
日本が第二次世界大戦を終結させたとき、それは決して敗北に屈して白旗を掲げたものではありませんでした。日本が選んだのは、自らの誇りを守り、暴力の連鎖を断ち切るという道でした。この選択こそが、将来的に国際社会において重く受け止められるべき価値観となっていくのです。
◆ 戦争とは何か──クラウゼヴィッツの見解
戦争とはそもそも何なのか。この問いに対して、19世紀初頭のプロイセンの軍人・思想家であるカール・フォン・クラウゼヴィッツが体系的な答えを提示しました。彼の名著『戦争論』は、今日においても戦争理解の基本書とされています。
クラウゼヴィッツは、ナポレオン戦争に将校として参加し、捕虜としてフランスに抑留されるという苦い経験を経て、プロイセン陸軍の改革に尽力しました。ワーテルローの戦いでは参謀長として勝利に貢献し、その後『戦争論』を執筆しました。
この著作において彼は、戦争を「暴力による国家間の決闘」と定義します。しかしその暴力は、単なる無秩序なものではなく、政治や社会、経済、地理といった要素に影響され、統制されるべきものであると述べました。つまり戦争は、外交の延長であり、政治の一環なのです。
◆ 国際社会における戦争のルール
戦争が国家の外交手段であるならば、それには当然、一定のルールが必要になります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ハーグ陸戦条約(1899年・1907年)が制定され、当時の列強諸国がこれを批准しました。この条約では、戦闘に従事できるのは正規軍、民兵、義勇兵などに限ることが明文化されました。
戦闘員とみなされる条件には以下が含まれます。
- 指揮系統の存在
- 外部から識別可能な制服や記章の着用
- 公然と武器を携帯していること
- 武器を手にした一般人も、条件を満たせば交戦者と見なされること
これらの条件を満たさない者、すなわち民間人や非戦闘員を攻撃することは、もはや「戦争行為」とは呼べません。それは単なる暴力行為であり、殺人や傷害と変わらない犯罪行為なのです。
戦争という極限状況にあっても、人道的な枠組みを失わないための国際的ルールが存在するのは、文明国家の証とも言えるでしょう。
◆ 日本と戦争法規
日本は、これら国際的な戦時法規を誠実に受け入れ、明治45年にはハーグ条約の国内法的整備として『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約』を制定しました。武士道精神を尊ぶ国として、日本はあくまでも正義と規律に則った戦争を目指しました。
こうした法の精神は、日中戦争でも守られました。たとえ相手国である中国国民党軍が国際法に無頓着であっても、日本は自らの立場を貫きました。
また、太平洋戦争(大東亜戦争)においても、初期の段階では日米両国が国際条約を順守して戦争を行っていたことは、歴史的事実として指摘されています。
◆ 民間人の虐殺と戦争の逸脱
ところが、戦争が本来の「外交の延長」という性格から逸脱し、単なる暴力と化したのが、広島・長崎への原子爆弾投下でした。これらの攻撃は、軍事拠点を狙ったものではなく、明らかに都市の民間人を対象とした無差別殺戮でした。
国際法の観点からも、非戦闘員に対する攻撃は、戦争行為ではなく、国家主導の重大な人道犯罪です。戦争における倫理や法の枠組みを逸脱したこの行為に対して、日本は決して同調することはありませんでした。
◆ 終戦という選択
1945年8月15日、日本は自主的に戦闘を終結させました。これは敗北ではなく、国家として暴力を否定し、これ以上の犠牲を避けるための決断でした。だからこそ、この日は「敗戦の日」ではなく「終戦の日」として記憶されています。
我が国は最後まで、武士道の精神に則り、戦時法規を守り抜きました。だからこそ、自らの誇りを保ちつつ、戦いに終止符を打つという選択ができたのです。
◆ 誇り高き平和国家として
「戦争に勝ちさえすれば、どんな手段も正当化される」という考えを持つ国があるのは事実です。民間人を虐殺し、戦争の本質を歪める行為が横行する中、日本は一貫して、暴力に訴えることなく、国際的な法と倫理を尊重する姿勢を貫いてきました。
これこそが、日本が世界に誇るべき姿勢であり、今後の国際秩序の中で共有されていくべき価値観です。やがて世界は、日本が暴力を否定し、誇りを持って戦争を終えた国であるという事実を、より深く理解することになるでしょう。
お知らせ
この記事は2023/08/03に投稿された『戦争が暴力に変わるとき』のリニューアル版です。
