『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人第三巻』は、戦争をテーマにしています。
その三巻から、「北海道を守った占守島の戦い」をご紹介します。
毎年この時期に掲載しているものです。
こうした旧軍人さんの果敢な戦いがあって、いま北海道は日本の領土です。
さもなくば北海道は戦後「北方領土」と呼ばれてロシアの占有下に置かれていたことでしょう。
歴史を知ることは、私達が守らなければならないものは何かを学ぶことです。

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士魂部隊、池田聯隊長
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 作家の司馬遼太郎は、昭和の軍人に対しては批判的な小説家として知られています。
特に自身が戦車隊員だったときの衝撃的な体験により、戦車隊のことは必ずしもよくは書いていません。
その司馬遼太郎が、戦車学校校長だった池田末男少将に対してだけは、たいへんに尊敬する人物として著書の中で紹介しています。

 池田少将は愛知県豊橋市出身の方です。日本の戦車戦の理論(機動戦理論)を構築し「戦車隊の神様」と呼ばれていました。
戦車学校教官当時には「戦車隊教練規定」という教程を編纂し、同校校長に就任しています。

昭和20(1945)年1月、戦車学校校長から戦車第十一聯隊長に転任しました。
漢字で縦に「十一」と書くと「士」の字に見えることから、いつしかその戦車隊は「士魂部隊」と呼ばれるようになっていました。
士魂部隊は精鋭の集まりでした。

そして終戦のとき、士魂部隊は北海道の沖合に浮かぶ千島列島の最北端「占守島」にいました。
池田隊長は豪放磊落かつ温和な性格です。
部下の誰もが池田隊長のことを心から信頼していました。

こんなエピソードがあります。
占守島は、夏場でも気温が十五度を上回ることがありません。
日中は濃霧に覆われ、冬場は気温が零下30度に下がります。雪は電信柱が埋まるほど積もり、風速30メートルもの猛吹雪が吹き荒れることもあります。

その身を切るような寒さの占守島で、池田隊長は絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったそうです。
全部自分で冷たい水に手を入れて洗濯していました。
本来なら洗濯は、当番兵の仕事です。
申し訳なさそうにしている当番兵に、池田隊長はこう言ったそうです。
「お前はオレに仕えているのか?
 国に仕えているんだろう?」

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国籍不明の大軍、上陸を開始
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昭和20(一九四五)年8月15日は終戦の日です。
多くの方が、この日をもって戦争は終わり、各地での戦いにも終止符が打たれたと思っています。
しかし、それは違います。
終戦で日本軍が武装解除したあとも、実はいくつかの地域で戦闘が行われているのです。
そのひとつが、占守島です。

8月17日、重要書類を焼却し、翌日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一聯隊本部で池田聯隊長を囲み、酒を酌み交わしました。
池田聯隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら陽気な酒盛りになるのですが、この日だけは、しんみりとした雰囲気につつまれていました。

彼はまだ若い木下弥一郎少尉に、
「木下、十五日以降、俺は廃人になった。
 お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話していたそうです。

酒の席も解散になり、みんな早々に床につきました。
軍隊は朝が早いのです。
そして隊員たちが寝しずまった、深夜一時のことです。

占守島の隣、幌筵島(ほろむしろとう)にある第九一師団本部から、突然、占守島北端の国端岬一帯に、国籍不明の上陸用舟艇が接近し、数千の兵員が強襲上陸してきたとの報が飛び込んできます。
武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はありません。
ということは、あきらかに武力による侵略行為です。

東浜海岸の竹田浜に展開していた部隊は、二個小隊(約80名)だけです。
彼らは岬の洞窟にあった野戦砲二門で、上陸してくる敵に向かって砲撃を開始します。
しかし武装解除をしている最中の襲撃です。
日本軍陣地は隙間だらけで、やすやすと上陸した敵兵は霧にまぎれて島の奥へと進入を試みます。
占守島北部の四嶺山にいた二八二大隊本部は、敵上陸の一報を受けると、すぐに全部隊を戦闘配置につかせます。

