はじめに|歴史から見える「日本に移民が少ない理由」

日本は、世界の中でも移民の割合が少ない国です。その背景には、単に地理的な条件や経済の事情だけでなく、長い歴史の中で培われてきた価値観や文化があります。

日本の歴史を学ぶうえで大切なのは、公式記録の文章だけを表面的に読むのではなく、その「行間」を読み、背景にある真実を探る姿勢です。ときには、建前上の記録と実際の出来事が異なる場合もあります。表に出る物語はあくまで「建前」であり、その裏にこそ真実が隠されていることが少なくありません。

こうした視点で歴史を紐解くと、日本人が争いをどのように収めてきたのか、そして外からの脅威にどう向き合ってきたのかが見えてきます。国内では命を奪わずに和を保つ工夫があり、国外からの危険には毅然と対応してきた。この両面の歴史が、日本が移民を少なく保ってきた理由と深く関わっています。

本稿では、明智光秀や赤穂浪士の事例、平清盛の時代の外国人流入と混乱、戦国大名たちが海外勢力を警戒した背景などを取り上げ、公式記録の裏にある可能性や解釈を通して、日本の歴史と移民への姿勢を探っていきます。

出家と隠退による争いの終息

明智光秀の最期も、その典型例として語られます。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、坂本へ落ち延びる途中、百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたと公式記録にはあります。しかし、多くの史料には奇妙な点が記されています。光秀の首は三つも届けられ、そのどれもが顔の皮を剥がされ、しかも著しく腐敗していたのです。

別説では、光秀は長兵衛に深手を負わされ、家臣の溝尾茂朝に自らの首を討たせ、それを隠したとも伝えられます。では秀吉が首実検した首は一体誰のものだったのか。さらに後年、徳川家康の側近として現れた南光坊天海が光秀本人、もしくはその子であったという説もあり、日光東照宮に残る桔梗紋や地名「明智平」など、いくつもの傍証が残されています。

もし光秀が生き延びていたとすれば、秀吉もそれを承知の上で命を奪わずにいたことになります。信長、光秀、秀吉、家康の間で壮大な茶番のような計画があったのかもしれません。表向きは死とされても、実際には生かして争いを収める――そこには、日本独特の「命を奪わずに和を保つ」知恵がうかがえます。

赤穂浪士事件と名分の実現

元禄時代の赤穂浪士討入りも、命を奪わずに事を収めた可能性が指摘される出来事です。
公式記録や芝居、講談などでは、四十七士が吉良上野介を討ち取り、その首を持ち帰ったとされています。しかし一説によれば、彼らは確かに吉良邸に討ち入ったものの、実際には吉良の首を刎ねず、隠居を迫っただけだったといいます。

討入りの真の目的は、山鹿流陣太鼓を打ち鳴らし、自分たちが学んだ山鹿流兵法の正当性と、主君浅野内匠頭への忠義を世に示すことにありました。つまり、流血による報復ではなく、理念と名分を立てることが本懐だったのです。

この説では、吉良上野介は隠居を承諾し、吉良に帰って静かな晩年を過ごしたとされます。そのため、四十七士にも吉良方にも大きな死傷者は出ず、幕府も処分に迷い、切腹の沙汰までに長い時間を要したといいます。

討入りという形で自らの意志を通しつつも、命を奪わずに目的を果たす――ここにも、日本人が古くから持ってきた「命を残し、和を乱さぬ」価値観が表れています。

和を守るための選択肢

日本の歴史をよく見ていくと、争いの場面であっても、相手を徹底的に滅ぼすのではなく、道を残して事態を収めるやり方が少なからず存在します。これは単なる情けではなく、長期的な安定を保つための知恵でもありました。

相手の命を奪えば、その家や一族、縁者にまで遺恨が残り、後の世にまで争いが続く恐れがあります。しかし、相手に面目や生きる道を残せば、関係を断ち切ると同時に、その後の混乱や報復を避けることができます。

明智光秀の出家説や、赤穂浪士の「討ち取らなかった」説に見られるように、命を奪わずに和を保つという発想は、日本人の行動の中に深く根付いていました。こうした姿勢は、国内の安定を維持するだけでなく、次の時代への移行を円滑にし、長い目で見て社会全体の秩序を守る役割を果たしてきたのです。

外からの脅威にも生きた「和の精神」

日本が大切にしてきた「和を保つ」姿勢は、国内だけでなく、外からの圧力や危機に直面した場面でも発揮されてきました。外国との接触は新しい知識や利益をもたらす一方で、治安や社会秩序を乱す要因にもなり得ます。

歴史を振り返ると、日本はその都度、調和を重んじる一方で、必要な場面では毅然と行動し、国の安定と人々の暮らしを守ってきました。この姿勢は戦国時代から平安末期に至るまで、時代や状況を超えて受け継がれています。

海外勢力の脅威を前に動いた戦国大名

戦国時代の大名たちは、国内で続く合戦に力を注ぐ一方で、海外の動きにも目を向けていました。南蛮貿易を通じて新しい技術や武器がもたらされる一方、それが海外勢力の影響力拡大の足掛かりになる危険性も感じ取っていたのです。

