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混乱する「南京事件」の正体とは

「南京事件」と聞けば、多くの人が連想するのは 1937 年の「南京大虐殺」です。
一般には「日本軍が無辜の市民 30 万人を虐殺した」とする説が広まっていますが、この主張には多くの疑問点があります。とはいえ、「南京で虐殺があった」という点そのものは事実として存在します。
実際には、近代以降の南京では、異なる時代・異なる勢力によって 4 度の大規模な虐殺事件が発生しており、それぞれに加害者も背景も異なります。
本記事では、それらを「第一次」「第二次」「第三次」「第四次南京事件」として、歴史的な視点から検証し、「本当にあった南京虐殺とは何だったのか?」を読み解いていきます。

第一次南京事件(1913 年)〜内戦と無秩序が生んだ悲劇〜

張勲軍の襲撃と市民への暴行

1913 年 8 月、辛亥革命後の混乱の中、袁世凱に仕えていた張勲が南京に進軍。1 ヶ月以上にわたり、市民に対する虐殺・略奪・暴行が横行しました。民間人の犠牲者は数千人にのぼり、女性への暴行も後を絶ちませんでした。

日本人居留民への被害

この事件では、日本人商店や居住区も襲撃の対象となりました。
日章旗を掲げていたにもかかわらず、日本人 10 数名が殺害され、女性も強姦され命を落と
しました。国際的にも到底許されない行為でした。

日本政府の対応と失敗

国内世論は激怒し、報復を望む声が高まりました。
しかし、日本政府は「穏便な対応」を選択し、軍事的・外交的な対処を見送りました。
その結果、政務局長が暗殺されるなど、政府への不満が爆発しました。

一方、加害者である張勲は罰を受けるどころか、江蘇都督や定武軍元帥にまで出世。
このような価値観の違いは、日本と当時のチャイナエリア社会の決定的な差を浮き彫りにしました。

第二次南京事件(1927 年)〜国民軍による「騙し討ち」〜

蒋介石軍の平和入城からの豹変

1927 年 3 月、蒋介石が指揮する国民党軍が南京へと進軍し、北伐軍として市内に入城しました。
市民は「歓迎北伐軍」と小旗を掲げ、爆竹で迎えるなど、入城当初は平和的な様子を見せていました。
ところが、突如として市街は混乱に包まれます。
反帝国主義のスローガンが叫ばれ、国民党軍の兵士たちは外国人居留地や領事館に一斉攻撃を開始。
市民の歓迎ムードを利用した“騙し討ち”のような手口で、各国の外交官や民間人が襲撃されるという暴挙が展開されたのです。

外国人領事館や民間人への襲撃

この事件では、日本人を含む多数の外国人が犠牲となりました。
日本人 1 名、英国人 2 名、米国人 1 名、イタリア人 1 名、フランス人 1 名、その他 1 名が
死亡。各国の領事館職員や市民も重傷を負い、国際的な事件として大きく報じられました。

特に日本領事館は深刻な被害を受けました。
兵士たちは銃を持って突入し、金品や貴金属を強奪。床板や便器、畳に至るまで略奪され、婦人に対する暴行も行われたとされています。警察署長や武官が負傷し、逃げ遅れた領事や関係者は家畜同然の扱いを受けました。まさに「地獄絵図」と形容されるほどの混乱が領事館内で繰り広げられたのです。

国際社会に広がった衝撃

被害は日本だけに留まりませんでした。
英国はチャイルズ領事が重傷を負い、館員 4 名が殺害。
米国は金陵大学長が射殺され、複数の外国人が襲撃されました。
南京市に居住していた在留日本人は約 500 人とされ、そのうち約 200 人が生死不明となるなど、深刻な状況に陥りました。

この第二次南京事件の本質は、武力行使そのものよりも、
「信頼を裏切る偽装入城と非戦闘員への攻撃」
にありました。国際社会の規範に明らかに反したこの行為は、各国にチャイナエリアへの警戒を再認識させる契機と
なったのです。

