
はじめに|終戦後のソ連侵攻という歴史の闇
玉音放送後も続いた戦火
1945年8月15日正午、日本中に流れた昭和天皇の玉音放送は、大東亜戦争の終結を告げるものでした。国民は長く続いた戦争の終わりに安堵し、武器を置いて平和な日々の再来を信じました。しかし、その直後も戦火は完全には止みませんでした。特に北方では、ソ連軍が終戦宣言を無視するかのように進撃を続け、日本領であった満州や南樺太、千島列島に侵攻しました。終戦後にもかかわらず繰り広げられたこの戦闘は、多くの民間人を巻き込み、新たな悲劇を生み出すことになります。
南樺太・真岡で起きた悲劇
終戦直後の南樺太では、真岡(まおか)郵便電信局で衝撃的な事件が起こりました。1945年8月20日、ソ連軍が南樺太に上陸し、市街地を砲撃と銃撃で襲撃。避難や疎開の通信連絡を担っていた若き女性電話交換手たちは、本土との通信を守り続け、ついに自ら命を絶つという壮絶な最期を迎えます。これが「真岡郵便電信局事件」です。戦争が終わったはずの日々に、なぜこのような惨劇が起こったのか――その背景には、終戦後も続いたソ連の侵攻という現実がありました。
ソ連の侵攻の背景
日ソ不可侵条約の一方的破棄
1941年に締結された日ソ不可侵条約は、両国が互いに攻撃しないことを約束するものでした。日本はこの条約を信頼し、戦争終結に向けた米国との講和交渉において、ソ連を仲介役として活用しようと考えていました。ところが1945年8月9日、ソ連は突如この条約を破棄し、満州・樺太・アリューシャン列島方面へ同時進攻を開始します。条約違反の奇襲は、日本にとって想定外であり、戦闘を終わらせようとしていた矢先の出来事でした。この行動は、後の国際的な非難の対象にもなります。
満州・樺太・千島列島への攻撃開始
ソ連軍は、条約破棄と同時に大規模な侵攻を展開しました。満州方面では大規模な戦車部隊と歩兵が国境を越え、南樺太では沿岸部への上陸作戦が開始されます。さらに千島列島にも進出し、戦線は広範囲に広がりました。この作戦は計画的かつ同時多発的に行われ、日本側の防衛網は対応しきれず、多くの地域で民間人を巻き込む被害が発生しました。
北海道までを狙ったソ連の思惑
ソ連の目的は、樺太や千島列島の占領だけではありませんでした。スターリンは北海道東部の占領をも視野に入れており、戦後の領土拡大を強く意識していたのです。アジア東部での影響力拡大と、戦勝国としての立場を確立するため、停戦合意後であっても侵攻を続行しました。この強硬な動きが、後の北方領土問題の火種となり、日本の終戦後の歴史に深く影を落とすことになります。
第二次世界大戦とソ連の台頭
ドイツとソ連の戦いの経緯
第二次世界大戦は、1939年のナチス・ドイツによるポーランド侵攻から始まりました。ヨーロッパで勢力を拡大したドイツは、やがてソ連への侵攻を開始します。序盤、近代兵器を備えたドイツ軍は、装備の劣るソ連軍を圧倒し、快進撃を続けました。しかし戦況はスターリングラードの戦いを境に逆転します。多くの人が「冬将軍」の影響と説明しますが、実際にはソ連が外部からの莫大な援助を受け、軍備を急速に整えたことが大きな要因でした。
米国からの巨額援助と軍備増強
このソ連の軍事力強化には、米国からの破格の支援がありました。ルーズベルト政権は、当時の為替で約4兆1,000億円、現代価値で100兆円を超える資金を貸し付け、さらに戦車や戦闘機の設計図、製造技術者までも提供します。国家財源を権力者が独占する体制だったソ連は、この援助によって短期間で近代兵器を大量生産できるようになりました。その結果、ソ連軍はドイツ軍を押し返し、ついにはベルリンを制圧するまでに至ります。
ヨーロッパ戦線勝利後に余った兵力
ヨーロッパ戦線を制したソ連には、新たに製造した兵器と、増員された兵士が大量に残りました。この余剰戦力をどうするか――スターリンが次に目を向けたのが東方、すなわち満州・樺太・千島列島でした。こうして、終戦直前から終戦後にかけての対日侵攻が現実化します。これは防衛ではなく、明らかな侵略行為であり、後の冷戦構造の一因ともなっていきました。
