
はじめに|なぜ「失われた30年」が続くのか
30年以上続くデフレと停滞の現状
日本経済は、1990年代初頭のバブル崩壊以降、実に30年以上にわたってデフレと低成長に苦しみ続けています。
この期間は「失われた10年」と呼ばれた時期から始まり、その後も改善の兆しが見えないまま期間が延び、今や「失われた30年」という言葉で語られるようになりました。
この長期停滞は、単なる景気循環の悪化ではありません。
高度経済成長期や戦後復興期に見られたような、自然な景気回復の波が訪れず、構造的な低迷が続いているのが特徴です。
国際的に見ても、主要先進国が成長を遂げてきたこの30年間、日本だけがほぼ横ばいのGDP推移を示してきました。
世界の経済地図が大きく塗り替わる中で、日本経済だけが「取り残された」形になっているのです。
さらに、この停滞は単に数字上の成長率の問題にとどまらず、国民生活にも大きな影響を与えています。
給与水準は長期間ほぼ据え置きのままで、物価が安いとされてきた日本でも近年は円安やエネルギー価格の上昇によって生活コストが上昇。
消費マインドは慎重化し、経済活動の活性化がますます難しくなるという悪循環が続いています。
この30年に及ぶ不況は、日本の経済史の中でも前例のない現象です。
明治維新以降、日本は戦争や大災害、国際的な経済危機を経験しながらも、比較的短期間で経済を立て直してきました。
しかし、今回の停滞は構造的な要因が絡み合っており、従来型の景気刺激策だけでは解決が難しい状況にあります。
その背景には、過去の歴史から見える教訓と、現代特有の通貨・金融構造の問題が存在します。
次の章では、まず歴史的事例として昭和恐慌と世界大恐慌を振り返り、危機を乗り越えた時の政策や判断から、現代へのヒントを探ります。
過去の経済危機との比較と本稿の目的
日本はこれまでにも、深刻な経済危機を何度も経験してきました。
その代表例が、戦前の昭和恐慌(1927年)と、続く世界大恐慌(1929年)です。
これらの危機では、銀行の取り付け騒ぎや企業倒産が相次ぎ、失業者が急増し、社会全体が不安に包まれました。
しかし、当時の政府は比較的短期間で危機を収束させ、さらには景気のV字回復に成功しています。
昭和恐慌の際は、関東大震災後の震災手形や不良貸出しが引き金となり、金融システムが大混乱しました。
それでも政府は、モラトリアム(支払猶予)や日本銀行による特別救済融資など、思い切った金融安定策を短期間で打ち出しました。
結果、わずか数カ月で金融市場のパニックを抑え込むことに成功します。
その後に訪れた世界大恐慌では、米国が市場任せの政策に固執したため、世界中へ不況が波及。
欧米諸国が長期の経済停滞に苦しむ中、日本は高橋是清大蔵大臣の積極財政によっていち早く景気を回復させました。
特に、金輸出再禁止や公共事業推進、軍事関連産業への投資拡大は、雇用と産業全体を活性化させる大きな原動力となりました。
つまり、過去の日本は「適切な政策を迅速に行えば、不況は短期間で終わらせられる」という経験を持っています。
ところが現代の「失われた30年」は、この教訓を活かしきれていません。
経済停滞がこれほどまでに長引いた理由は、単なる景気循環の問題ではなく、構造的な要因、特に通貨政策や金融システムの歪みに深く関係しているのです。
本稿の目的は、この歴史的事例と現代の構造的問題を比較し、長期停滞をもたらした根本原因を明らかにすることにあります。
そして、過去の成功例から導き出される有効な政策や、現代特有の課題である「円安構造」の是正策を提示し、失われた30年を終わらせるための現実的な解決策を提案します。
昭和恐慌と世界大恐慌の教訓
昭和金融恐慌の発端と迅速な政府対応
昭和金融恐慌は、1927年(昭和2年)に発生しました。
発端となったのは二つの出来事です。
第一に、1923年の関東大震災後に乱発された震災手形の問題です。
震災手形とは、被災地の企業が銀行から資金を借りる際に発行された約束手形のことで、本来は返済期限までに支払われるべきものでした。
しかし、震災による甚大な被害を考慮し、政府は返済を猶予する特別措置を講じていました。
