この「タオタオモナ」、英語で書いたら「tao tao mona」ですが、これはどうみても日本語の「tae nai mono(絶えないもの)」か「to toi mono(尊いもの)」です。
絶えないもの、尊いもの、絶やしてはいけないものが宿っているから、「tao tao mona」です。
縄文人たちは南米までも交易していたというし、古代から海洋交流がさかんに行われてきたなかで、日本的なものの考え方が受け入れられ、チャモロ文化の中に取り入れられたとしてもおかしくありません。

このグァム島を含むマリアナ諸島に人が住みついたのは、紀元前3000年~2000年頃だといわれていて、マレーシアやフィリピン、インドネシアから、カヌーに乗って移住してきたとされています。
絶対に日本から移住したという言い方はなされません(笑)。

ところが日本列島に人が住んでいた痕跡(人骨)は、古いものでは12万年前のものが発見されているし、三万年前には海上に浮かぶ神津島の石が本土に運ばれていたことを示す石器も見つかっています。
さらに2万年前の氷河期のときには、海面がいまよりも140メートルも下がり、この時代には日本本土から小笠原諸島、グアム島のあるマリアナ諸島まで、視界内に大きな島が連なっていました。

寒冷期ですし、少しでもあたたかなところを求めて人々が移住していったことは十分に考えられますし、そのあと海面が上昇していったときに、島に遺された人々がチョモロ人となっていったということは十分に考えられることでもあります。
さらに魏志倭人伝によると日本は海上を1年も航海した先にある黒歯国まで倭種、つまり倭人の国であると書いています。
南米まで航海していたというのなら、グアムくらいは目と鼻の先です。

そのグアムに、西洋人がやってきたのが1521年のことです。
マゼランが西洋人としてはじめてグアム島を「発見」したとされています。
その40年後、1565年にスペイン人のレガスピがやってきて、島の領有を宣言しました。
こうしてグアムはスペインの植民地になり、住んでいた人たち(先住民)は、チョモロ人と呼ばれるようになりました。
チョモロというのは、スペイン語で「刈り上げた」とか「ハゲ」を意味する言葉なのだそうです。

ではチョモロの人々が、もともと自分たちのことをなんと呼んでいたかというと、記録によれば外部に対しては「タオタオ・タノ」と言ったのだそうです。
これをスペイン人たちは、「土地の人」という意味だろうと訳したのですが、日本語で聞けばこれまたどう聞いても「とうとい者」です。

スペイン人が「おまえたちは誰だ」と身振り手振りで訊ねたとき、島の長が「俺達は尊い魂を胸に持っている人々だ」とやはり身振りで示したとしても、何もおかしなことはありませんし、それをスペイン人たちが、「土地の人」という意味なのだなと解釈したとしても、これまた何もおかしなことはありません。
いまではすっかり血が混じったとはいえ、グアムの先住民たちの表情や顔立ちは、やはり日本人とたいへんよく似ています。 チョモロ人(Wikipediaより) 画像出所=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%A2%E3%83%AD%E4%BA%BA (画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。 画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

スペイン人と現地の人との間には、何度となく激しい戦いがあったようです。
しかしスペイン統治の333年間に、先住民であるチェモロ人の純血種は絶えてしまいました。
現在島にいるのはスペイン種との混血だけです。
そして、チェモロ人たちの文明がどのようなものであったのか、どのような歴史を持っていたのか、どのくらいの人口があったのかさえも、いまでは、まったくわからなくなっています。

こうしてチェモロの歴史は、完全に絶え、残っているのは、石でできたラッテ・ストーン、ミクロネシアダンス、庶民の生活、恋人岬の伝説、そしてスペインなまりのチェモロ語などだけになりました。

グァムを植民地にしていたスペインは、1894年にアメリカと米西戦争を起こしますが、戦いは米国の勝利となり、グアムはアメリカに割譲されました。
初代総督の米海軍大佐レアリーは、グアムの英語化を指示しました。
その内容は、住民が「英語でサインできればOK」というだけのものでした。
住民に対する教育は、アメリカはまるで関心を持ちませんでした。

現地の人たちはチェモロ語しか話せないし書けないのに、公用語は英語です。
役所関連の仕事は、英語でなければいっさいできないのです。
ところが英語を教えてくれる人はいない。
そんな教育の制度もない。
当時の現地の人たちの苦労が偲ばれます。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理を行うパリ講和会議で、日本は、ドイツ領だったミクロネシアと、北マリアナ諸島を統治することになりました。
日本統治になることで、ミクロネシア、北マリアナはみるみる発展していきました。

ここでおかしな現象がおきます。

大国が勝手に決める国境とは別に、島の人々は、相互に交流があります。
米国領であるグアムのチャモロ人は、日本領になった近隣の島々を訪問すると、そこで日本統治による発展を目の当たりにするわけです。
チャモロ人たちが、日本人に対し尊敬と賞賛の気持ちを抱いたのは、当然の帰結だったろうと思います。

そして、1941年12月8日、日米が開戦となりました。
日本は、真珠湾攻撃の5時間後、米領グアムへの攻撃を開始し、わずか1日で米軍を陥落させました。
そして12月10日にはグアムの占領を宣言しました。

日本によるグアムの統治は、その後、約2年7か月続きました。
日本は、グアムを「偉大なる神のおわす島」を意味する「大宮島」と改名しました。
そして学校、医療、道路などの社会的インフラを整備しました。
同時にチャモロ人に対して、住居・信仰・言論の自由等を保障しました。

現地での教育は日本語で行いました。
本当はチャモロ語で教育したいところですが、社会用語や科学技術用語は、全部日本語です。
ですから現地の社会制度を確立し、技術振興を図るためには、日本語で教育するしかなかったのです。
けれど島の人々はとても勤勉で、日本語での教育をよろこんで受け入れてくれました。