第三次南京事件(1937 年)〜「南京大虐殺」はどこまで事実か?〜

背景:盧溝橋・通州・上海…連続する挑発行為

1937 年、チャイナエリアでは盧溝橋事件(7 月 7 日)を皮切りに、各地で日本への挑発や襲撃が続発。
同月の通州事件では、日本人居留民約 230 名が、チャイニーズたちによって「人類史上稀」と形容されるほどの残虐な方法で殺害されました。

さらに 8 月には「第二次上海事件」が勃発。
蒋介石率いる国民党軍は、非武装地帯に秘密裏に要塞を築き、日本軍に対して大規模な攻撃を仕掛けました。
上海にいた日本海軍陸戦隊 4,000 人は、60 万の国民党軍に包囲され、やむなく応戦。
2 ヶ月半におよぶ激戦の末、ようやく日本が勝利して上海地区の治安を回復させました。
国民党軍は潰走して、そのまま南京へと向かっていきます。

南京へ敗走する国民党軍の蛮行

南京を目指して撤退した国民党軍は、道中の街や村で略奪・暴行を繰り返しました。
湖州では町が焼き尽くされ、女性が命乞いのために身を差し出すような悲惨な光景が記録されています。
南京に流入した兵士たちは市民区域に入り込み、逃げ遅れた住民を「漢奸(日本びいき)」と断じて殺害。
民家を襲って財物を奪い、女性に対する暴行、焼き討ちまで行いました。
この時点で、南京市はすでに秩序を失っていたのです。

日本軍の和平工作と入城までの経緯

日本軍は 12 月 4 日から南京を包囲。徹底した和平交渉を試みました。
飛行機からビラを撒き、無線でも繰り返し降伏を呼びかけるなど、6 日間にわたり粘り強く和平を促しました。
しかし、国民党軍は沈黙を貫き、一部では日本軍への攻撃も続行されたため、12 月 10 日午後、やむを得ず総攻撃を開始。そして12 月 13 日に南京城は陥落しました。

「30 万人大虐殺」の真相とは?

日本軍が入城した当時、南京市の人口は約 20 万人。戦闘前に大半の市民は避難しており、入城後に市民は再び戻ってきました。
むしろ日本軍の到着により治安が回復し、避難民は続々と帰還。人口はむしろ 25 万人に増加しています。

にもかかわらず、「30 万人虐殺」の説が広まった背景には、戦後の中国共産党の宣伝や東京裁判における一方的な証言があると考えられます。

実際、日本軍は南京入城後、町の秩序回復に努め、17 日には陸海軍合同の入城式典を挙行。18 日には敵味方の区別なく慰霊祭を行い、市民には医療や食料、子どもにはお菓子まで支給するなど、復興支援に取り組んでいます。
このことには証言や写真も現存しており、虐殺よりもむしろ「支援と平穏」の様子が映し出されています。
人口統計や証拠から考えても、「30 万人大虐殺」は事実として成立しません。

第四次南京事件(1949 年)〜中共軍の「解放」がもたらした虐殺〜

戦後のチャイナエリア内戦と中共の台頭

第二次世界大戦の終結後、チャイナエリアでは再び内戦が激化します。
蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる中国共産党との間で、覇権を争う内戦が本格化。第二次世界大戦における日本の敗戦に伴い、米英は蒋介石を支援し、ソ連は共産党を援助しました。

蒋介石は戦勝国の一員として国際的な地位を得ましたが、戦後になると米英の支援は縮小。
一方、共産党軍はソ連から豊富な兵器を供与され、次第に戦局を優位に進めていきました。

国民党軍による略奪と市民弾圧

敗退を続けた蒋介石は、かつて日本と協力して平和を保っていた南京へと退却しました。
南京では、戦時中に汪兆銘が率いていた親日政権の影響で、豊かで平穏な都市として機能していました。