その猶予期間が1927年に終了し、各企業は一斉に支払い義務を負うことになりました。
多くの企業は十分な資金を用意できず、銀行への返済不能が表面化し、金融機関の資金繰りが急速に悪化します。
第二に、台湾銀行の巨額不良債権問題です。
当時、台湾銀行は大手商社である鈴木商店に対して、3億5000万円(現在の価値で数兆円規模)の貸付を行っていましたが、この資金が回収不能となっていることが明らかになりました。
巨額の不良債権が露見したことで、銀行の経営不安が一気に広がります。
この二つの出来事が重なり、全国で銀行取り付け騒ぎが発生しました。
預金者が一斉に銀行へ押し寄せ、預金を引き出そうとする事態が続出。
資金が枯渇した銀行は相次いで休業し、金融システム全体が麻痺寸前に陥りました。
このときの政府対応は迅速でした。
わずか2カ月後、当時の若槻礼次郎内閣はモラトリアム(支払猶予)を発動し、企業や銀行が一時的に支払いを停止できる措置を講じます。
さらに日本銀行が特別救済融資を実施し、資金繰りに苦しむ銀行を直接支援しました。
これらの対策によって、金融恐慌は数カ月で沈静化し、最悪の事態は回避されました。
この一連の流れは、政府と中央銀行が協力し、迅速かつ大胆な介入を行えば、金融パニックを短期間で収束できるという貴重な事例です。
しかし、この成功の直後、日本は大きな過ちを犯します。
それが、極端なデフレ政策への転換でした。
この判断が、後に訪れる世界大恐慌の衝撃をさらに大きくすることになるのです。
世界大恐慌の連鎖と米国の失策
昭和金融恐慌を乗り越えた日本でしたが、そのわずか2年後、世界はさらに大規模な経済危機に直面します。
1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨーク・ウォール街で株価が大暴落しました。
この日は木曜日であったことから、後に「ブラックマンデー」と呼ばれるようになります。
この出来事が、世界大恐慌の幕開けでした。
当時の米国経済は、富裕層が有望企業に投資し、その利益を株価上昇として享受するという構造に依存していました。
企業が好調であれば株価は上がり、さらに投資が集まり、経済は拡大していく。
しかし、一度株価が下がると、企業収益は急速に悪化します。
投資銀行の利益は消え、資金を預けていた投資家たちは一斉に資金を引き上げました。
資金を失った投資銀行は破綻の危機に陥ります。
その情報が一般の預金者にも伝わり、銀行取り付け騒ぎが全米に拡大。
預金を払い戻せない銀行が次々と倒産しました。
さらに、銀行から融資を受けていた企業は資金調達ができなくなり、連鎖的に倒産。
工場は閉鎖され、大量の労働者が職を失いました。
この悪循環は瞬く間に米国全土を覆い、経済は急速に縮小していきます。
しかし、当時のフーバー大統領は「これは周期的な景気後退にすぎない」と考え、市場への政府介入を拒みました。
「市場のことは市場に任せるべき」という自由放任主義の立場を貫いた結果、景気回復の手は打たれず、状況は悪化の一途をたどります。
この対応の遅れが、米国だけでなく世界経済を深刻な不況に巻き込む結果となりました。
米国は世界最大の経済大国であり、その影響力は絶大です。
米国経済が崩れれば、その貿易相手国、植民地、そして資本市場と結びつきのある国々にも波及します。
こうして世界大恐慌は、米国からヨーロッパ、さらにアジアへと広がり、全世界を覆う前例のない経済危機へと発展していったのです。
各国への波及と経済破綻
1929年のウォール街大暴落から始まった世界大恐慌は、瞬く間に米国の国境を越え、全世界へと波及しました。
当時の国際経済は、金本位制のもとで各国の通貨価値が固定されていたため、一国の経済ショックが他国に直撃する仕組みになっていました。
米国の景気悪化に伴い、輸入需要が急減し、米国市場に依存していた国々の輸出は壊滅的な打撃を受けます。
最も深刻な影響を受けたのは、第一次世界大戦の敗戦国であり、多額の賠償金を課せられていたドイツでした。
ドイツは戦後復興のために米国から多額の資金援助を受けていましたが、大恐慌によって米国資本が引き揚げられると、国内の資金繰りは一気に崩壊。
失業率は34%に達し、街には職を求める失業者があふれました。
