
昭和天皇は何をした人なのか
昭和天皇は、戦後の日本において「国民統合の象徴」という立場を体現し続けた人物です。
しかし、「昭和天皇は何をした人なのか」という問いに対しては、時代や立場によってさまざまな見方があります。
本記事では、戦前・戦中の政治的経緯や軍事行動には深入りせず、敗戦直後からの行動に焦点を当てます。
特に、占領下の1945年9月27日に行われたマッカーサーとの会見、全国巡幸での国民との交流、そして晩年に詠まれた御製に込められた思いをたどります。
戦後の激動期において、昭和天皇がどのような行動をとり、何を国民や世界に示したのか。
そのエピソードの中から、「昭和天皇は何をした人か」 という問いに答えるための手がかりを探っていきます。
※戦前・戦中の経緯や昭和天皇の立場については、別記事にて詳しく解説します。
1945年9月27日|マッカーサーとの歴史的会見
会見に至るGHQ内の3つの方針
敗戦直後のGHQ(連合国軍総司令部)では、昭和天皇の処遇について3つの案が検討されていました。
- 東京裁判に引き出し、絞首刑に処する。
- 日本共産党を利用し、人民裁判の名の下で処刑する。
- 中国へ亡命させ、秘密裏に殺害する。
いずれの案も、昭和天皇を権力の座から排除することが前提でした。
マッカーサーの態度と象徴的なマドロスパイプ
陛下が来訪すると知ったマッカーサーは、「命乞いに来る」と予想。
二個師団を待機させ、ソファに座ったまま立ち上がらず、当時のアメリカ文化の象徴であるマドロスパイプをくわえて待ち受けました。
この姿勢は、日本に対する優位と自信を誇示するためのものでした。
昭和天皇が語った「全責任は私にある」という覚悟
昭和天皇は予想を覆し、次のように述べました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろん、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずる覚悟があります。」
さらに陛下は、国民の窮状についてこう訴えました。
「罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、深憂に耐えません。閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住のみにご高配を賜りますように。」
マッカーサーの心を変えた瞬間
君主として異例の発言に驚いたマッカーサー
世界の歴史を振り返っても、敗戦国の元首が自ら全責任を認め、国民の生活を第一に願う発言をすることは極めて異例です。
マッカーサーはこれまで、ほとんどの君主が自己保身を優先し、国民を見捨てて国外に逃れる姿を見てきました。
しかし昭和天皇は、軍閥や財閥など他者に責任を転嫁することなく、淡々と「責任は自分にある」と述べたのです。
態度の変化とGHQ方針の180度転換
この言葉を聞いたマッカーサーは、くわえていたマドロスパイプを机に置き、立ち上がりました。
陛下を椅子に促し、部下には「コーヒーを差し上げるように」と指示。
さらに、これまでの威圧的な姿勢を一変させ、まるで一臣下のように直立してこう言いました。
「天皇とはこのようなものでありましたか! 天皇とはこのようなものでありましたか!」
会見後、マッカーサーは急ぎ階段を駆け上がり、GHQの方針を180度変更する命令を下しました。
この瞬間から、昭和天皇を戦犯として裁く案は消え、日本の象徴として存続させる方向に舵が切られます。
「陛下は磁石だ」という評価の意味
後にマッカーサーは、昭和天皇について「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた」と語っています。
この言葉は、単なる礼儀や外交辞令ではなく、会見を通じて感じた人間的魅力と、国民を守ろうとする強い意思への敬意を示すものだったといえるでしょう。
全国巡幸で示した国民への思い
占領軍高官の予想と裏切られた結果
昭和21年(1946)2月、昭和天皇は全国巡幸を開始しました。
このとき、占領軍総司令部の一部高官たちは、冷ややかな予想を立てていました。
「戦争で夫や父を失った国民が、天皇に石を投げつけるだろう」
「昭和天皇が神ではなく、猫背の中年男性であることを知らしめ、民主主義の教育にするべきだ」
こうした言葉が交わされていたといいます。
しかし、結果はその予想を大きく裏切るものでした。
巡幸先で昭和天皇に石を投げる者は一人もおらず、むしろ数万単位の人々が集まり、熱心に出迎えたのです。
8年半・3万3千キロ・165日の行程