米国統治時代には、名前が英語で書ければ十分という米国に対し、日本は、学校を作り、語学、算数、理科、社会をきちんと教育しました。
いまでは学校教育を面倒に感じる人も多いかと思いますが、それは戦後教育にある一定の歪みが生まれたためで、本来は知識を得ることはとても楽しいことです。

楽しいからこそ、昔は小学生が、毎朝5キロも10キロも歩いて登校したのです。
当時を知るチェモロ人たちも、当時の日本語の学校の思い出が、まさに人生の宝です。
それが本来の教育というものなのだろうと思います。

グアムには、いまでも、当時世話になった日本人の名前をもらい、自分の家族名にしている人たちがたくさんいます。
日本統治時代の教育が、いまでの彼らの誇りなのです。

ところで、グァムが日本の統治下になるということは、米国にとってグアムは「敵に占領された米国領土」となります。
米軍は、日本本土攻略のための基点として、そのグアムの奪還と占領を目論みます。

1944年、米軍は先ず戦艦による艦砲射撃と空母艦載機及び陸上爆撃機(B-29)で、グアムの日本軍施設の爆撃を開始しました。
予定では6月18日には部隊を上陸させるはずだったのだけれど、日本軍の猛烈な抵抗にあい、上陸開始は、1ヶ月以上も遅れた7月21日でした。

その間、1ヶ月以上にわたり、グアムは艦砲射撃と空爆の嵐に遭いました。
このため美しいサンゴの自然が破壊され、山の形さえも変わってしまっています。

日本守備隊は、米軍の上陸を、水際で食い止めようとしました。
そのために揚陸中の米軍を重火器で激しく攻撃しました。
そして20両の米軍のLVT(水陸両用装軌車)を破壊しました。

けれど島にいた日本軍守備隊の将兵2万、対する米軍は2個師団5万5千+戦艦+航空機による爆撃という圧倒的戦力です。

7月28日、早朝から上陸した米軍は、戦車数十両で日本軍師団司令部のある本田台を包囲しました。
日本側はこれに対し、対戦車爆弾を抱えて、敵戦車に体当たり攻撃を行いました。
しかし機銃や火炎放射機に阻まれ、味方の死傷者がつのり、ついに対戦車爆薬さえ尽きてしまいました。

それでも日本の将兵たちは、手榴弾による悲壮な攻撃をしかけました。
戦車に手榴弾は通用しません。
ではどうしたのかというと、敵戦車に乗り込み、天井の蓋を開けて、中に手榴弾を放り込んだのです。
完全防備で、しかも周囲を米兵で固める戦車には、近づくことさえ容易なことではありません。
それを近づき、戦車の上に乗り込み、手榴弾を放り込む。
あまりにもすごい戦いです。

この悲痛な状況の下、高品彪(たかしなたけし)中将は、全島で3000名以上の生存者があることを考え、戦車の重囲から脱出し北方での再起を決意しました。

高品彪(たかしなたけし)中将

午後2時、高品師団長は、敵の機関銃弾を受け、壮烈な戦死を遂げられました。
7月29日、日本軍の残存兵力は、陸軍約1000名、陸戦隊約800名、戦車部隊、砲6門、その他約2500名となりました。
この時点で、もはや日本軍には、陸海軍の区別も、第1線と後方の区別もありません。
その中で、まだ戦える者全員が又木山(マタグアック)に集結しました。

全員が負傷兵です。
指のない者、腕のない者、足のない者、片眼がつぶれている者もいました。
残された戦いの手段は、敵戦車、敵機関砲に対し、銃剣突撃だけです。
銃はあっても弾がない。

8月9日、早朝から約50両の米戦車が、一斉に最後の日本軍陣地である又木山への攻撃を開始してきました。

8月10日、残った日本兵は、みなで話し合って、翌11日を期して最後の攻撃を敢行することを決めました。
午後8時、小畑英良中将が天皇陛下並びに大本営に、
「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」
と決別の電報を打ちました。

8月11日午後2時35分、 又木山に集結した日本軍残存兵力の約60名が、小畑中将とともに自決されました。

8月13日、米国がグアム全島の占領をラジオで発表しました。。
グアムの陥落によって、米軍はグアムに航空基地を設置。
日本本土への無差別空爆が始まっています。

この戦いで、日本の守備隊総員2万810名のうち、1万9,135柱英霊の命が失われました。
しかしそれでも一部の生き残った兵士はゲリラ戦を行って執拗に抵抗を行い続けました。
ナイフしかない、食べ物も、水もない。
そんな状況下で、亡くなった将兵の武器や弾薬を集め、ジャングルに隠れながら戦い続けています。

そのなかのひとりに、若き日の横井庄一伍長がいました。
彼は、1972年(昭和47年)まで、グァム島内に潜伏。
味方の再来までと、ひとりグアムで戦い続けたのです。
横井庄一氏の帰国の際の第一声は
「帰って参りました…恥ずかしながら、生き永らえて帰って参りました」というものでした。

横井さんは、日本に帰国後、どうして日本は負けたのかの質問に、こう答えられました。
「武器がなかったからです。
 精神は勝っていた」

グアムはいま、アメリカ領土ではありません。
「未編入領土(Unincorporated Territory)」といって、領土に編入していない領土です。
グアムは、グアム議会の決議より、米国合衆国憲法が優先され、住民は合衆国政府が定めた納税義務を負っているのですが、そうであるにもかかわらず、グァムの人々には、大統領選挙に参加する資格は与えられていません。
そして全島の3分の2が米軍基地です。

※この記事は2009年7月のねずブロ記事のリニューアルです。

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