国家財政は破綻寸前となり、国民生活は極限まで追い詰められます。
さらに、ドイツに賠償金を請求していた英国やフランスも、その資金源を失い、経済は急速に悪化します。
英国では工業生産が落ち込み、国内の失業者は数百万人規模に膨らみました。
フランスも同様に景気後退に見舞われ、政治的混乱が深まりました。
世界規模で見ると、1929年から1932年までのわずか3年3カ月で、世界の工業生産は半分にまで落ち込みます。
1932年末には、全世界で失業者が5,000万人を超えるという未曽有の事態となりました。
経済活動の縮小は社会不安を拡大させ、各国で急進的な政治勢力が台頭する土壌を生みます。
この長引く不況は、1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が勃発するまで完全には解消されませんでした。
つまり、世界大恐慌は単なる経済危機にとどまらず、国際政治の秩序を根本から揺るがす引き金ともなったのです。
こうした混乱の中で、日本は後述する高橋是清の積極財政政策により、欧米諸国よりも早く危機から脱出します。
この対比は、現代の「失われた30年」を考える上で、極めて重要なヒントを与えてくれます。
日本が世界大恐慌を乗り越えた理由
高橋是清の積極財政政策
1931年(昭和6年)、大蔵大臣に就任した高橋是清は、日本経済を救うために大胆な政策転換を行いました。
それまでの日本政府は、物価抑制を重視した緊縮的なデフレ政策を採用していましたが、高橋はこれを完全に覆します。
世界大恐慌が深刻化する中、デフレ政策では経済の縮小に拍車をかけるだけであると判断し、積極財政によって景気回復を図ったのです。
高橋の政策は、次の3つを柱としていました。
- 金輸出再禁止
日本から海外への資金流出を防ぐため、金の輸出を再び禁止しました。
当時、金本位制のもとでは、貿易や国際取引で金が国外に流出することは国内マネー供給量の減少を意味し、デフレ圧力を強める要因となっていました。
この流出を止めることで、国内での資金循環を確保し、景気刺激策の効果を国内に閉じ込めました。 - 時局匡救事業(公共事業の拡大)
雇用を創出するため、ダムや港湾、道路、公共施設などのインフラ整備を国家主導で推進しました。
これにより失業者の受け皿をつくり、労働者の所得を増やして消費を喚起しました。
現代でいう「景気対策型公共投資」の先駆けともいえる施策です。 - 政府支出の増額(特に軍事関連産業)
最も大きな効果をもたらしたのが、この政府支出の拡大でした。
軍艦や航空機、兵器の建造・製造は、多くの産業を巻き込みます。
造船、鉄鋼、機械、化学、繊維、食品といった幅広い業種が受注に関わり、それぞれが設備投資や雇用増加に動きます。
需要の増加は市場全体の期待感を高め、株価の上昇にもつながりました。
この積極財政によって、日本は1933年(昭和8年)には景気をV字回復させ、株価も二桁成長を記録しました。
欧米諸国が大恐慌の泥沼から抜け出せずにいた中、日本は世界に先駆けて回復を果たしたのです。
高橋是清の判断は、迅速さと実行力において際立っており、「失われた30年」を乗り越えるヒントがこの歴史に隠されているといえます。
金輸出再禁止と公共事業の推進
高橋是清の積極財政政策の中で、まず重要な役割を果たしたのが金輸出再禁止です。
当時の日本は金本位制を採用しており、国際取引によって金が国外に流出すると、その分だけ国内の通貨供給量が減少し、景気に深刻な悪影響を及ぼしていました。
輸出が増えて外貨が入ってきても、金が流出すれば国内で使えるお金は減り、結果として物価や賃金が下がるデフレ圧力が強まります。
高橋は、この構造を断ち切るために金の輸出を再び禁止しました。
この決断により、国内の資金は国内に留まり、景気刺激策の効果を最大限発揮できる環境が整いました。
穴の開いたバケツに水を注ぐような政策から、バケツの穴を塞いだ上で水を満たす政策への転換だったのです。
金輸出再禁止と並んで行われたのが、時局匡救事業(公共事業の拡大)です。
これは、ダム建設、道路整備、港湾拡張、学校や病院などの公共施設の建設といった大規模なインフラ整備を国が主導して進めるものでした。
