いまから800年あまりの昔のことです。
ある日ひとりの女性が、歌会(うたかい)に招かれました。
歌会は、摂政右大臣が私邸で開催したものでした。
並み居る朝廷の高官たちが、ズラリと顔を揃えていました。

その日の歌のテーマは「旅宿逢恋」でした。
順番がめぐってきたときに、その女性は持参した一首の歌を披露(ひろう)しました。

 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
 身を尽くしてや 恋ひわたるべき
(なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
 みをつくしてや こひわたるべき)

女性の恋の歌にしてはめずらしく、末尾が「べき」という明確な意思を示した命令口調の歌です。
そして一聞すると、この歌は、ただ恋に命をかけるかのような歌です。

ところが、よくよく聴いてみると、この歌は
「仮寝(かりね)と刈り根」、
「一夜(ひとよ)と人の世」、
「身を尽くしと海路を示す澪標(みをつくし)」
などと掛詞(かけことば)が多用されています。
しかも「一夜をともにした相手」が難波江(なにわえ)の女性です。

この時代の難波江は遊女街でした。
つまりこの歌は、売春を職業とする遊女の「一夜の恋」を詠んだような歌になっています。

ところがこの歌を詠んだ女性は、摂政藤原忠通(ふじわらただみち)の娘で、崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院藤原聖子様付きの女官長(これを別当(べっとう)と言います)です。
いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官の統括管理部長であるという、たいへん高貴な女性です。

そのような高貴な女性が、遊女の恋の歌を詠む・・・。

「ハテ、どのような意味が込められているのだろうか」

和歌というのは、万感の思いを、わずか31文字の中に封じる芸術です。
詠み手は、その万感の思いを31文字に封じるし、読み手(和歌を聞く側)は、その31文字から、詠み手が何を言いたいのかを読み取ります。
これを「察し」と言います。

当時の高官たちというのは、そうした察する文化に長(た)けた人たちであり、幼い頃からそのための訓練を和歌を通じて学んでいました。
歌が披露されたあと、しばしの沈黙の中で、その場に居合わせた貴族の高官たちは、この歌が言わんとしている意味を考え察していきます。

すると、その場にいた政府の交換たちが、皆、凍(こおり)りついてしまったのです。
並み居る高官たちが、皆、うつむいて言葉を発することもできない。
何も言えなくなってしまったのです。

いったいどういうことだったのでしょうか。

実は、歌を詠んだ女性の上司である皇嘉門院(こうかもんいん)は、第75代崇徳(すとく)天皇の皇后であられた方です。
崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に御即位され、十歳のときに、摂政である藤原忠通の娘の聖子様を皇后に迎えました。
この聖子様が、後の皇嘉門院様です。

お二方はとても仲のおよろしいご夫妻であったと伝えられています。
けれど、残念なことに子宝に恵まれませんでした。
こうなると困るのが、聖子様の父の藤原忠通(ふじわらのただみち)です。

藤原氏の権力の源は、「国家最高権威としての天皇の外戚である」ことにあります。
つまり子がなくて、藤原の一族以外の別な女性のとの間に生まれた子が次の天皇になれば、その瞬間、藤原氏は代々続いた権力の座から追われることになってしまうことになるのです。

そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫りました。
そして天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせてしまいます。
ところが近衛天皇は、わずか17歳で崩御されてしまわたのです。

藤原忠通は困りました。
そこで、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇に就けました。
ところがこのとき、後白河天皇はすでに29歳になっています。
当時の感覚からすれば、すでに壮年。
ものごとの善悪が十分にわかる年齢です。

天皇が未成年の幼い子供であれば、藤原氏が摂政となることで、事実上、権威と権力の両方を併せ持つことができます。
何もかもが無制限に思いのままになる。
ところが29歳の後白河天皇が御即位されたということは、藤原氏の権力に制限がかかります。

加えて、3歳で皇位に就き、しかも強引に退位を迫られたのは、後白河天皇の実兄の崇徳上皇です。
表面上はともかく、すくなくとも崇徳上皇が、藤原忠通のことをよく思ってはいないであろうことは、容易に察しがつきます。

そしてこのことが意味することは重大です。
もしも、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が手を結べば、500年続いた藤原氏の栄華は、そこで終わりになる可能性があるのです。

間の悪いことに、我が国では天皇には政治権力は認められていませんが、天皇を退位して上皇になれば、上皇は藤原忠通、つまり摂政関白太政大臣よりも政治的に上位の権力者となります。
つまり崇徳上皇が、事実上の国家最高権力者となるのです。
その国家最高の政治権力と、国家の柱であり中心核でもある国家最高権威としての天皇が、ご兄弟で手を結べば、藤原の一族は、代々続いた権力の栄華を失うことになりかねない。

