戦争というものは、国家が行う外交の究極の手段です。
そして人類社会には戦争のルールがあります。
それは、
「戦争は、軍服を着て武装した集団が、同じく軍服を着て武装した集団と対決するもの」というルールです。
このルールは、洋の東西を問わず、有史以前から定まっているルールです。
このルールを破り、軍服を着て武装した集団が、軍服を着ていない一般人を殺害したら、それはただの殺人(murder)であり、殺した人数が多数にのぼれば、それは虐殺(slaughter)と呼ばれ、犯罪行為とされます。
軍人がこれを行えば、当然にそれは軍法会議による懲罰対象になるし、国家規模でこれを行えば、国そのものが犯罪国家と呼ばれるようになります。
それが世界の歴史です。
先の大戦を考えてみると、日本は最後まで戦争をしていました。
つまり軍服を着た軍人が、軍服を着た敵と戦いました。
ですから途中までは、これはたしかに戦争でした。
けれど戦争末期になると、米軍はサイパン、グアム、沖縄戦において、一般人への砲撃を盛んに行いました。
そして東京などの大都市に軍服を着てない一般人を対象とした爆撃を行い、さらに広島、長崎に、一般人を対象とした原爆投下を行いました。
この段階で、先の大戦は、戦争(War)ではなくなりました。
ただの虐殺(slaughter)になりました。
実は昭和20年1月の段階で、日本は新型爆弾と呼ばれる原子爆弾を、完成させていました。
この原爆は、沖縄戦において海上に集結するであろう米艦隊の上空で炸裂させる計画でした。
ところがこれを行うために必要な沖縄県民の疎開が、当時の沖縄県知事の不可思議な抵抗によってままならない状況となりました。
どうすべきか昭和天皇に奏上した杉山参謀長に、昭和天皇は、
「米国は新型爆弾の研究をしていることはないか」とお尋ねになりました。参謀長は、
「その可能性はあります」と答えました。
昭和天皇は、
「そのようなことになれば、
日米ともに新型爆弾の撃ち合いになり、
無辜の民に犠牲が出る。
そのようなことになったなら、
朕はどのように皇祖皇宗にあやまればよいか。
民にあやまればよいか」と述べられ、新型爆弾の開発と使用の完全停止をお命じになられたといわれています。
一方、同年4月30日にヒットラーが自害することで収束を迎えたヨーロッパ戦線では、ナチスドイツの崩壊とともに、新型爆弾(原爆)の技術者がドイツから米国に連れ去られ、これによって米国は5月10日に開発中であった原子爆弾の日本への使用を決定しました。
そして、8月6日に広島に、8月9日には長崎でその新型爆弾を使用しました。
そして広島では約16万の一般人が犠牲となり、長崎では8万人の一般人が犠牲になりました。
こうなると、これは、すでに戦争ではありません。
戦争が、ただの虐殺・殺戮(slaughter)となり、その先はどれだけの民衆に被害がでるかわからないという事態に至りました。
だから昭和天皇は、長崎の5日後の8月14日の時点で戦闘行為の終結をご決断され、これが8月15日の玉音放送となりました。
なぜか。
日本は、国家の外交の最終手段として戦争をしていたからです。
単なる虐殺になれば、それは戦争ではありません。
これは、殺されるのが日本人の側であっても、同じことです。
日本が戦闘行為を継続することで、軍服を着ていない一般の日本人に死傷者が累々と生じるなら、それは日本の軍の行為によって、日本人が虐殺されていることになります。
だから、
日本は、虐殺には断固加担しない。
その決意のもとに、戦闘行為を自主的に終結させています。
これを日本の敗戦と呼ぶ人もいます。
なるほど、そうかもしれません。
けれど、みなさんならどうでしょう。
柔道や剣道、あるいはK1とかキックボクシングでも良いです。
それらの試合は、一定のルールのもとに行われます。
けれど、ルール無用で、それが試合ではなく、本当の殺し合いになり、さらに観客にまで死傷者がでるようになったなら、それは試合といえるでしょうか。
あたりまのことですが、警察が呼ばれ、逮捕者が出、その試合は「無効試合」になるのではないでしょうか。
それが人間の常識というものではないでしょうか。
戦争も同じです。
戦争が、ただの殺戮に変わるなら、それはもはや戦争ではありません。
ただの虐殺(slaughter)です。
虐殺は犯罪であり、そこに勝者も敗者もありません。
だから8月15日は、敗戦の日ではなく、終戦の日と呼ぶのです。
先の大戦のことは、すでに過ぎ去った過去のことです。
ですからいまさら米国の行動の良し悪しを議論する気はまったくありません。
多くの米国人は、正義を愛し、国を愛し、正しく生きることを選択する良心を持つ人々です。
米国に限らず、こよなく国を愛し、人々を愛し、家族を愛する普通の人達、正常な神経を持つ人達というのは、どこの国にも必ずいます。
我々は、そういう良心を持つ世界の人々と連携し、いまよりも少しでも良い未来を、平和で豊かな未来を切り拓いていく。
それこそが神々の御意思です。
極悪は、いつの時代にもなくなりません。
どんな国にも、どの時代にも、極悪は必ず存在します。
その極悪が権力を得たとき、虐殺がはじまります。
それが世界の歴史であり、そうした世界に日本が巻き込まれたのが、先の大戦です。
多くの人は、心のなかに善悪両方を持っています。
それが普通です。
完全浄化された良心だけの人など、仙人でもなければ存在しません。
善悪両方の心の中で、日々葛藤しながら生きている。
人はそういうものだと思います。
けれど極悪人は、天使のような顔をしてやってきて、人々をたぶらかし、極悪に引きずり込もうとします。
つまり我々は、そんな極悪人を、きちんと見破らなければならない。
では、どうい人が極悪人なのか、見抜くにはどうしたら良いのかといえば、答えは簡単です。
天使のような顔をしてやってきて、人の名誉を奪おうとする人。
それこそが正体が極悪人です。
何事につけ、極はよくないのです。
北極や南極に人が住めないのと同じです。
真ん中に近いところが、住みやすい(笑)
そうした真ん中近くにあることが、実は幸せなことなのだと気付くことが、国を正常化するということなのではないかと思います。
※この記事は2023年7月のねずブロ記事の再掲です。