公共事業には二つの効果があります。
1つは、直接的な雇用創出です。建設現場では多くの労働者が必要とされ、失業者に仕事の機会を与えます。
もう1つは、間接的な波及効果です。建設資材の需要増加は鉄鋼やセメント産業を潤し、輸送や販売など関連分野にも経済効果をもたらします。
これらの公共事業は単なる景気刺激策ではなく、社会基盤の整備として長期的にも国の発展に寄与しました。
後の高度経済成長期に活用されるインフラの多くが、この時期に整備されたものです。
軍事関連産業への投資がもたらした波及効果
高橋是清の積極財政の三本柱の中で、最も大きな景気押し上げ効果を生んだのが軍事関連産業への大規模な投資でした。
軍事産業は、特定の一業種だけで完結する分野ではありません。
たとえば軍艦を一隻建造するだけでも、造船所、鉄鋼業、機械加工、化学工業、繊維産業、木工、食料品など、実に多岐にわたる産業が関わります。
さらに、兵器や艦船に積載される弾薬、通信機器、家具、調度品、衣類、食料などの製造も必要になり、国内のほぼあらゆる分野に需要が広がります。
このように、軍事産業への投資は裾野の広い波及効果を持ち、直接的・間接的に多くの企業を活性化させました。
また、受注が見込まれた企業は早い段階で設備投資や人員採用を行い、その動きがさらに需要を押し上げる「期待効果」を生みました。
株式市場にもこの期待感は反映されました。
昭和恐慌と世界大恐慌の影響で低迷していた株価は、1933年(昭和8年)には二桁成長を記録し、投資マインドが大きく改善しました。
これは、単に軍需が拡大したからではなく、「経済が成長軌道に戻る」という社会全体の確信が形成されたことを意味します。
重要なのは、高橋是清が軍事支出を景気回復の戦略的な起爆剤として活用した点です。
当時の日本は国際的な緊張の高まりの中にあり、軍事力の強化は国防上の課題でもありましたが、その予算を国内生産に重点配分したことで、経済的な自立性を高める効果もありました。
こうして日本は、欧米諸国が大恐慌の長い泥沼に沈んでいた時期に、いち早く景気のV字回復を実現することに成功したのです。
ドイツの軍事産業強化と完全雇用
日本が高橋是清の積極財政でいち早く景気回復を遂げた姿は、当時の世界各国にも大きな影響を与えました。
その中で最も注目し、自国の政策に応用したのがドイツです。
1933年(昭和8年)、アドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、彼は国民に「完全雇用」を約束しました。
その実現手段として選ばれたのが、徹底的な軍事産業の強化でした。
ヒトラーは、日本の成功事例を参考にしつつ、それをさらに規模拡大した形で実行します。
ドイツ国内の造船所、兵器工場、自動車メーカー、航空機産業は次々と国策のもとで拡張され、大規模な設備投資と大量の雇用が生まれました。
軍需産業の裾野は非常に広く、鉄鋼・化学・精密機械・輸送などの分野にも波及効果をもたらします。
失業者は急速に減少し、1936年(昭和11年)にはドイツ経済が二桁成長を達成するまでになりました。
この急速な経済回復は、周辺のヨーロッパ諸国からすれば驚異的なものでした。
第一次世界大戦の敗戦国であり、経済的にも最も困窮していたはずのドイツが、わずか数年で未曾有の好況を迎えたのです。
一方で、英国やフランス、イタリアなどは依然として不況と失業に苦しんでおり、政治不信が深まっていました。
こうした状況の中、国民の間には「自国の無策な政治家よりも、ナチスに統治してもらったほうがマシだ」という極端な意見が広がり、国際的な政治バランスが崩れていきます。
この空気が、後に1939年(昭和14年)のポーランド侵攻、そして第二次世界大戦の引き金の一つとなりました。
ドイツの事例は、日本同様に軍事産業を経済再建の柱としたことで、短期間で景気を立て直せることを示しました。
しかし同時に、その手法が国際政治の緊張を高め、戦争への道を開く危険性も孕んでいたことは否定できません。
ソ連が不況を回避できた理由
世界大恐慌が欧米諸国を深刻な不況に陥れる中で、ほとんど影響を受けなかった国がありました。