藤原忠通の、そういう心配がわかるから、崇徳上皇は、意図して政治に関与しないで、日々歌会などを催していましたし、忠道の娘である上皇后の皇嘉門院をとても愛していらされたのです。
つまり崇徳上皇は、できるだけ事を荒立てないように、日々、配慮されていたのです。

けれど、そうして崇徳上皇が政治に無関心を装えば装うほど、藤原忠道には、それが裏で何かを画策しているかのように見えてしまう。
人の心は、ひとたび疑心暗鬼の虫が宿ると、そこから逃れられなくなるのです。

ついに藤原忠通は、、「崇徳上皇に謀叛の兆しあり」という、あらぬ疑いをでっちあげると、後白河天皇の宣旨を得て、平清盛らに命じ、ついに武力を用いて崇徳上皇を逮捕し、讃岐に流罪にするという暴挙に出るのです。
これが保元の乱(1156年)です。

こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流されました。
このとき上皇后の聖子様は皇嘉門院と名乗って都に残られたのです。

政治の争いは、世の不穏を招きます。
そして保元の乱には、さらに大きな問題をはらみました。
この乱では、朝廷内の権力闘争に武力が用いられたのです。
紛争の解決手段が、話し合いではなく、武力に依った。
それはつまり、「話し合い」よりも「武力」を優先することが正義であると、国の政治がみずから認めたことを意味するのです。

中央の乱れは、世間の乱れを誘います。
こうして世の中は、「力さえあれば何をやっても許される」という、鎧を着た武者が、むき出しの大薙刀を持って市中を闊歩(かっぽ)する時代へと移っていくのです。

世は乱れました。
貴族たちが優雅に歌会などを開いている間にも、都をはじめ巷(ちまた)では、殺し合いが平然と起こるようになりました。
そんな折に、右大臣の私邸で歌会が催され、聖子様が皇后時代からずっと付き従い、聖子様が剃髪して皇嘉門院となられてからも、ずっと付き従っている元皇后陛下付きの女官長であり、いまは「皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)と呼ばれている女性が歌会に招かれたのです。

彼女は持参した歌を披露しました。
歌は、意訳すると次のような意味になります。

「難波の港に住む遊女であっても、
 短い一夜限りの逢瀬に
 一生忘れられない
 恋をすることがあると聞き及びます。

 朝廷の高官たちは、
 一夜どころか、
 神代の昔から天皇を中心とし、
 民を思って先祖代々すごしてきました。
 
 そのありがたさを、その御恩を、
 たった一夜の『保元の乱』によって、
 あなたがたはすべて
 お忘れになってしまわれたのでしょうか。

 父祖の築いた平和と繁栄のために、
 危険を顧みず
 身を尽くしてでも平和を守ることが、
 公の立場にいる、
 あなた方の役割なのではありませんか?」

歌の解釈の仕方、どうしてそのような意味になるのかについては、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』に詳しく書いていますので、ここでは省略します。
ただ、皇嘉門院の別当という、ひとりの女性がたった一首。

 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
 身を尽くしてや 恋ひわたるべき

と歌を披露したことで、わずかな間をおいて、その場に居合わせた並み居る高官たちが、ただ黙って下を向くしかなかった。
なぜなら、堂々と叩きつけられた皇嘉門院別当のその歌の内容が、あまりに正論であり、その正論の前にその場にいた貴族高官たちの誰もが、ひとことも反論できるものがなかったからです。

歌は正論であり、否定することはできません。
さりとて、認めれば、自分たちがアホのやくたたずであることを認めることになってしまう。
だから、できることといったら、ただうつむく以外なかったのです。

皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに人が人を平気で殺す世の中になっていました。
このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあります。
しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院様に及ぶかもしれない。

おそらく別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
「この歌の出詠は、
 あくまで私の独断で
 いたしたものとします。
 皇嘉門院様には
 決して咎が及ばないようにいたします」
と事前に許可を得ていたことでしょう。

そして別当からこの申し出を聞いて許可した皇嘉門院様も、その時点で自分も死を覚悟されたことでしょう。

つまりこの歌は、単に別当一人の歌にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
そういう戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。

なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。

「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性は、堂々と男たちと対等な存在として、立派に生きていたのです。

イザナギ、イザナミの時代から、男女は対等。
それが日本の文化です。

※この記事は2015年10月のねずブロの記事のリニューアルです。

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