この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
深夜、しかも夏場の濃霧の時期です。
視界が不十分ななか、二八二大隊は上陸した敵兵を迎え撃つとともに第二段の上陸にそなえます。

最初の上陸は敵の先遣隊でした。
3時30分、こんどは敵の主力が上陸を開始します。
上陸と開始に、対岸のカムチャツカ半島の突端にあるロパトカ岬から砲撃をしてきました。
これで、敵が誰なのかがはっきりとしました。
ソ連です。

このとき来襲したソ連軍は、約一個師団。
上陸部隊八千数百名、艦艇五十四隻からなる大部隊だったのです。

こういうとき、ものをいうのが日頃の訓練です。
日本軍は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちしました。
そして敵の輸送艦三隻、上陸用舟艇十三隻を撃沈しています。
そのなかには、敵指揮官が乗る舟艇も含まれていたため、敵軍団を一時、無統制状態に陥らせます。

それでも敵は八千数百名なのです。
竹田浜で応戦をしていた日本軍は、わずか六百名です。
敵は多数の死傷者を出しながらも、続々と後続部隊を上陸させてきます。
そして内陸部に侵攻を開始し、二八二大隊本部が守る四嶺山へと迫っていきました。

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女子工員を避難させよ
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当初、報告を聞いた第九一師団参謀長は、国籍不明といってもアメリカ軍だと思っていました。
8月12日にアメリカ軍が千島列島に砲撃を加えていたからです。
それが相手がソ連と分かったときは、びっくりしたそうです。
参謀長は、軍使が来たのだけれど、何かの手違いで戦闘に発展したのかとも考えましたが、時間が時間ですし、加えて何千という兵力です。
これはもう、ただ事ではありません。

第九一師団長、堤不夾貴中将は直ちに迎撃命令を発します。
「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

占守島南端に司令部を置く第七三旅団は、北の要衝・大観台に二八三大隊を急行させ、司令部とともに他の全部隊を島の北部に移動し、ただちに交戦を開始しました。

幌筵島の第七四旅団も増援部隊を占守島に送ります。
第五方面軍司令官樋口季一郎中将は、濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊八機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。

師団本部は迎撃作戦と同時に、ある計画を立てました。
実は占守島には、日魯漁業の缶詰工場があり、二千五百名の民間人がそこで働いていました。
戦時中、莫大な量の糧食を日本は外地に補給していました。
なかでもこの占守島で生産される魚類の缶詰は、貴重なタンパク源として、外地で戦う日本の軍人にとってなくてはならないものでした。
そしてその工場の従業員の中には、約四百名の若い女子工員が含まれていたのです。

「このままでは、
 女子工員たちは必ずソ連軍に陵辱される。
 なんとしてもあの娘たちを
 北海道へ送り返さなければならない」

師団長は戦闘中の女子工員避難計画を決断します。
ソ連航空機による爆撃が続く中、第九一師団は、必死で高射砲の一斉射撃をして、爆撃機を追い払いました。
敵上陸部隊にも集中砲撃をあびせます。
海上の艦船を、漁船の出港が見えない位置に釘付けにするためです。

そしてこの隙に、島にあった二十数隻の漁船に、日魯の女子工員たちを分乗させ、港から北海道に向けて出港させました。

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この危機にあたり白虎隊とならん
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一方、敵上陸の一報を受けた池田聯隊長は、天神山の南三キロに本部を置く戦車第四中隊を、先遣隊として竹田浜に急行させます。
午前2時30分のことです。
この部隊が島の北部に近く、偵察に適した軽戦車を配備していたからです。

同時に池田聯隊長は、各所に分散していた戦車中隊に命令を下達し、天神山に集合させます。
このとき戦車聯隊は、戦車の武装を分解中だったのです。
つまり、すぐには出撃できない状態にありました。
それでも総員が必死で武装を取り付け、直ちに天神山に集合しました。