それが当時のソビエト連邦(ソ連)です。
ソ連は資本主義国とは異なる計画経済を採用しており、国内の経済活動は政府が中央集権的に管理していました。
市場原理に依存する部分が少なかったため、国際的な株価暴落や貿易の縮小といった外部要因の影響を受けにくい構造になっていたのです。
さらにソ連政府は、コミンテルン(国際共産主義運動)の拡大や国防力強化を目的として、軍事産業の育成と拡大を積極的に推し進めていました。
鉄鋼、機械、化学といった基幹産業を大規模に整備し、それらを軍需生産と直結させることで、国内の生産能力と雇用を安定的に確保しました。
この軍需主導の経済政策は、外需に頼らない内需主導型の成長を可能にしました。
世界市場が縮小し、欧米諸国が失業者であふれていた時期に、ソ連では工場建設やインフラ整備が続き、経済は着実に拡大していきます。
また、ソ連は金本位制の制約を受けておらず、自国通貨と経済計画を独立的に運営できたため、為替変動や国際的な資本移動に左右されませんでした。
この通貨制度の独立性も、不況回避の大きな要因でした。
もちろん、計画経済には非効率性や政治的抑圧などの問題がありましたが、少なくとも大恐慌期に限っては、ソ連は世界の経済混乱からほぼ無傷で生き残ることができたのです。
外交・貿易構造の変化と日本の立場
第一次世界大戦までの日本は、軍艦や兵器などの多くを外国に発注していました。
特に日清戦争や日露戦争の頃までは、兵器のほぼすべてを西欧諸国から輸入しており、第一次世界大戦期にも、その多くを外国製に頼っていました。
この外国発注は、単に物資調達の手段というだけでなく、外交的な安全装置の役割を果たしていました。
日本が列強諸国から兵器を大量購入していれば、その発注先の国々にとって日本は「重要な顧客」となります。
たとえば日本がロシアと戦うことになった場合でも、日本が兵器を発注してくれる国々は、経済的な利益を守るために間接的な支援や好意的な態度を示すことが期待できました。
しかし、昭和期に入ると状況は変わります。
高橋是清の積極財政政策の中で、景気刺激策として軍需品の国内生産への切り替えが進められたのです。
軍艦や兵器の製造を自国でまかなうようになれば、確かに国内の産業は活性化しますが、同時に列強諸国との経済的な結びつきは急速に弱まりました。
さらに、日本は1919年(大正8年)のパリ講和会議において、「人種平等」の理念を国際社会に提案し、欧米列強の植民地支配の正当性に疑問を投げかけました。
これは植民地から莫大な利益を得ていた列強の既得権益を真っ向から否定するものであり、日本は経済的にも政治的にも警戒される存在となります。
これまで列強諸国にとって「利益をもたらす顧客」であった日本は、軍需品の内製化によって経済的な恩恵を与えなくなり、国際的には「自らの富を脅かす潜在的な競争相手」と見なされるようになりました。
その結果、日本は国際社会の孤立を深め、後の対立や戦争への道を歩む一因となったのです。
この外交・貿易構造の変化は、経済政策が国内の景気回復には有効でも、国際的なパワーバランスを崩す可能性があることを示しています。
現代の日本においても、経済構造の変化が外交関係や通貨価値に影響を与える点は無視できません。
世界経済のマネー構造と膨張性
現代の世界経済は、表面的には複雑に見えますが、その根幹には非常に単純な構造があります。
それは、お金が「貸し出されたとき」に初めて価値を持つという仕組みです。
紙幣は印刷しただけでは単なる紙切れにすぎません。
銀行がそれを貸し出すことで初めて、市場でお金として流通します。
ところが、貸付金には必ず利息が付きます。
元本に利息を加えて返済するためには、社会全体でさらにお金を増やさなければならず、この仕組みは自動的に経済の拡大を求め続けます。
この構造は、言い換えれば世界的なサラ金経済ともいえるものです。
金利に金利が積み重なり、借金総額が雪だるま式に膨らむ一方で、その返済のために経済活動の拡大が必須となります。
経済成長が鈍化すると、借金返済の負担だけが増し、景気の足かせとなります。
このマネー膨張の構造が生み出す歪みは、物価の上昇にも現れています。
