「希望の日本再生チャンネル」で行った張作霖・張学良に関する動画が削除対象になりました。
都合の悪い歴史は消す。
Youtubeを取り仕切っているのがどういう連中かわかります。
消されても、消されても、懲りずに真実の歴史を語ります。

昭和12(1937)年7月25日、つまり86年前の深夜に起きたのが「廊坊事件」です。
日華事変のきっかけのひとつになった事件です。
翌26日には「広安門事件」が起こり、29日には「通州事件」が起こりました。

最近では、「日華事変」のことを「日中戦争」と呼ぶ人があるようです。
まだ私などが中高生の頃は、「支/那 事 変」とか「日華事変」と呼んでいました。(支 那 事 変が正しい)、最近では学校の教科書も「日中戦争」と書いているそうです。
これは中共政府の「日中戦争こそ、日本によるChinaへの侵略の証であり、中共政府軍は侵略者日本と勇敢に戦った抗日の英雄でだ、だから人民解放軍なのだ」という一方的なトンデモ史観に由来します。

日本の教科書は、近隣諸国に配慮することになっているので、そうしたトンデモ史観がどれだけ荒唐無稽なものであっても、それが他所の国で国家として認証されたものなら、それに配慮します。
このことは、韓国のトンデモ史観も同じで、こうなるとそれらをヨイショするインチキ学者の地位が向上し、まともな真実を語ると学会から排除されてしまうという、摩訶不思議な現象が日本国内で起こったりします。

ちなみに歴史的にはまったく事実無根であっても、それを教科書に書くことができるのは、戦後の「歴史」教科書が、実は「社会科」の「歴史的分野」の教科書であって、「歴史教科書」ではないからです。
社会科は、その子が社会人になった時の常識を教える教科です。
ですから、事実無根でも、それを強硬に主張している国があるのは事実ですから、これを教科書に書くことができます。歴史教科書は、歴史上の事実を教える科目ですから、そうはいきません。
日本は、昭和20年にGHQが歴史教育を禁止し、昭和22年に文部省が社会科に変更することを決めたまま現在に至っています。
左の人たちは、そのあたりを十分に承知していて、社会科の教科書だからと嘘を書き、歴史的分野を「歴史」と読み替えて、子供たちにトンデモ史観を刷り込んでいるわけです。ひどいはなしです。

さて、廊坊事件(ろうぼうじけん)です。
事件が起きたのは、昭和12(1937)年7月25日です。
北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本の軍用通信回線に故障が発生しました。
通信網の確立は、軍隊にとって生命線です。
そこで日本軍はあらかじめ国民党側に通知をして、ちゃんと彼らの了解を取り付けたうえで、通信回線の補修チームに、警護のための歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、約100名を現場に急行させました。

部隊が廊坊駅に着いたのは、午後4時半頃です。
このとき廊坊駅にはChina国民党の兵、約6000(第三八師第一三二旅、第226団)がいました。
6000の兵がいるところに、修理兵を含むわずか100名が派遣されたのです。

この数の違いだけを見ても、日本側がChina国民党とドンパチする気など、まったく持っていなかったことがわかります。
あくまで日本の軍は、日本人の保護と、Chinaの平穏のために、いまでいうなら国連PKOとして派遣されていたのであって、だからこそChinaをまとめようとする国民党とは仲良くしたいと考えていたし、だからこそ6千人の武装兵がいるところに、たった100人で向かっているのです。

廊坊駅に到着した修理隊の隊長である五ノ井淀之助中尉は、国民党226団に到着を告げ、許可を得て廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を開始しました。
あらかじめ通告してあったのだし、用件は単なる修理です。
事態はこれで何事もなく過ぎるはずです。

ところが、その修理の真っ只中の深夜午後11時10分、国民党軍が突然、修理作業中の日本軍に銃撃をしてきましたのです。
小銃による単発狙撃ではありません。
軽機関銃による掃射です。
それはあきらかな軍事攻撃でした。

普通なら、この瞬間に、双方の銃撃戦が始まります。
ところが、この攻撃を受け始めた時点で、日本側は、まったく応射をしていません。
応戦せずに、ただ弾が当たらないように身を隠しました。

平和維持のために来ているのです。
なんでここで戦わなくちゃならないのか。
「発砲禁止、銃弾に当たらないように身を隠して待機!」
これが修理隊の五ノ井隊長の命令です。

ところがそうして、ひたすら弾を避け続ける日本軍に対し、なんと今度は、廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、銃弾を避けて隠れている日本軍に向かって、迫撃砲による砲火が加えられました。
これはたいへんな事態です。
このままでは全員犬死です。

五ノ井隊長は、やむを得ず「応戦開始」の命令を下しました。
同時に本部に応援を要請しました。
国民党による攻撃開始から、なんと50分も経過した、午前0時頃のことです。

集団で殴ったり(小銃による攻撃)、蹴飛ばされたり(機銃による攻撃)されても、なんと50分間も、「争いたくないから」と、ただひたすら耐え続けたのです。
この自制心の強さは、なまなかなものではありません。