部隊が集合すると、池田聯隊長は各中隊長、小隊長を集め、作戦の打ち合わせを始めました。
そこへ、先遣隊の第四中隊が戻り、前線の状況が伝えられます。
「敵は竹田浜に自走砲や重火器を揚陸中なるも、
 戦車はなし。
 上陸した敵は二手に分かれ、
 一方は大観台に展開する二八三大隊と交戦中。
 一方は四嶺山を包囲し二八二大隊は孤立している模様」

池田聯隊長は全隊員の前で訓示します。
「諸士、ついに起つときが来た。
 諸士はこの危機にあたり、
 決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
 もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、
 後日に再起を期するか。
 白虎隊たらんとする者は手を挙げよ」

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れたのです。
そして、その場にいた全員が見たのです。

それは、霧でおぼろにしか見えなかった隊員たち全員が、挙手している姿でした。
士魂部隊は、全員、白虎隊となることを選択したのです。

池田聯隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
そして、大声で言いました。
「上陸軍をひとり残さず、
 海に叩き落とすまで奮闘せよ!」

若い木下弥一郎少尉は、池田聯隊長のそばにいました。
しかし、定員オーバーで戦車の中に入れません。
池田聯隊長は、木下少尉に命じました。

「木下、
 お前は旅団司令部の杉野さんのところへ
 連絡将校として行っておれ」

戦車学校時代から池田聯隊長とずっと一緒だった木下少尉は、にわかに離れがたく、そのときぐずぐずしていたそうです。
すると池田隊長は、
「早く行け!」と怒鳴りました。

そして走り出した戦車から上半身を出すと、振り返って言いました。
「木下、お前は助かれよ。
 命を捨てるなよ」
これが、木下少尉が見た池田隊長の最後の姿でした。

「天与の好機逸すべからず。
 各隊長は部下の結集を待つことなく、
 準備のできたものから余に続くべし!」

午前5時30分、聯隊は前進を開始し、島の北端に近い大観台を過ぎました。
午前6時20分、聯隊は二八二大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出しました。
そこにはすでにソ連軍の一個中隊、約二百名が山を越えてきていました。

池田聯隊長は、これを突破して四嶺山頂に進出する決心をし、師団、旅団の両司令部に打電します。
「池田聯隊は四嶺山の麓にあり、
 士気旺盛なり。
 〇六五〇、
 池田聯隊はこれより敵中に突撃せんとす。
 祖国の弥栄と平和を祈る」

そして午前6時50分、池田聯隊長が日章旗を振り下ろすのを合図に、士魂戦聯隊は四嶺山に向けて進撃を開始します。
敵の機関銃、迫撃砲がいっせいに火を噴き、銃弾が横殴りの雨のように降り注ぎました。
濃霧で敵が見えず、敵の発射光だけが頼りでした。
四嶺山の南斜面を駆け上がりながら、砲弾を撃ちまくり、車載銃は蟻のようにはい出てくるソ連兵を次々になぎ倒していきました。

これを見た二八二大隊は、高射砲の援護射撃を繰り出します。
敵も四嶺山に総攻撃をしかけ、四嶺山一帯で激戦が繰り広げられました。
被弾した戦車からひとりの将校が飛び出すと、軍刀を抜き、何人かのソ連兵を切り倒したあと、壮絶な最期を遂げました。

そしてマレーで名を馳せた丹生少佐が敵弾に倒れました。
そのとき池田聯隊長は、にわかに縄を出して丹生少佐の遺体を自分の戦車の後部に縛りつけたそうです。
池田聯隊長は丹生少佐ととても親しくしていたのです。

池田聯隊長は砲塔の上に上半身を露出させたまま日章旗を振り続け、なおも全軍に前進を命じていました。
死角が多い戦車にとって、濃霧は非常に不利な条件です。
本来なら戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのです。
しかし急な出動です。
協力できる歩兵はいません。