例えば、日本ではペットボトルの水が100円程度で買えますが、米国では同じものが5ドル(約750円)もします。
商品の価値は同じでも、通貨の価値の違いがこれほどの価格差を生んでいるのです。
この背景には、各国の通貨政策、特に金利差と為替相場の変動が深く関わっています。
さらに、世界経済全体がこの膨張構造に依存しているため、金利政策や通貨供給量の調整は、単なる金融テクニックではなく、国家間の経済力バランスを左右する重要な要素となっています。
つまり、通貨価値とその変動要因を正しく理解しなければ、経済停滞やインフレ・デフレといった現象の根本原因に辿り着くことはできません。
この構造的な問題は、現代日本の「失われた30年」においても無視できない要因であり、特に長期的な円安傾向と密接に結びついています。
次の節では、日本がなぜ内部留保や対外純資産で世界一でありながら、経済成長できないのかを掘り下げます。
内部留保と対外純資産が世界一でも不況な理由
現在の日本は、経済成長率こそ低迷しているものの、数字上の資産状況を見ると驚くべき特徴があります。
それは、日本企業が保有する内部留保と、日本全体が持つ対外純資産が、いずれも世界一の規模であるという事実です。
まず、内部留保とは、企業が稼いだ利益のうち、配当や設備投資として使わずに社内に蓄積した資金のことです。
この額は2024年時点で550兆円規模に達しており、33年間連続で世界一を記録しています。
次に対外純資産ですが、これは日本が海外に保有する資産から負債を差し引いたもので、2023年時点で約471兆円。こちらも33年間、世界一の座を維持しています。
これだけを見ると、日本はまさに「世界一のお金持ち国家」に思えます。
しかし現実には、国内の景気は停滞し、賃金は伸びず、消費も活発化していません。
次の節では、この停滞構造と密接に関連する円安のメカニズムを掘り下げ、なぜこれが30年間も続いてきたのかを明らかにします。
円安が「失われた30年」を固定化する理由
ペットボトルの水が日本100円・米国750円という現象
日本ではペットボトルの水が100円前後で購入できますが、米国では同じような水が5ドル(約750円)します。
モノの価値は同じなのに価格がこれほど違う――この現象の背景にあるのが長期的な円安です。
円の価値が低くなれば、外国通貨に換算したときの購買力が落ち、結果として海外の商品は高く、日本の商品は安く見えるようになります。
この為替の非対称性が、企業の輸出競争力を一部高める一方で、国民生活の実質的な購買力を押し下げています。
国債金利差が生む30年続く円安構造
日本経済には底力があるにもかかわらず、30年間経済成長が停滞してきた理由の一つが、日本と米欧との国債金利差です。
日本の国債発行残高はおよそ1,100兆円に上ります。
仮にこれに6%の金利をつければ、利払いだけで年間66兆円となり、国家予算の大半が利払いに消えてしまいます。
そのため、日本の国債金利は意図的に低く抑えられています。
しかし、国債金利が低いということは、日本国債を保有しても利息収入がほとんど得られないということです。
一方、米欧の国債を買えば高い利息が得られるため、投資家は自然と「円を売ってドルやユーロを買う」という行動を取ります。
こうして円は売られ続け、円安傾向が固定化されてきました。
この状態はすでに30年近く続いており、日本経済の停滞要因の一つとなっています。
日銀の通貨発行と国債の奇妙な関係
ここでさらに問題となるのが、日本銀行の通貨発行の仕組みです。
日銀は通貨を発行している機関ですが、その発行した紙幣を負債として計上しています。
負債は資産の範囲内でしか保有できないため、日銀は国債を担保にして円を発行している、という極めて特殊な構造になっています。
この仕組みの背景には、かつて通貨が金との兌換紙幣だった時代の名残があります。
当時は、保有する金の量に応じて通貨を発行していたため、発行紙幣は資産ではなく負債として扱われていました。
しかし金本位制はすでに廃止されており、現在では通貨の裏付けに金は必要ありません。
にもかかわらず、日銀は依然として国債を引き当てに通貨を発行しているのです。