ソ連の東方進出と侵略行為
157万人の兵力と5,000輌の戦車
ソ連が対日侵攻に投入した戦力は圧倒的でした。動員兵力はおよそ157万人、戦車は5,000輌にも及びます。これは単なる防衛行動の規模をはるかに超えており、ヨーロッパ戦線での勝利によって余った兵力を一気に東へ振り向けた証拠でもあります。この大軍が満州や南樺太、千島列島に押し寄せ、日本軍と民間人を容赦なく追い詰めていきました。
「挑発なき攻撃」が意味する侵略
国際法上、相手からの挑発や先制攻撃を受けて行う武力行使は「自衛」として認められます。しかし、このときのソ連は、日本からの挑発や攻撃を受けていませんでした。それにもかかわらず、条約を破棄し、停戦合意後も進撃を続けた行為は、明白な「侵略」にあたります。終戦後の混乱と無防備な地域を狙ったことは、計画的かつ一方的な領土拡大の動きでした。
戦時国際法違反の行為
南樺太では、民間人の緊急疎開のための輸送船がソ連潜水艦によって撃沈され、約1,700名が犠牲になりました(1945年8月22日)。民間船への攻撃は戦時国際法に反する行為です。また、上陸したソ連兵は武器を持たない住民にも銃撃や略奪、暴行を加え、多くの民間人が命を落としました。こうした一連の行動は、軍事的勝利のためではなく、終戦後の領土拡大を目的とした暴力であり、歴史に刻まれる侵略の証拠といえます。
真岡郵便電信局事件の発端
電話交換手たちの決断
1945年8月13日、日本はソ連の侵攻を受け、南樺太でも緊急疎開を開始しました。女子や子供を優先して本土へ避難させる中、真岡郵便電信局では通信業務を継続する人員が必要とされます。郵便局の主事補・鈴木かずえさんは、朝礼で「残って交換業務を続けてくれる人を求めるが、家族と相談してから返事をしてほしい」と呼びかけました。危険を承知のうえで業務を続けることは、命を賭ける覚悟を意味していました。
危険を承知で残ることを選んだ理由
本土との通信回線は、疎開作戦の成否を左右する重要な生命線でした。輸送船の出航や救援要請のため、電話交換業務の維持は不可欠です。17歳から24歳の若い女性交換手たちは、「自分が残ります」と次々に志願しました。その背景には、故郷と仲間を守りたいという強い使命感がありました。しかし残ることは、ソ連兵の襲撃を受ける危険と、最悪の場合は自決を意味していました。
家族との別れと残留決定
斉藤春子さんと妹の美枝子さんも交換手として勤務していましたが、母親は「娘二人とも残すわけにはいかない」と局長に直訴します。局長の判断で姉の春子さんは母と共に本土へ戻され、妹の美枝子さんが残ることに。こうして最終的に、真岡郵便電信局には20名の女性交換手が残留しました。彼女たちは覚悟を決め、非常時の二交代制勤務に入り、迎えつつある危機に備えました。
8月20日、真岡への艦砲射撃
一般市民を狙った攻撃
1945年8月20日午前7時33分、真岡の沿岸にソ連軍艦が接近しました。なんの警告もなく港に向けて猛烈な艦砲射撃を開始し、街中に砲弾が降り注ぎます。多くの市民は防空壕に入る間もなく命を奪われ、町は一瞬で戦場と化しました。この攻撃は軍事施設だけでなく住宅や公共施設にも及び、一般市民を直接狙ったものでした。
市内での銃撃・虐殺・略奪
上陸したソ連兵は、動くものを見れば民間人であっても容赦なく射撃しました。家屋に侵入しては略奪を行い、女性に対する暴行も相次ぎます。郵便局へ向かう途中の折笠雅子さんも銃撃を受け命を落としました。防空壕に避難していた市民に手榴弾を投げ込み、爆死させるなど、無抵抗の人々に対する非道な行為が広がりました。
郵便局員の犠牲
真岡郵便局本館は艦砲射撃によって破壊され、内部にいた職員は全員死亡しました。局長の上田茂蔵氏は避難中にソ連兵の銃撃を受け負傷し、その場にいた人々とともに拘束されます。指揮系統を失った局には、奥の別館に勤務していた女性交換手11名が取り残されることとなり、彼女たちは迫る危機の中で通信業務を続ける決断を下しました。
乙女たちの最後
