明治のはじめに「ロベルトソン号事件」というものがありました。
そのことが、戦前の尋常小学校の4年生の修身の教科書で紹介されています。
まず、その本文をご紹介します。

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尋常小學修身書 巻四
第二十 博愛(はくあい)

明治六年、はるばる支那へやってきたドイツの商船ロベルトソン号は、ある日、海上で大あらしにあいました。
船は帆柱を吹き折られ、ボートを押し流され、荒れ狂う大波に三日三晩ゆられて、九州の南の宮古島の沖に吹き流されて来ました。
しかし運悪く、暗礁に乗り上げてしまいました。船員たちは、波にさらわれまいと、こわれた船に一生懸命に取り付いて、助けを求めました。

ロベルトソン号の難船を見つけた宮古島の見張りの者は、さっそく役人に知らせて、人々を呼び集めました。
役人は、よりぬきの漕ぎ手や医者を連れて駆けつけ、村々の人たちと一緒に助け舟を出しました。
しかしさかまく荒波を乗り越えて進むことは、どうしてもできません。
その上、やがて日はとっぷりと暮れました。
人々は、仕方なく引き返しましたが、陸(おか)にかがり火をたいて、難船をした沖の人たちをはげましながら、夜を明かしました。

あくる日は、風もおとろえ、波もいくらか静かになりました。
島の人々は、
「今日こそは」
と勇み立ち、飲水や、かゆなどを用意して、大波の中へ乗り出しました。
あぶない岩の間をくぐり、大波にゆり上げられゆり下げられながら、力の限り漕いで、やっとロベルトソン号にたどり着きました。
そうして、身の危険も忘れて、疲れ切っている船員たちを、残らず助けて帰ってきました。
危ない命を助けられた船員たちの喜びは、どんなであったでしょう。

島の人々は、薬を飲ませたり、怪我の手当をしたりして、船員たちを介抱しました。
しかし言葉が通じないため、どこの人だかわかりません。
そこでいろいろの国の国旗を取り出して見せて、はじめてドイツの人であることがわかりました。

その後一ヶ月あまりの間、親切に世話をしているうちに、みんな元気になりました。
そこで船を貸して本国へ帰らせました。
出発の日には、島の人々は、海岸に出て、鐘や太鼓をたたいて見送りました。
役人たちは船に乗って水先を案内しながら、はるか沖合まで送って行きました。

船員たちは、月日を重ねて無事に本国に帰り着きました。
そうして、嬉しさのあまり、会う人ごとに、親切な日本人のことを話しました。
そのことが、いつかドイツ皇帝に聞こえました。
皇帝は島の人々の親切をたいそう喜んで、軍艦を送って宮古島に記念碑を建てさせられました。
その記念碑は、いまもなお残って、ながくこの博愛の美談を伝えています。
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ロベルトソン号事件は、明治6年(1873年)7月の出来事です。
船はドイツのハンブルグからやって来た商船の「R.J.ロベルトソン号」で、貿易品である茶を福建省で積み込んで、オーストラリアのアデレードに向けて航海していたところを嵐に遭遇し、マストも折れ、救命ボートも流されて、船員の多くも海に流されてしまいます。
そしていつ沈没してもおかしくない非常に危険な状態で、宮古島の南岸へと流され、沖合のサンゴ礁で座礁したのです。

この座礁を目撃した英国の軍艦カーリュー号が、ボートを出して救出を企てたけれど、高波のため断念しています。
それほどまでに、海がひどいシケだったのです。
続いて宮古島の住民が船を発見してからが、修身の教科書に書かれた上の物語です。

座礁した船を発見した島の人々は、島から小舟を出して救出を試みたけれど、激しい暴風で救助ができない。
様子を見ていたロベルトソン号の乗組員は激しく落胆したけれど、島民は海岸でかがり火を焚くことで、難破船の乗組員を励まし続けました。

翌朝未明、高波を突いて小舟2艘を出し、船に残っていた救命ボート1艘とともに生存者8名を救出します。
救出されたのは、ドイツ人6名(うち女性1名)、Chineseの船員2名です。
その直後、ロベルトソン号は激しい波に洗われて木っ端微塵に破壊されたそうです。
まさに間一髪だったわけです。

この物語が「博愛」として修身教科書が紹介していることには理由があります。
遭難事件の2年前に、宮古の船が嵐で台湾へ漂着し、原住民によって乗組員54名が虐殺される事件(12名が生還)が起きているのです。
「知らない人は恐怖の存在」であった時代です。
島の人達にとっては、その事件の記憶がまだ新しいときに、彼らは知らない人たちが乗る難破船の乗組員の救助のために全力をあげているのです。