戦車隊とソ連歩兵の肉弾戦は、およそ四十分にわたって繰り広げられました。

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総力をもって敵を殲滅せよ
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7時30分、南側の敵を殲滅し山頂に到達しました。
霧が薄くなってきた山頂から見下ろすと、四嶺山の北東約五百メートルのところに、敵歩兵の大軍が陣を構えています。

7時50分、池田聯隊長は、「丹生、貴様も戦場に連れてってやるからな」と言うと、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じました。
約四十両の戦車です。
その戦車隊が、池田隊長の指揮のもと、一斉に敵の群がるど真ん中に突入していきました。
その姿は、さながら運用教範の実演の如く、見事な隊形だったそうです。
さすがは戦車隊の神様。
さすがは士魂部隊。

いったんは混乱し、潰走しかけたソ連軍ですが、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約百挺の一三ミリ対戦車ライフルと、四門の四五ミリ対戦車砲を、士魂部隊正面に結集させ、激しい反撃をはじめました。

装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、一台、そしてまた一台と沈黙していきます。
友軍の戦車が炎上するなか、それでも士魂部隊は、下り坂に車体を弾ませながら、敵陣に向け前進を続けます。
戦車砲は休む間もなく火を噴き、装填が間に合わないときは敵兵をキャタピラで踏みつけていきます。
天蓋から顔を出そうものなら、敵弾が一気に集中するため、搭載銃は使えません。

四嶺山の二八二大隊も、全火力で士魂部隊を援護します。
さらに大観台の二八三大隊も駆けつけソ連軍陣地に襲いかかります。

士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍はついに竹田浜方面に撤退したのです。
この戦いで、士魂部隊の戦車二十七両が大破。
そして池田隊長以下、96名が戦死しました。

池田聯隊長車は山頂で前進を命じてから約三十分後、対戦車砲を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し、擱坐(かくざ)炎上したのです。
しかし池田隊長の戦車は、炎上しながらも、しばらく前進しました。
その姿は、まるで死しても前進を止めない隊長の魂が、戦車に乗り移ったかのようだったそうです。

この戦闘の間、ロパトカ岬から砲撃をしてきた敵長距離砲に対し、重砲隊の坂口第二砲兵隊長は、九六式一五センチ加農砲わずか一門で応射、なんとこれを制圧してしまいます。
このカノン砲は、射程二十六キロメートルの当時の最新兵器でした。
霧が薄くなってきたため、敵長距離砲の火薬庫が爆破炎上するのが見えたそうです。

この正確な砲撃ひとつとっても、日ごろの日本軍の訓練がどれだけ厳しかったかを窺い知ることができます。
もしこのとき、敵の長距離砲が制圧できなければ、占守島守備隊に、もっと大きな被害が出ていたことでしょう。

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日本の勝利とソ連の思惑
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占守島守備隊は、上陸して来たソ連の大軍を北の海岸付近に押し返しました。それどころか、あと一歩でソ連上陸部隊を殲滅するところまで追い詰めていたのです。
ところが8月21日、島に第五方面軍司令部から停戦命令が届きました。
第九一師団は、ソ連軍の攻撃がまだ続いている中で軍使を派遣しました。
そして自ら進んで停戦交渉を進め、戦闘を終結させたのです。

死傷者はソ連軍三千名、日本軍七百名。
日本軍は占守島を守り抜いたのです。
そして、この戦いが日本軍が勝利した最後の戦いになりました。

守備隊のもとに、日魯の女子工員たちが「全員無事に北海道に着いた」との電報が届いたのは、戦闘終結の翌日のことでした。
そのときの守備隊のみなさんの喜びはいかばかりだったでしょう。

