法隆寺の五重塔や金堂、後ろにある大講堂、そして有名な夢殿。
これら建物は、いまでは黒っぽくなっている木造建築物ですが、創建当時は、いずれも「丹(に)」と呼ばれる緋色に塗られていた施設です。
一歩法隆寺の境内に立ち入れば、そこは真っ赤に彩られた、まさに神仙の世界そのものであったわけです。

大講堂にある薬師三尊像(こちらは平安後期の作)も黄金で塗装されたまさに黄金仏でした。
こちらもまたこの世のものとは思えないほどの美しさと荘厳さに満ちたものでした。

法隆寺は、推古天皇15年(607年)に創建されました。
実はこの頃の日本は、東洋の海洋大国として、世界中に進出していました。
これは空想ではありません。現実にそうだったのです。
そして日本は、蓬莱山(ほうらいさん)、扶桑(ふそう)の国、東瀛(とうえい)などと呼ばれ、神仙しかたどり着くっことのできない理想の国とされていました。

このようなことを申し上げると、「いやあ、実際の日本での暮らしは、天然の災害はあるし、人間関係の悩みがあるし、いったいどこがどう理想の国なんだ」と思われる方もおいでかと思います。
けれど、天国だって、何もなければ退屈なだけです。
日々悩みがあり、様々な問題があり、それを解決しようと必死にのたうちまわって生きるから、霊(ひ)が鍛えられ、より高度な霊(ひ)に昇華できるのです。

そんな日本人は、争いごとを好まず、信頼を大切にします。
ですからそこに不条理があれば、鬼神と化して、その不条理と戦います。
そんな日本人が船に乗ってやってくれは、それは、収奪にあえぐ世界の国々や諸民族からすれば、まさに神の使いがやってきたと認識されます。
だからそれら日本人の出身国である日本は、扶桑の国、蓬莱山、パラダイス、神の国などと呼ばれていたのです。

ですからこの時代、たくさんの世界の聖人や君主からの使いが日本にやってきています。
そして彼らを案内する、いまでいうなら迎賓館として建てられたのが法隆寺です。
だから法隆寺は、この時代における最高の建築技術を駆使して建てられています。

たとえば東王門から西王門に続く通路は、真ん中が石畳で、その両脇が土の道になっています。
足が汚れないように、石畳を敷く例は世界中にありますが、日本は高温多湿の国です。
夏暑く、冬は寒い。
石は、夏は太陽に加熱されて熱石となり、冬は凍石となって周囲の温度を下げます。
そこで、通路の両側を土の道にしています。土は、夏は冷たく、冬は温かいからです。
さらに回廊の両側の塀もまた、漆喰(しっくい)を塗らず、土壁にしています。
漆喰ですと、夏暑く、冬は寒い。
ところが土壁ですと、夏は冷たく、冬は温かい。
つまりあの通路は、天然のエアコン設備になっているのです。

そういうところに外国からの賓客を案内します。

この時代、外国からの賓客というのは、豪華絢爛な石造りの建物に案内し、そこで豪華な食事と、若くて美しい女性たちでおもてなしをするのが、世界の通例だった時代です。
権力者が、自己の権力の大きさを、そうした華美な演出で示そうとしたのです。

ところが日本では、おもてなしが仏教寺院の法隆寺です。
そこにあるのは強い権力ではなく、静かな祈りであり、圧倒的な権威です。
目を見張る美しい光景、静かな寺院、どこからか聞こえる読経の声。お香のかおり。

そして施設の名前が法隆寺です。
法隆寺は、昔は「灋隆寺」と書いたのです。
「灋」という漢字は、体が鳥で足が四本ある怪物を、水に流し去るという意味の会意象形文字です。
「灋隆寺」という名は、ひとことでいうなら「悪者をさかん(隆)に流し去る」という意味の名前なのです。

つまり法隆寺は、そのまま外国からの賓客(神仙や君主の使い)に、我が国が堂々と「悪者は入れないぞ」と宣言した寺院であったわけです。
しかも彼らに贅沢を与えず、静謐の中に、高いレベルの技術を、堂々とそこに示したのです。
この誇り、この軒高とした自信。それこそが法隆寺の存在そのものなのです。

この時代、世界中どこでも権力者がほしいままに民衆の命や財を奪い、自己の贅沢な暮らしだけをほしいままにしていた時代です。
そんな時代にあって、日本では、民衆を八百万の神々と規定し、高度な技術によって、民衆が静謐に暮らし、安全で安心で豊かな国を築いていたのです。
だから
「我が国は悪者は入れません。
 あなた方は大丈夫ですか?」
と、日本は海外からの賓客に堂々と問うているのです。

媚びず、怖じず、威張らず、静かに見せるだけ。
まさにそこは神仙の国であったのです。

五畿七道という言葉があります。
七道は、東北道や東海道、山陽道といった街道筋のことで、全国の諸国を意味します。
五畿は、畿内にある摂津、山城、河内、大和、和泉の5国のことを意味します。

その五畿には、平安時代初期、およそ1200の豪族が住んでいました。
『新撰姓氏録』によると、このうちの400が、外国からの渡来人です。
その渡来人の中には、もちろんチャイナやコリアの人々もいたことでしょう。
他にも遠くペルシャや、イスラム、ヨーロッパからも、渡来し、帰化した人たちが日本に住んでいたのです。

さらに、チャイナ等で滅ぼされた王朝の末裔たちもまた、平和を求めて日本にやってきて帰化していました。
斉王の末裔の温義氏、秦の始皇帝の末裔の秦氏、後漢の光武帝の末裔の後漢の高安氏、後漢の最後の皇帝劉協の末裔の三津氏など、最後にようやくたどり着いた安息の地が、まさに日本であったのです。

帰化人というのは、渡来人とは異なります。
渡来人は、単に日本に渡来してきただけの人たちです。
一定期間が過ぎれば本国へと帰っていきます。
けれど帰化人というのは、帰るところを日本に化(か)えた人たちという意味です。
海外の国に生まれながら、日本に移り住み、日本人となって、日本人として、我が国の一員となって、我が国の歴史を刻むことを選択した人たちです。

現代日本では、いたずらに外国人に媚び、労働者として迎え入れたり学生として迎え入れ、国がその生活の保障まで行っています。

けれどたいせつなことは、ここは日本であるということ。
日本で暮らすのなら、他人に迷惑をかけない、悪さをしない、おかしな政治活動をしない等々、日本は彼らに最低限のモラルとマナーを、彼らに堂々と求めること。
ましてスパイ活動し放題の情況をいつまでも野放しになどしない。
そういう矜持が、いまこそ日本に求められています。

国を護るということは、単に戦いに勝つことを意味するだけのものではありません。
日本という国の国柄を、しっかりと保つこと。
これもまた、たいせつな国防であることを、法隆寺は教えてくれているのです。

※この記事は2023年7月のねずブロ記事のリニューアルです。

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法隆寺に学ぶ” に対して1件のコメントがあります。

  1. 藤岡亮介 より:

    有り難うございました(* >ω<)

    私は若い頃、政治の世界は世の中のもっとも薄汚い人々が集うところだと思っていました。

    だけど歴史に學ばせて頂くと、確かに色々な悶着があるけれど、根っこのところで人が好きで赦せる人でなければとてもお勤めできないお役目なのだと知ることができました。

    本当に、このごく数十年の間の宣伝によって我が国の価値観が極端に捻れてしまっていることが残念です。

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