ちなみにこのときの台湾での事件について、当時の明治新政府は清国に厳重抗議を行っています。
ところが清国は、台湾は「化外の地」であるとして抗議を受け付けない。
やむなく日本は、独自に台湾出兵を行ないました。
そしてこのことがきっかけとなって、日台の絆が生まれることになり、日本は日清戦争後に台湾の割譲を清国に要求し、台湾の人たちは正式に日本人となり、いまなお、台湾の人たちの多くは、日本を愛してくれています。

さて、ロベルトソン号の乗組員たちの救助後です。
島民たちは、海岸に打ち寄せられたり、海に浮かんでいた船の積荷や、身の回りの品などを拾い集めて、船員たちにそのまま手渡しています。
けれど、ドイツ人の船員の一部は、
「濡れて商品にならない物などいらない」
となじる一幕があったと、これは船長のヘルンツハイムが日記に書いています。

普通、世界中どこの国においても、当時の列強と呼ばれた西洋にあってすら、漂着物等は略奪の対象になった時代です。
ところが宮古の人たちは、なにひとつ自分のものにすることなく、漂着物を丁寧にひとつひとつ拾い集めて、洗えるものはきれいに洗って船員たちに引き渡したのです。
日本人ならではの行動だといえます。

ちなみに「宮古島」は、沖縄本島よりももっと南側、ちょうど沖縄と台湾の中間に位置する島です。
おもしろいもので「宮古」の読みは「みやこ」で、それを漢字で「古い宮」と書いています。
宮古島に「マムヤ」という美女の伝説がありますが、その伝説は、マムヤがあまりに美しかったために、権力者たちが列をなして求婚したというところから始まります。
小さな島に権力者たちが集ったというところからして、大昔にはもしかすると宮古島が我が国の都であった時代があったのかもしれません。

これはまた別な稿で述べますが、日本列島の気候は、万年の単位で見ると、熱くなったり寒くなったりを繰り返しています。
寒冷化が進めば、人口が日本列島全体で20万人以下であり、土地の所有権も国境もなかった時代です。
人はより住みよい場所に移動する。
そして2万年前頃には、海面はいまよりもずっと低くて、瀬戸内海も黄海も陸でしたし、台湾は大陸と地続き、都島はいまよりもずっと大きな島で、鹿児島あたりの気候が、いまの稚内(わっかない)くらいの気候でした。
衣料がまだ十分発達していなかった時代であれば、より住みよい場所を求めて、我が国の都が宮古に置かれていても、何の不思議もなかった時代もあったわけです。

さて、島民と救助された8名は、言葉が通じなかったけれど、宮古の人々は遭難者たちを手厚く保護し、宮古島の
村番所(いまの公民館)を宿舎に提供して、米や鶏肉を与えています。

難破救出から34日後、島の人々は、たまたま宮古に寄港していた琉球王の船を彼らに与え、ドイツ人らはChinaを経由してドイツへと帰国し、このときの逸話を、ロベルトソン号のヘルンツハイム船長が、
『ドイツ商船 R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記』
と題して新聞に発表しました。

その記事を読んだドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が、宮古島の人々の博愛精神に感動し、3年後の1876年に軍艦チクローブ号を日本へ派遣します。
チクローブ号は横浜に入港し、明治政府と宮古島への記念碑を建てる相談をした後、那覇へと赴き琉球藩王を表敬訪問し、ドイツ皇帝の誕生日でもある3月22日に宮古島の中心港を見渡せる斜面に建立したのが、冒頭にある写真の記念碑です。

「博愛(はくあい)」は、訓読みすると「ひろくあまねく、いとしくおもふ」です。
「博」という字の訓読みは「ひろし」です。
たとえ自分が酷い目に遭わされたからといって、人を傷つけて良いということにはなりません。
どこまでも愛。
それが日本人にとっての愛なのだろうと思います。

学校では自虐史観を教えます。
それは、先人たちを虐(いじ)め、国を虐め、自分を虐める歴史観です。
教師が生徒に「虐めることが正しいことだ」と教えているのです。
虐めが社会問題になっていますが、なくなるわけがありません。
学校教育そのものが虐めを是とする教育になっているのです。
そうなれば、生徒は、生徒同士で正しいと信じて虐めを行います。
あたりまえの帰結です。

こうした問題の本質から目を背けたままで、虐めを無くそうという方がどうかしています。
それは水道管の元栓を閉めずに水道管を直そうとしているようなものです。触れるほどに水(問題)が噴き出す。
あたりまえのことです。

※この記事は2019年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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