台湾の若手親日家の李久惟先生のご著書『日本人に隠された真実の台湾史』から、この士林にまつわるお話をひとつご紹介してみようと思います。
感動です。

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『日本人に隠された真実の台湾史』
李久惟著 P201〜205より

明治28(1895)年に、日本は台湾を領有するのですが、そのとき、この芝山巌にある廟の「恵済宮」の敷地内に、学校を開き、付近の子どもたちに日本語を教えました。
派遣された教師は、6人の日本人でした。

楫取道明(かとりみちあき)先生
(山口県、38歳、吉田松陰の妹・寿と初代群馬県令楫取素彦の次男)
関口長太郎(せきぐちちょうたろう)先生
(愛知県、37歳、愛知西尾小学校校長)
中島長吉(群馬県、25歳)
桂金太郎(東京都、27歳、東京府士族)
井原順之助(山口県、23歳)
平井数馬(熊本県、17歳)

彼等はのちに「六士先生」と呼ばれ、教育の鑑(かがみ)とされました。
台湾に日本精神を教える最初の6人の先生が彼らだったのです。

その当時、初代台湾総督に就任した樺山資紀(かばやますけのり)に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ優先すべき」と教育の必要性を訴え、日本全国から集めた人材を連れて初めて台湾に渡ったのが、台湾の初代学務部張(教育のトップ)の伊沢修二という人物でした。

彼は長野の伊那の人ですが、東京師範学校(現・筑波大学)や東京音楽学校(東京芸術大学の前身)などの様々な大学の学長を歴任し、貴族院の議員を務めたり、ハーバードに留学したりとかしている人で、音楽家でもあります。

日本人として最初に電話を使い、「もしもし」という言葉を残したのが、彼と金子堅太郎という人です。
ベル研究所から依頼されてアジアとアメリカの長距離国際電話をかけた際、「申します、申します」と言ったのが、「もしもし」の語源になったという、その人です。
また小学校、中学校で歌われる、特に戦前、明治時代につくられた歌のほとんどに関係しています。

日本精神とかもそうですけど、「教育勅語」を台湾に広める役割も果たしています。
その関係で、六士先生のお墓が台湾にあるのです。

お墓の近くに記念碑があって、そこにその当時の首相の伊藤博文と台湾の初代学務部長の伊沢修二との関係などが書かれています。
その記念碑は、何回も政権によって倒されては、地元の人によってまた修復されるという歴史があるのです。
墓のほうも長い間ずっと守られ、いまだに墓守たちがいて、いつも墓地をきれいにしています。

前述のようにこの6人の先生が最初に「教育勅語」と日本精神というか、日本語を含めた日本の文化とかを教えるわけですが、彼らは日本から特別に選ばれた優れた人物ばかりです。
場所は寺や廟を借りて、そこを日本の寺子屋のようにして教えるのです。

ところが日本が台湾を領有した直後の混乱期にあって、台湾には山賊、海賊の集団が各地にまだたくさんいました。
台北の治安が悪化し、匪賊による暴動が頻発したため、地元の民は教師たちに避難を勧めたのですが、彼らは
「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかったのです。

翌年の1896年に、案の定、日本統治に反対する匪賊の一団が学堂を襲撃し、彼らは犠牲となり殺されてしまうのです。
台湾に来て、それほど経っていない頃で、正月元旦に参拝したあとに、帰る途中で襲われてしまったのです。
6名の教員たちは抵抗することなく、匪賊に対して最後まで教育の大切さを説いたと言われています。

その事件に関して、地元に前からあるものと、あとの政府がそこに建てた記念碑に書かれている内容が違うのです。
われわれにとって犯人たちは匪賊で間違いないのです。
しかし別の見方では、義民と書くわけです。
政権によって、抗日の義民とされたのです。

でも、おかしな事実があります。
実は金品を取られているのです。

戦後、大陸から来た政権は、あらゆる材料を反日のために使おうとします。
しかし、なぜ地元の人は悲しみ、そしてその後今日に至るまで必至に六士先生を守ろうとしているのかということですね。
墓守や廟の人たちも必死に守っています。

戦後、台湾に進駐してきた軍事政権によって、近くの神社や墓石、記念碑はたびたび破壊されたのです。
しかし住民たちによってそのたびに修復されました。
六士先生の墓石も、彼らを慕う地元の人々によって再建されました。
その他の記念碑も地元の文化財として保存されることになったのです。

