はじめに|台湾はどこの国なのか

台湾について「独立した国」という印象を持つ人は少なくありません。しかし、その実態は非常に複雑で、単純に独立国とは言い切れない状況があります。歴史的経緯や国際法上の位置づけをたどると、台湾は独特の立場に置かれてきたことがわかります。

漠然と「独立国」と思われがちな台湾

現在の台湾を、完全に独立した国家だと考える人は多いでしょう。しかし、台湾は長い間、複雑な国際的背景の中にあり、その立場は明確ではありません。台湾は大東亜戦争の終結まで日本の領土でしたが、その終わり方や戦後の取り扱いは、一般的に知られているよりもずっと入り組んでいます。

実は複雑な歴史と法的背景がある

台湾が日本の領土でなくなったのは、昭和20年(1945年)8月15日の終戦時点ではなく、昭和27年(1952年)4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約の日でした。
終戦から講和条約までの7年間、台湾は中華民国を名乗る中国国民党によって占領統治され、日本本土が米軍に占領されていたのと同様の状況でした。

サンフランシスコ講和条約には、台湾の処遇について「連合国に一任する」と記されており、日本は台湾の主権を最終的に移転するまで留保していたと解釈できます。つまり台湾の主権は、国際法上は未確定の状態のまま残されているのです。

日本統治からサンフランシスコ講和条約まで

台湾は戦後すぐには日本の領土でなくならなかった

台湾は、大東亜戦争が終結した時点で直ちに日本の領土でなくなったわけではありません。終戦の日である昭和20年(1945年)8月15日ではなく、昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した日まで、日本の領土という扱いが続いていました。これは、一般的に知られている歴史認識とは異なり、台湾の立場を理解するうえで重要な事実です。

1945年から1952年までの占領統治の実態

終戦から講和条約までの7年間、台湾は中華民国を名乗る中国国民党によって占領統治されていました。中華民国は中国大陸に拠点を置く政府でしたが、戦争終結後、台湾の統治を担うことになります。日本本土が米軍の占領下に置かれたのと同様、台湾も中華民国による占領状態に置かれたのです。

サンフランシスコ講和条約では、台湾の処遇は連合国に一任されることとなりました。この時点で日本は台湾に関する主権を完全に失ったわけではなく、最終的な主権の帰属が決まるまで、その権利を留保していたと解釈されます。つまり、この期間中の台湾は、形式上は日本の一部でありながら、中華民国の占領統治下にあったという、極めて特異な状況にあったのです。

サンフランシスコ講和条約と台湾の主権

「領土の処分は連合国に一任」という条文の意味

サンフランシスコ講和条約には、台湾に関して次のような条文があります。

日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

一見すると、これは日本が台湾に対する全ての領土主権を放棄したように見えます。しかし、ここで放棄されたのは「権利(right)」「権原(title)」「請求権(claim)」であり、「full sovereignty(すべての領土主権)」とは明記されていません。

そのため、この条文は「台湾の帰属先が連合国によって決まるまで、日本は台湾に関する主権を一時的に留保する」という意味になります。つまり、台湾の最終的な主権の帰属は依然として未確定なのです。

日本が放棄したのは「権利・権原・請求権」であり主権そのものではない

国際法上、領土主権の移転は割譲・譲渡・交換・併合・先占などによってのみ成立します。サンフランシスコ講和条約では、日本は台湾に関する領土としての処分権を放棄しましたが、領土主権そのものは、連合国が帰属先を決めるまでは日本に残されている状態です。

さらに重要なのは、この「日本に残されている主権」が具体的に誰に属するのかという点です。主権者とは法人そのものではなく、その代表者を指します。したがって、「日本に主権がある」という言い方は厳密には誤りであり、日本の誰かが主権者となるのです。そして、日本が保護国となる以前の主権者は、日本国天皇です。すなわち、台湾の主権を留保しているのは天皇である、というのが国際法上の整理になります。

領土主権の移転条件と台湾の未確定状態

条約発効時、台湾は中華民国国民党軍の占領下にありました。しかし、戦争が終われば占領は解除されるべきものであり、この時点で国民党軍が台湾にとどまる法的根拠は消滅していました。本来であれば国民党は台湾から撤退すべきところ、蒋介石政権は帰る場所を失い、そのまま居座りを続けたのです。

この結果、台湾の主権は法的に確定せず、現実的には亡命政権による長期支配という特殊な状態が固定化されることになりました。

蒋介石政権の占領と戒厳令

中華民国政府の亡命と台湾支配

サンフランシスコ講和条約発効時点で、台湾は中華民国国民党軍によって占領統治されていました。国民党は本来、中国大陸に拠点を置く政権でしたが、中国共産党との内戦に敗れ、大陸での支配権を失いました。結果として、国民党政権の中枢が台湾に逃れ、占領軍であるはずの国民党が、そのまま台湾に政権ごと移転するという、極めて珍しい状況が生まれました。

これは、戦争に敗れた国が戦勝国の領土を占領し、さらにその地に自らの政府を亡命させるという、世界史的にも例の少ない出来事でした。本来であれば、占領は一時的な統治であり、戦争終結後には解除されるべきものですが、蒋介石政権は台湾に留まり続けました。

国際法上の根拠を欠く戒厳令

蒋介石政権は、台湾での支配を維持するために「戒厳令」を敷きました。戒厳令とは、通常の法律の執行を停止し、軍の権限により全てを統制する体制です。しかし、この戒厳令は国際法上の明確な根拠を欠いており、法的には占領権の喪失後も暴力的に支配を続ける行為にあたります。