ところが相手が刃物を持ち出してきた(炸裂砲弾による砲撃)のです。
だからやむを得ず応戦しました。
これは、誰がどうみても明らかに客観的にみて正当な自衛行動であり、正当防衛です。

通報を受けた日本軍(China駐屯軍)の本部は、事態に驚いて、すぐに第20師団に救援を命じました。
なにせ6千人の、最新鋭の装備に身を固め、ドイツ式の最新装備にドイツ式教練を受けた国民党軍に、わずか100名の日本軍が一方的に攻め立てられているのです。

第20師団はただちに、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。
さらに26日午前2時30分には、第20師団の本体が、廊坊駅に向かいました。

けれど悪路の走行です。
距離は50km。
トラックを使った強行軍でも、1時間に12キロ程度しか進めない。
なぜなら、全員はトラックに乗れないのです。
それだけの数のトラックがない。
だから重い背嚢【はいのう】を背負って駆け足で行軍し、疲れたらトラックの荷台と交替して、今度はトラック乗車隊が駆け足するという行軍です。

「バターン死の行軍」などいうデマが戦後まかり通っていますが、こちらは同じ50キロを4日がかりです。
護送された米兵たちは、手ぶらでのんびり歩き、日本軍は猛暑の中を重装備を付けたまま、米兵100に対して1名で護送しています。
米兵たちは、途中でポーカーを楽しんだり、あげくは海水浴までして、行軍をエンジョイしていました。
まさに「Walking Park」です。
ところがそんな行軍が、「死の行軍」と書き換えられているのです。

廊坊駅への援軍のための行軍は、まさに地獄のような行軍となりました。
重い装備を担いで、一晩中走り通しだったのです。

一方、廊坊駅の100名は、なんと明け方まで6000人もの国民党の大軍を相手に果敢に戦い、もちこたえました。
どんな戦いだったのか想像してみてください。
昼間、きつい行軍をして、やっと深夜、廊坊駅にたどり着いたのです。
そこで汗水流して通信施設の修繕をしていたら、いきなり銃撃を受け、応戦したら戦争になるからと、ひたすらガマンして応射しないでいたら、今度は迫撃砲を撃ち込まれ、やむなく応戦を開始したけれど、友軍の到着には、4〜5時間を要し、その間、ただひたすら、防戦をし続けたのです。
どれだけの苦労だったか。

日本軍の司令部は、夜明けとともに、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している様子が上空から見て取れたそうです。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、China兵が円状に群がっていたのです。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがあったといいます。

パイロットは、日頃の修練の業で、China軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいるChina兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせています。
もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを助けようとしたその飛行兵の思いと行動には、目頭が熱くなります。

26日の午前8時、やっと丘の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えました。
するとどうでしょう。
重装備の6000のChina兵たちは、日本の応援部隊が遠くに見えたとたん、算を乱して逃げ出したのです。

これが26日の朝の出来事です。
China兵たちが逃げた先が、通州です。
そして7月29日に起こったのが、通州事件です。

さて、この廊坊事件について、China国民党は、当時、次のようなステートメントを発表しました。

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7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、
「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第29軍 第38師 第113旅の
旅長である劉振三は撤退を要求したが、
日本軍はそれを拒否した。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、
更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。

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まったく、どの口から、これだけの嘘が、いけしゃあしゃあと出てくるのか、と思います。
事前にちゃんと了解をとりつけていたのに「駅を占拠した」。
駅でもちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「彼らは撤退を要求した」。
実際には午前11時10分にChina国民党軍側から発砲しているのに「午前0時に日本軍がChinaに発砲した」。
さらに自分たちから迫撃砲まで撃ち込んできていたことは、口にチャックで知らん顔です。
そして最後は、「撤退した」とはおそれ入谷の鬼子母神です。

さらにいえば、6000対100という、圧倒的な戦いでありながら、日本軍を壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出しています。
よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

そしてその「撤退した」というChina国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、Chinaや共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。
客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

ちなみにChineseは、この手の嘘を、嘘だと思っていません。
彼らにとっては、面子(メンツ)こそが大事であり、メンツを立てる事こそが正義です。
ですからこれは「嘘」ではなく、このステートメントが「正義」です。

ここは大事なところです。
日本は、民衆が「おほみたから」とされる国です。
ですから正義とは、誰もが納得できる民衆に利があるものが正義です。
けれどチャイナは、民衆はただの雑草です。
民衆がどうなろうが、上に立つ人の体面(メンツ)こそが大事なのです。
要するに「正しい」ことの根本概念が違うのです。
これは今も昔も変わりません。

日本の学者で、Chineseは信頼できる民族とのたまう人がいます。
ものすごくやっかいでわかりにくいことですが、そういう嘘を言うことが、Chinaに染まった人たちにとって「正義」です。
このあたりは、しっかりとわきまえないと、大怪我します。

※この記事は2016年7月の記事のリニューアルです。

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