それで地元の反発を招くと思い、存続させる代わりに、逆手にとって反日教育の教材にしようとして説明をつけたのです。だから二つの力が働いていて、今でもせめぎ合いをしているわけです。
それが六士先生にまつわる台湾の状況です。

芝山巌学堂は、その後は士林公学校となり、場所は変遷を経て、現在の士林國民小学校に受け継がれています。
彼らのおかげで日本精神という言葉がそのあと台湾に根付くのです。
その原点となったのが六士先生です。

6人も殺されたので、あとから来る人たちは普通は二の足を踏むじゃないですか、自分たちも殺されるかもしれないと。
でも、あとからあとから、殺されても教えに行かなければいけないという使命、天命を感じた人たちがやってきて、台湾の教育が開かれているのです。

いまだに六士先生の廟は、ひとつの参拝ルートとして、たくさんの人たちが訪れています。

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非道に対して非道をもって挑めば、結果としては暴力的殺し合いにしかなりません。
一方、正道をもって臨んでも、犠牲が出ることがあります。

殺された六士先生の、おひとりおひとりには、それぞれご家族もあります。
そして先生方は、この時代の人ですから武芸をやっています。
最低でも剣道、柔道を身に着けていたであろうと思います。
つまり殺しに来た暴徒(匪賊)たちに、刃向かい抵抗して斬り死にしようとすれば、それはできたであろうし、生き残れた可能性も高いのです。
あるいは活路を開いてその場を逃れることもできたかもしれません。

けれど6人の先生は、それをしませんでした。
どこまでも話し合い、匪賊達を調伏しようとしました。
なぜでしょう。
暴力渦巻く当時の台湾にあって、暴力より教育を広げたかったからです。

暴徒たちを力でねじふせても、また次の暴徒がやってきます。
いまの反日サヨクや在日と同じです。
力でねじ伏せても、また次のアホがやってくる。

そうではなく、人にはもっと大切なことがあるということを教化していく。
そのために台湾に渡ったのです。
そして渡ると決めたときに、すでに命は捨てていたのです。
けれど、仮に台湾の地で死ぬことがあったとしても、魂はその地に残り、台湾の人々の精神となって生き続ける。
だから、6人も死を選択したのです。

これが肉体は魂の乗り物という日本古来の武人の考え方です。
「その場で勝てば良い」ではない。
最終的な勝利とは、道を正し、斜めのものを真っ直ぐにしていくことです。
だから我が国では、武のことを古代には「たけふ」と言いました。
たけは「竹」でもあります。
真っ直ぐで、しかも節があって折れない。

その結果は、どうでしょう。
国家の力で歴史を捏造しようとする政権が、台湾で70年にわたって日本統治を消し去ろうと、六士先生の碑を撤去し、六氏先生とまで書き換えても、それでも台湾の民衆は六士先生の名前を「士林」として残しています。
そして士林市場は、世界的に有名な観光スポットです。
いまさら市場の名前を変えられない。

こうして正道を貫こうとしてきたのが日本人です。
そうやって我慢して我慢して、どうにもならなくなったとき、はじめて日本は兵をあげています。
戦後の日本では、すっかり洗脳工作にやられてしまって、そうやってこらえにこらえ、ガマンにガマンを重ねながら、最後に勇気をもって戦った私達の父祖を、いたずらに悪くいう風潮があります。
まことに残念なことに思います。

台湾では、前の政権がこの「六士廟」を「六氏廟」と書き換えました。
士族の「士」、武士の「士」を、故意に「氏」に書き換えることで、歴史を葬り去ろうとしているわけです。
けれど、台湾の人たちは、市場に「士林」と名づけました。
そして「士林市場」は、いまや世界的な台湾の観光スポットとなっています。
そうやってしっかりと名前を残そうとしていてくれているのです。

日本人は、いったいいつまで、アホのままでいるのでしょうか。

今日のお話は、台湾人の李久惟先生のご著書からの抜粋です。
この『日本人に隠された真実の台湾史』には、こうした台湾と日本の関わりを示す様々なエピソードが紹介されています。

※この記事は2015年9月の記事のリニューアルです。

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六士先生” に対して1件のコメントがあります。

  1. 由美子 久米 より:

    六士先生について知りたいと思っていました。ありがとうございました。台湾に渡る際にすでに、死も頭にいれ、賊に襲われても、教えをとき抵抗しなかった。このような方々がおられたことを日本人自体も知って置かなくてはなりません。

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