本土への最後のメッセージ「さよなら」
艦砲射撃と銃撃の音が次第に近づき、郵便局本館は完全に破壊されました。それでも別館に残った11名の女性交換手たちは、避難誘導や救援要請など、本土との通信業務を1時間以上続けます。しかし、ついにソ連兵が目前に迫り、これ以上の継続が不可能と悟った彼女たちは、交換台を通じて本土に向け最後の通信を送りました。
「皆さん、これが最後です。さよなら、さよなら」――短くも重いこの言葉が、彼女たちの覚悟を示していました。
青酸カリを手に職場を守った理由
彼女たちは、ソ連兵の襲撃によって尊厳を踏みにじられることを避けるため、青酸カリを手に取りました。裾が乱れぬよう足を縛り、整然と横たわる姿で最期を迎えたといいます。これは単なる自決ではなく、最後まで職務と誇りを守り抜くための行動でした。外から侵入してきたソ連兵は、その光景に一瞬動きを止め、なお息のあった2名を救出しましたが、残る9名は還らぬ人となりました。
生き延びた二人とその背景
救出された2名が生き延びたことをもって、「死を選ぶ必要はなかった」という意見も一部で出されました。しかし、これは現実を無視した議論です。ソ連兵にとって、意識を失った女性は「戦利品」としての対象にならなかっただけであり、もし生きたまま捕らえられていれば、他の地域で行われた数々の暴行事件のような惨劇が待っていた可能性は高かったのです。彼女たちの選択は、極限状態での尊厳を守るための最終手段だったのです。
戦後の記憶と風化
「氷雪の門」と九人の乙女の碑
真岡郵便電信局事件で殉職した女性たちの慰霊のため、北海道稚内市の稚内公園には「氷雪の門」が建立されました。白御影石の二本の塔の下には、厳しい樺太の地で生き抜いた人々を象徴する女人像が置かれています。そのそばには「九人の乙女の碑」があり、「皆さんこれが最後です。さようなら」という彼女たちの最期の言葉が刻まれています。訪れる人々は、その碑文を読み、この悲劇を初めて知ることも少なくありません。
映画公開が中止された経緯
1973年には、この事件を題材にした映画『氷雪の門』が製作され、翌年に全国公開される予定でした。しかし、モスクワでモスフィルムの所長が「ソ連にとって不快な映画が日本で公開されようとしている」と発言したことをきっかけに、全国配給は突如中止。上映されたのは北海道と九州の一部の映画館で、わずか2週間のみでした。事件の記憶を広く伝えるはずだった映像作品は、お蔵入りとなってしまったのです。
北方の地に残る緑の証
南樺太は戦前、日本人が入植し、荒れた赤土の大地を開墾して木を植え、緑豊かな土地へと変えてきました。現在でも、旧日本領であった南半分は、航空写真で見ると北半分とは異なり緑が広がっています。それは、厳しい寒冷地であっても開拓を続けた日本人の努力の証であり、真岡の乙女たちをはじめ、北方の地で命を落とした人々の存在を静かに物語っています。
おわりに|終戦後のソ連侵攻から学ぶこと
尊厳を守るための選択
真岡郵便電信局の女性交換手たちは、終戦後という本来ならば平和が訪れるはずの時期に、侵攻してきたソ連軍の暴虐に直面しました。彼女たちが青酸カリを口にしたのは、単に死を選んだのではなく、自らの尊厳を守り抜くための最終手段でした。通信を守り、疎開の成功に貢献したその行動は、戦場の前線に立たなくとも国家と仲間のために尽くした崇高な姿勢を示しています。
歴史を伝える意義
南樺太での出来事は、戦後の歴史の中でも語られる機会が少なく、風化の危機にさらされています。しかし、条約破棄による奇襲、民間人を巻き込んだ攻撃、そして犠牲となった人々の存在は、侵略の現実を伝える貴重な証言です。終戦後に起こったこの侵攻の事実を知ることは、平和の尊さを再認識し、同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠です。私たちは、この悲劇を忘れず、次世代に語り継いでいく責任があります。
お知らせ
この記事は2013/08/21投稿『ソ連南下と真岡郵便電信局事件』のリニューアル版です。