しかし占守島にいた日本人約二万五千名は、武装を解いた後、上陸してきたソ連兵によって民間人を含めて全員が逮捕されました。
そしてシベリアに連行されました。

シベリアに着いたとき、人数は五千名に減っていました。
途中で、理由なく殺されたからです。
生き残ってシベリアに抑留された人々も、寒さと飢えと栄養失調のために、約一割が亡くなりました。

ところで、なぜソ連は、終戦の三日後になって占守島への上陸を強行したのでしょうか。
ソ連は、ヤルタ会談で秘密協定を結び、アメリカとイギリスから千島列島はソ連領にするという言質を得ていました。
しかしソ連はそうやすやすとアメリカとイギリスが、千島列島をソ連に引き渡すとは考えていませんでした。
ですからソ連は、力ずくで千島列島を占領してしまおうと考えたわけです。
日本が降伏したあとであっても、占領という既成事実さえ作ってしまえば、あとはどうにでもなります。

ソ連は、占守島は一日で占領する計画でした。
小さな島なのです。
一日あれば十分と考えるのも無理はありません。

ところが占守島の日本の守備隊は、そうした彼らの目論見を見事に粉砕しました。
ソ連軍を殲滅しかけただけでなく、彼らを「一週間にわたり」、海岸に釘づけにしたのです。
実は、この「一週間」が、北海道の命運を決定付けました。
ソ連軍が占守島に釘づけにされている間に、アメリカ軍が北海道進駐を完了させたのです。

ソ連はその後、アメリカに対して「北海道の分割統治の要求」を行っています。
これはソ連は千島列島を占領したあと、一気に北海道まで侵攻し、領有しようとする意図があったということを、明確に示しています。

占守島に上陸してきたソ連兵は、日本兵の武装解除の後、島中で、女性を捜し回ったそうです。
が、あとの祭りでした。
もし彼女たちがいち早く島を出ることができなかったらと考えると、そら恐ろしく感じます。

実際、ソ連が満州国に攻め込んできたとき、満州北部ではまさに地獄絵図が展開されました。
尼港事件や通州事件をはるかに凌ぐ規模の虐殺、陵辱が行われたのです。
世界の常識は日本の常識とは異なります。
戦いに勝てば、負けた側の財産や女性を略奪し蹂躙し尽くす。
それが強制徴用された兵士たちへの報酬であり、それが世界の常識です。
日本国内とは違うのです。

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池田聯隊長の言葉
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当時のソ連政府機関紙『イズベスチャ』は、占守島の戦いについて、次のように書いています。
「占守島の戦いは、
 満州、朝鮮における戦闘より、
 はるかに損害は甚大であった。
 8月19日はソ連人民の悲しみの日であり喪の日である」
ソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しました。

もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、日魯の女子工員四百名はソ連兵に陵辱されるままになっていたであろうし、ソ連の計画どおり、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は朝鮮半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたことでしょう。

逆にもし占守島守備隊が第五方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれません。

不思議なことがあります。
この占守島守備隊の活躍について、戦後の教科書は一切ふれていません。
まるであたかも「なかったこと」にしているかのようです。

まれに占守島の戦いについて書いているものでも、この戦いを「無駄な戦い」「戦死者は犬死に」と一蹴しています。
実に不思議です。
それが同じ日本人の言う言葉なのでしょうか。
私には、そういう人たちの感性がまったく理解できません。

占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。
私たちは戦争で貴重な命を捧げられ、祖国を守るために立派に散っていかれた英霊たちに、あらためて感謝を捧げるとともに、彼らに恥じない日本の建設をしていかなければならないのではないでしょうか。

 諸士、ついに起つときが来た。  諸士はこの危機にあたり、  決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。  もしくは赤穂浪士の如くこの場は隠忍自重し、  後日に再起を期するか。  白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

池田聯隊長が士魂戦車聯隊の隊員たちへ向けたこの言葉が、私には、平成の世に生きる現代日本人への檄文に思えるのです。

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