この結果、通貨発行が増えれば増えるほど、日銀のバランスシート上の負債が膨らみ、国債残高も増え続けるという、経済的合理性に欠けた状態が続いています。
こうした制度的な歪みが、高金利政策の導入を阻み、円安の長期化を招く要因となっているのです。
円安是正による経済再生シナリオ
発行紙幣を資産計上した場合のインパクト
現在の日銀は、発行した紙幣を負債として計上しています。
しかし、もしこの会計処理を改め、発行紙幣を資産として計上したらどうなるでしょうか。
発行紙幣を資産扱いにすれば、同じ資産科目の中で、国債と発行通貨が相殺されます。
この時点で、帳簿上の国債残高は一瞬でゼロになるのです。
つまり、巨額の国債が国家財政を圧迫する構造そのものが、会計上から消えることになります。
この変化は単なる数字の調整ではなく、日本の通貨・財政運営の自由度を根本から変える力を持っています。
国債残高がゼロになれば、日本は財政破綻を恐れずに、金利を引き上げる政策を採ることができるようになります。
国債残高ゼロ化と高金利政策の可能性
国債残高が帳簿上ゼロになれば、日本は国債に高い金利を付けることができます。
すると世界中の投資家が高金利の日本国債を求めて円を買い始めます。
大量の円買いは、為替市場での円高を促進します。
円高に転じれば、これまで円安によって割安に見えていた日本の製品やサービスは、国際的に相対的な価値を取り戻します。
また、海外からの輸入品は円換算で安くなり、国内の物価上昇を抑える効果も期待できます。
円高による購買力回復とGDP7.5倍成長の展望
円高が進み、為替レートが購買力平価に近づけば、日本人は海外でも国内と同じ価格で商品を購入できるようになります。
例えば、日本で100円のペットボトルの水は、米国でも100円相当で買えるようになるのです。
さらに、円の購買力が7.5倍に改善されれば、日本経済の規模も名目ベースで7.5倍に拡大します。
この水準になると、日本は米国を抜いて世界一の経済規模を持つ国となります。
もちろん、このシナリオは会計処理や金融政策の大幅な転換を伴うため、政治的・制度的なハードルは高いでしょう。
しかし、理論的には通貨発行の性質を正しく見直すだけで、日本経済は急速に円安から脱却し、長年の停滞を終わらせる可能性を秘めています。
「失われた30年」解決策
発行紙幣を資産計上することで国債残高を解消
現在、日銀は発行した通貨を負債として計上していますが、これを資産として計上すれば、同じ資産科目の中で国債と発行通貨が相殺され、帳簿上の国債残高は一瞬でゼロになります。
この時点で、日本は国債に高い金利を付けることが可能となります。
円買いと円高への転換
国債に高い金利が付けば、世界中の投資家が円を買い始めます。
その結果、為替市場で円が高くなり、円安の状態は解消に向かいます。
購買力の回復と経済規模の拡大
円高が進めば、日本国内で100円のペットボトルの水は、米欧でも同じ100円相当で購入できるようになります。
購買力の改善は、日本経済の規模を名目ベースで7.5倍に拡大させ、日本は米国を抜いて世界一の経済規模となります。
おわりに|歴史に学び、未来を選び取る
日本経済が30年間停滞し続けた背景には、長期的な円安と、それを固定化する国債と通貨発行の仕組みがあります。
本来、通貨を発行する日銀が、その通貨を負債として計上するという構造は、過去の兌換紙幣制度の名残であり、現代の経済環境にはそぐわないものです。
もし発行紙幣を資産として計上し、国債残高を帳簿上解消すれば、日本は高金利政策を採ることができ、世界中からの円買いが進みます。
円高によって購買力が回復すれば、日本経済は一気に拡大し、停滞から脱却できる可能性があります。
今求められているのは、過去の制度や慣習に縛られたままの経済運営を続けることではなく、現状の仕組みを見直し、より合理的で持続可能な方向に舵を切ることです。
歴史に学び、制度の本質を理解した上で未来を選び取る――それこそが、「失われた30年」を終わらせるための第一歩となるでしょう。
お知らせ
この記事は2024/12/07投稿『歴史が教えるデフレ脱却の鍵とは?昭和恐慌から現代日本を考える』のリニューアル版です。
