は、海上に深い霧がかかる7月中に、艦船で撤退作戦を実行するよう、木村海軍中将にはかりました。
8月になると霧がなくなり、撤退作戦は不可能になるからです。
キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、米軍の航空基地があります。
制空権を奪われた中での水上艦艇による撤退作戦は、万一空襲を受ければ、全滅の危機がありました。
ただ、この当時はまだ目視飛行の時代です。
濃霧が発生していれば空襲の危険を避けることができる可能性が増えます。
そしてこの頃にはまだ、濃霧の中で空襲をかけることができる航空機は、世界中どこにもなかった時代でした。
樋口季一郎陸軍中将は、そこに一縷(いちる)の望みを賭けたのです。
こうして2度にわたる潜水艦作戦は打ち切られ、キスカは水上艦艇による第二次撤退作戦となりました。
7月10日、アムチトカ島500海里圏外に集結した撤収部隊は、一路キスカ島へ向かいました。
Xデーは12日と決めてありました。
全艦、深い霧の中を、静かにキスカに向けて進みました。
ところが艦隊がキスカ近海に近づくと、霧が晴れてしまいました。
全艦、いったん突入を断念する。
近海の濃霧に隠れて、決行予定日を13日に変更しました。
しかし13日、14日、15日と霧が晴れ、突入は断念せざるを得なくなりました。
やむなく木村海軍少将は、15日午前8時20分、一旦突入を諦めて帰投命令を発しています。
燃料が底を尽きはじめてしまったからです。
「帰れば、また来られるからな」
それが、このときの木村中将の言葉でした。
こうして撤収部隊は、18日に一旦幌筵の基地に帰投しました。
手ぶらで根拠地に帰ってきた木村海軍少将に対し、直属の上官である第五艦隊司令部のみならず、連合艦隊司令部、さらには大本営からも、
「何故、突入しなかったか!」
「今すぐ作戦を再開しキスカ湾へ突入せよ!」
と、帰投した木村海軍少将に轟々(ごうごう)たる非難が浴びせられました。
「腰ぬけ!」とまで罵(ののし)られました。
更迭(こうてつ)の話も出ました。
しかし樋口季一郎陸軍中将は、
「この作戦は、木村でなければならぬ」と、これを一蹴(いっしゅう)しています。
あと半月で8月になります。
8月にはもう霧が出ません。
霧が晴れれば、米軍のキスカ攻撃が始まります。
そうなれば、キスカの撤収作戦はありえず、キスカ島守備隊は全滅を免れません。
一方で、この地域に備蓄していた海軍の重油も底を尽き始めていました。
作戦はあと一度きりしか行えない。
帰投して4日目の7月22日、幌筵島(ぱらもしるとう)の気象台から、
「7月25日以降、
キスカ島周辺に
濃霧発生」
との予報がはいりました。
最後のチャンスがやってきたのです。
木村海軍少将は予報を聞くと同時に、全艦隊に出撃命令を発しました。
ところが期待の霧が、あまりに濃い。
出航が各艦まちまちになったうえ、洋上で3日後の7月25日には、「国後」を除く艦隊がいったん集結できたのですが、翌26日には濃霧の中を航行中に、行方不明だった「国後」が突如出現して、「阿武隈」の左舷中部に衝突してしまいます。
この混乱で「初霜」の艦首が「若葉」右舷に衝突。
弾(はず)みで艦尾が「長波」左舷に接触してしまう。
損傷が酷(ひど)かった「若葉」は、艦隊を離脱して単独で帰投することになってしまいます。
残った船で、キスカ近郊で待機した7月28日、艦隊の気象班が、
「翌29日、キスカ島周辺、濃霧の可能性大」
と予報しました。
「全艦突入せよ」
木村海軍少将が命じました。
艦隊は、敵艦隊との遭遇を避けるために、島の西側を迂回して、島影に沿ってゆっくり進みました。
7月29日正午、艦隊はキスカ湾に到達しました。
濃霧です。
湾内では、座礁や衝突の危険もありました。
ところがこのとき、神風が起きました。
一陣の風が吹いて、湾内の濃霧をきれいに吹き飛ばしてくれたのです。
13時40分、晴空のもとで艦隊は投錨し、待ち構えていたキスカ島守備隊員5,200名の収容にとりかかりました。
持っている小銃は、全部投棄させました。
身軽にして輸送行動を速めるためです。
そしてなんと、わずか55分という驚異のスピードで、全員を艦内に収容し、収容に使ったはしけは、回収せずに自沈させて、直ちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱しました。
艦隊が湾を離れた直後、キスカ湾は、ふたたび深い霧に包みこまれました。
それは、まさに神が降ってきたとしかいいようがない収容作戦でした。
こうして7月31日、無事、全艦、幌筵に帰投しています。
4 占守島の戦い
昭和20(1945)年8月18日。
これは無条件降伏の3日後のことです。
北海道占領を目的として、ソ連軍が突然千島列島の占守島(しゅむしゅとう)を攻撃してきました。
その兵力は、およそ8000。
同時にスターリンは、千島列島と北海道をソ連領とすることをアメリカに要求しました。
司令官であった樋口季一郎陸軍中将は、進めていた軍の武装解除を一旦停止し、戦車部隊を中心に断固たる防衛を命じました。
これを受けて士魂(しこん)戦車隊の池田末男(いけだすえお)隊長は、濃霧の中隊員に訓示しました。
「諸士、ついに立つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く、
この場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。」
8月22日まで続いた戦いの結果、ソ連は3000人もの死傷者を出して敗退しました。
1日で占守島を占領する計画も水疱に帰しました。
大損害を受けたソ連は樋口を戦犯に指名し、連合軍総司令部に引渡しを要求しました。
しかしこれを聞いた「世界ユダヤ人協会」が、米国防総省に働きかけました。
こうして米国はソ連への引渡しを断固拒否しました。
6 おわりに
樋口季一郎氏のことを、「旧軍の関係者であるから評価すべきではない」という人がいました。
旧軍の関係者であろうがなかろうが、立派な行為は、しっかりと学ぶべきものです。
そもそも「評価」するという言葉自体が、非常におこがましい。
上から目線で人間を履き違えています。
下にあります動画は、2015年に収録したもので、1時間を越える大作の動画ながら、再生回数100万回を越える動画となりました。
戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎
https://www.youtube.com/embed/4caq5e_toz8
この記事は2019年11月のねずブロ記事のリニューアルです。