昭和天皇の全国巡幸は、沖縄を除く全国を対象に、約8年半にわたって続きました。
移動距離はおよそ3万3千キロ、巡幸日数は通算165日。
戦後の混乱期、昭和天皇は直接国民のもとへ足を運び、握手や声掛けで励ましを送り続けました。
群衆にもみくちゃにされる場面もありましたが、その姿勢は一貫して変わりませんでした。
英国や欧州メディアが驚いた“声望の維持”
英国の新聞はこう報じています。
「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で群衆は天皇に対し、超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」
欧米の多くの国では、敗戦や政変で君主の地位が揺らぐのが一般的です。
例えば、イタリアのエマヌエレ国王は国外追放となり、長男の即位もわずか1か月で廃位に追い込まれました。
そんな中で、日本の昭和天皇が国民からの支持を保ち続けた事実は、欧米の常識では理解しがたい現象と映ったのです。
なぜ国民の支持が保たれたのか
他国の君主との比較
第二次世界大戦後、多くの国で君主制は大きく揺らぎました。
イタリアではエマヌエレ国王が国外追放され、長男が王位に就くも、わずか1か月で廃位。
他国でも戦争責任や政変によって王室が権威を失い、存続できない事例は少なくありませんでした。
こうした状況下で、昭和天皇がその地位を保ち続けたことは、国際的に見ても極めて異例なことでした。
欧米人の常識では理解しがたい背景
欧米の記者や研究者にとって、日本の状況は理解しづらいものでした。
敗戦し、外国軍に占領されているにもかかわらず、昭和天皇は依然として国民から敬愛され、各地で歓迎されていたのです。
これは、日本の歴史や文化、そして天皇という存在が、単なる政治的権力者ではなく、長い時間をかけて国民の精神的支柱として根付いてきたことに起因します。
“唯一の安定点”としての役割
戦後の混乱期、日本の社会は経済的にも精神的にも不安定でした。
その中で、昭和天皇は全国巡幸や言葉を通じて国民との距離を縮め、象徴としての役割を果たし続けました。
英国の新聞が報じたように、「何もかも破壊された日本社会で唯一の安定点」であったことが、支持を維持した最大の理由といえるでしょう。
和歌に込めた戦後への思い
昭和63年の御製とその意味
昭和天皇は、崩御の前年である昭和63年(1988)8月15日、全国戦没者遺族に向けて御製(ぎょせい)を下賜しました。
やすらけき世を 祈りしも いまだならず
くやしくもあるか きざしみゆれど
この和歌には、「安らかな世を長く祈り続けてきたが、まだ実現できていない。そのことが悔しい。平和の兆しは見えるが、手が届かない」という思いが込められています。
戦後の長い年月を経ても、完全な平和や安定が到来していないことへの無念さがにじみ出ています。
“悔しい”という率直な心情
天皇という立場でありながら、「悔しい」という強い感情を和歌に込めたことは注目に値します。
これは、戦後も続く国際情勢の緊張や国内の課題を、深く憂えていた証ともいえるでしょう。
また、昭和天皇が最後まで国民の平和と安寧を願い続けていたことを示す、象徴的な言葉です。
象徴天皇としての自己認識
この御製には、政治権力を持たない象徴天皇としての自己認識と、その限界へのもどかしさも感じられます。
直接的に政策を動かすことはできなくても、国民の幸せを祈るという姿勢は一貫して変わらず、崩御の直前まで続けられました。
まとめ|昭和天皇は何をした人か
戦後日本をつなぎ、国民統合を体現した人物
昭和天皇は、敗戦直後の混乱期にあって、自らの命を顧みず国民の安寧を第一に考え行動した人物です。
マッカーサーとの会見で全責任を引き受ける覚悟を示し、全国巡幸で直接国民と向き合い続けました。
その存在は、混乱する社会の中で「唯一の安定点」として機能しました。
海外の目にも映った“象徴”としての姿
英国や欧州の報道は、昭和天皇の存在を「声望が衰えない異例の君主」と評しました。
これは、単なる政治的立場を超えた、精神的支柱としての役割を世界にも示したことを意味します。
私たちへの問いかけ
晩年の御製に込められた「悔しい」という言葉は、平和を願いながらもその完全な実現を見届けられなかった無念の表れです。
今を生きる私たちは、その思いをどう受け止め、未来につないでいくのかが問われています。
昭和天皇は何をした人か――その答えは、「戦後日本の礎を築き、国民統合を体現した象徴天皇」であったと言えるでしょう。
お知らせ
この記事は2024/08/25に投稿された『マッカーサーを心服させた昭和天皇』のリニューアル版です。