しかし南京市に入り込んだ蒋介石軍は、この地で資産家や親日派市民を次々と弾圧。
汪兆銘の墓を暴き遺体を焼き、一族 50 名以上を虐殺。
さらに「戦時徴発」と称して金品を強奪し、治安は急速に悪化しました。

共産党軍の侵攻とさらなる惨劇

1949 年、中国共産党軍がついに南京へ進軍。
蒋介石軍は撤退し、市街には共産党軍が無抵抗で突入しました。

ここでもまた、南京市民に対する大量の殺害・暴行・略奪が発生しました。
共産党軍にとって、南京の市民は「国民党協力者」や「反革命分子」とみなされました。
資産家や商人、地主らが次々に処刑され、婦女子に対する暴行も日常的に行われました。
記録によっては、犠牲者数は 10 万人〜15 万人に上ったとされ、南京市民の約 3 分の 1 が殺されたという証言も存在します。

共産主義がもたらした「正義」の名の暴力

共産主義思想においては、資本家や富裕層は「人民の敵」とされ、彼らの命や財産を奪うことが「革命の正義」として正当化されていました。こうした思想の下、南京市で起きた大量虐殺と破壊は、“解放”という美名のもとに行われた一方的なテロ行為でした。
この事件は日本とはまったく関係のない、戦後チャイナエリアの内戦下で発生したにもかかわらず、のちに南京での「虐殺」のイメージがすべて日本に結び付けられる原因にもなっています。

まとめ:「南京事件」の真実に向き合うために

「南京事件」と一言で言っても、それは単一の出来事ではありません。
本記事で紹介したように、1913 年から 1949 年までの間に、南京では 4 度にわたる大規模な虐殺事件が発生しており、そのすべてに共通するのは、日本以外の勢力──つまりチャイナエリア内の軍閥、国民党軍、共産党軍による市民への暴力です。

  • ◯ 第一次南京事件(1913 年)
    • → 張勲軍による市民虐殺と、日本人商店の襲撃
  • ◯ 第二次南京事件(1927 年)
    • → 蒋介石軍の「平和入城」を装った騙し討ちによる、外交施設と外国人への襲撃
  • ◯ 第三次南京事件(1937 年)
    • →国民党軍の敗走に伴う略奪と市民虐殺、日本軍の和平交渉と秩序回復
  • ◯ 第四次南京事件(1949 年)
    • →共産党軍による「解放」と称した市民への虐殺、強姦、財産没収、思想弾圧

こうした歴史を振り返ると、「南京大虐殺は日本軍によって行われた」というイメージが、いかに政治的・宣伝的な目的でつくられたものかが見えてきます。
確かに、日中戦争において日本軍とチャイナエリアの軍閥軍の間で激しい戦闘があったことは否定できません。
しかし、「30 万人虐殺」という数字の根拠はなく、記録・人口統計・現地写真・証言などからも整合性に欠けています。

「どの南京事件のこと?」と問いかけることの意味

今後「南京虐殺」という言葉を耳にしたときは、ぜひ一度、
「それはどの南京事件のことですか?」
と問いかけてみてください。

歴史は単純な善悪で語れるものではなく、時代ごとの背景と立場を理解する努力が必要です。
日本軍を一方的に「加害者」と決めつけ、他の勢力による実際の加害行為に目をつぶっていては、本当の歴史の教訓を見失うことになってしまいます。

注意

本稿で対象とした時代には、まだ「中国(中華人民共和国)」は誕生していません。清王朝崩壊後の内戦期にあたります。従って本稿では「中国」と記載せず、「いま中国と呼ばれているエリア」という意味で、「チャイナエリア」という言葉を使用しました。
またこの時代「国民党軍」「中国共産党軍」とも、いわゆる「秩序ある国家の軍」ではありません。チャイナエリアの軍閥であり、彼の地では軍閥とヤクザは同じものと認識されています。

お知らせ

この記事は2018/03/07に投稿された『四度あった南京事件』のリニューアル版です。

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