とくに、異国の勢力が布教や貿易を手段として内政に関わり、やがて領地や人々を支配下に置く動きは警戒されました。外国との接触は利益を生む反面、国内の分裂や混乱を招きかねない――そうした現実が、大名たちの行動を変えていきます。

織田信長や豊臣秀吉による全国統一の動きには、単なる領土拡大だけでなく、こうした海外勢力の影響を抑え、日本の体制を守る狙いがあったと考えられます。外からの介入を許さないためには、国内を一つにまとめ、容易に付け入らせない体制を築くことが不可欠だったのです。

平清盛の時代に起きた混乱

平安時代末期、平清盛は水軍を擁してChinaやKoreaとの交易を盛んに行い、その利権を独占することで莫大な富を築きました。こうして得た富や輸入品をもとに公家社会へ深く入り込み、ついには絶大な権力を手中に収めます。

しかし、交易がもたらしたのは富や物資だけではありません。多くの外国人が日本に渡来するようになり、その中には国内で悪事を働く者も現れました。不当な土地買収、女性への暴行、一家を惨殺するような事件が各地で起こり、治安は悪化の一途をたどります。

こうした状況は、平家一門への不満と怨嗟として蓄積されていきます。清盛は市中に赤禿と呼ばれる工作員を放ち、敵対する勢力を逮捕・投獄しましたが、治安の改善にはつながらず、かえって民心は離れていきました。そして、この民意の離反が、やがて源頼朝を旗頭とする源氏の挙兵を後押しすることとなります。

「落人狩り」に込められた意味

平家の落人とは、いったい何者だったのか――その正体については、興味深い説があります。
それによると、彼らは単なる敗残兵ではなく、平清盛の全盛期に日本へ渡来し、各地で悪さをしていた一部の帰化人だったというのです。全国で行われた「落人狩り」は、そうした素行の悪い帰化人を抑えるための行動だった、という見方があります。

もちろん、その矛先がすべての帰化人に向けられたわけではありません。職人や商人など、日本社会に溶け込み、地域で暮らしていた人々は対象外でした。あくまでも、争いを引き起こすような行動に及んだ者たちが討たれたのです。

こうした背景から、「落人狩り」という言葉は、実際には「平家の時代に渡来し、混乱をもたらした者への討伐」という意味を含んでいたとも考えられます。史料に具体的な記述が残っているかどうかは定かではありませんが、その説を耳にすると、「なるほど」と腑に落ちる部分もあります。

さらに、公的な記録に残す際には、後の国交や外交上の配慮から、「何々人の討伐」とは書かず、「平家の落人狩り」と表現された可能性もあります。そのため、平家の正統な血筋は今日まで名を保ち、その家系を続けているのです。

おわりに|歴史が教える「慎重な受け入れ」の意味

戦後の歴史学者の多くは、唯物史観、すなわち史的唯物論に基づいて歴史を解釈してきました。これを提唱したのはマルクスであり、その根本には「階級闘争史観」があります。つまり、歴史のあらゆる出来事に、闘争や暴力が必ず存在したという前提を置き、それに沿って史料を読み解こうとする立場です。

しかし、日本の歴史は本来、人々の和、民の安寧、ご皇室の弥栄を最大の使命として積み重ねられてきたものです。階級闘争を前提とする唯物史観では、その本質を正しく理解することはできません。

ここで紹介した様々な見解は、必ずしも筆者自身がその全てを信じているわけではありません。ただ、「なるほど」と思わせる説があるのも事実です。一つの出来事について、多様な解釈を自由に議論できる――その環境こそが、日本という国の大切な価値です。もしこれが中国や韓国のような国であれば、異論を述べた瞬間に逮捕や投獄、拷問、さらには命を奪われる危険すらあるでしょう。

大事なのは、「何が正しいか」だけではなく、そこから私たちが何を学び、未来にどう生かすかです。赤穂事件や明智光秀にまつわる説も、真偽の細部よりも「人が人を殺すことを好まない」という日本文化の特徴をよく表しています。この価値観こそ、未来へと守り継ぐべきものです。

一方で、平家の落人狩りの例が示すように、平和を守るためには、社会を乱す行為を繰り返す者に対しては厳しい対応も必要でした。施政者がその意思を失えば、人々の穏やかな暮らしは保てません。この教訓は、現代の外国人受け入れや移民政策にも通じます。

また、南京事件や慰安婦問題のように、事実に反する捏造には毅然と立ち向かわねばなりません。なぜなら、それらは単なる解釈の違いではなく、根拠のない虚偽だからです。そして歴史から学べるのは、たとえ日本が善政を敷いても、中国や韓国のような国はそれを利用して日本を貶めることがある、という現実です。

私たちは、学べることは学びつつ、誤りや虚偽には断固として立ち向かう。その姿勢こそが、日本の未来を安定させ、文化を守り続けるために欠かせないのです。

お知らせ

この記事は2012/10/21投稿『国史を学ぶ』のリニューアル版です。

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