本来、サンフランシスコ講和条約によって戦争が終結した時点で、国民党軍は台湾から撤退しなければならなかったはずですが、蒋介石政権はこれを行わず、事実上の居座りを続けたのです。この状況は「居直り強盗」にも例えられる異常な事態でした。

35年間続いた異例の長期統制

蒋介石政権による台湾の戒厳令は、昭和62年(1987年)7月15日まで、実に35年間も続きました。これほど長期間にわたる戒厳令は、世界的にも類を見ません。この間、台湾内部からも反発はありましたが、政権は軍事的支配を維持し続けました。

こうして台湾は、国際法上の帰属が定まらないまま、事実上は亡命政権である中華民国国民党の支配下に置かれるという、極めて特異な歴史を歩むことになったのです。

日中共同声明と台湾の扱い

日本が承認したのは「中華人民共和国の大陸政権」だけ

昭和47年(1972年)9月29日、日本と中華人民共和国の間で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」が発表されました。この声明の中で、日本は「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」と明記しました。

しかし、この承認はあくまで「中国大陸における合法政権」として中華人民共和国を認めるという意味であり、台湾をその領土とすることを承認したわけではありません。声明にある「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部である」という部分は、中華人民共和国政府の一方的な表明であり、日本がそれを同意・承認した記述にはなっていません。

台湾の主権を中共に認めたわけではない理由

日本が台湾の領土主権を中華人民共和国に認めることができない理由は、サンフランシスコ講和条約にあります。この条約で、日本は台湾の処分を連合国に一任しており、最終的な帰属先が連合国の判断で決まることになっています。そのため、日本が勝手に台湾の帰属を中華人民共和国に認めることは、条約違反にあたるのです。

言い換えれば、日本は台湾の帰属問題について独自に判断できる立場にはなく、共同声明によって台湾を中共領としたわけではないということです。

条約と声明の違いが持つ意味

日中共同声明は、日本の田中内閣と中国共産党政府との間で発表されたものであり、天皇の詔による条約ではありません。国際法上、条約は国家間の正式な合意として強い法的拘束力を持ちますが、声明はあくまで政治的な意思表示にすぎません。

したがって、この共同声明は台湾の法的地位を変える効力を持っておらず、台湾の主権は依然として未確定のまま残されているのです。

台湾の言語・政治体制と国際承認

福建語と北京語の違い、共通語としての日本語

台湾では、主要な言語として台湾語(福建語)が使われていますが、占領政権である国民党が標準語として北京語を採用しています。福建語と北京語は似ていると思われがちですが、実際には英語とフランス語ほどの違いがあります。

さらに、台湾には9つの部族が存在し、それらの間での共通語は日本語のまま残っています。これは、日本統治時代の影響が長く続いていることを示しています。

民主化後も続く占領体制の影響

国民党政権はその後、民主化路線を打ち出し、総統や議員を選挙で選ぶ制度を導入しました。しかし、その根本的な政治体制は占領政権としての性質を残しています。つまり、台湾の政治は現在も歴史的に形成された占領構造の上に成り立っているといえます。

台湾を承認している国々とその背景

現在、台湾を中華人民共和国とは別の国家として正式に承認している国は、ソロモン諸島、マーシャル諸島、パラオ、キリバスなど、かつて日本の統治下にあった地域を含むごく一部の国々です。また、バチカンをはじめ、平和を重んじる国々も台湾を承認していますが、その数は総計でわずか23か国にとどまっています。

一方、日本政府は戦後一貫して台湾を国家として承認しておらず、国交も結んでいません。この状況は、戦後の日本が台湾問題を事実上放置してきたことを反映しています。

台湾と日本の関係への思い

戦後も日本を信じ続けた台湾の人々

台湾には、日本統治時代を経験し、日本に対して深い信頼を抱き続けた人々が数多くいました。台湾出身の鄭春河氏のご遺稿を紹介した際には、次のような証言が寄せられています。

台湾歩兵第一・第二連隊戦友会は、最後の最後まで日本の正義を信じて笑って戦死しました。10年ほど前、台北で最後の師団単位の集まりがあり、従軍看護婦だった方も参加され、皆で恩賜のたばこを吸って笑顔で別れました。
鄭さんは代理神主の資格を持ち、台南の鄭成功神社で正式な神式の儀式を最後に行いました。そこに集まった人々は、皆、普通の立派な日本人でした。

こうした証言は、台湾の人々がいかに日本との絆を大切にしてきたかを物語っています。

台湾からの期待と日本の対応

証言の中には、次のような強い思いも語られています。

台湾は、日本が必ず立ち直り、助けに来てくれると信じています。聯合艦隊は必ず来る、日本は台湾を見捨てるはずがない。

しかし、現実には日本国政府は戦後も台湾問題に積極的に関与せず、天皇陛下の「おおみたから」としての台湾を放置してきました。台湾を信じて戦った人々の思いに対して、日本は十分に応えてこなかったという現状があります。

この事実は、台湾と日本の関係において大きな課題として残されています。

まとめ|台湾はどこの国なのか

条約上も歴史上も未解決のままの主権問題

台湾は、戦後すぐに日本の領土でなくなったわけではなく、サンフランシスコ講和条約の発効まで日本の一部として国際法上扱われていました。同条約では台湾に関する「権利・権原・請求権」を放棄しましたが、最終的な領土主権の帰属先は連合国に委ねられたままで、現在に至るまで確定していません。

そのため、台湾は国際法上、正式な帰属先が未定のまま、事実上は中華民国国民党の支配下に置かれるという特殊な状態が続いてきました。

日本の責任と今後の課題

台湾は歴史的に日本と深い関係を持ち、戦後も日本を信じ続けた人々が数多く存在します。しかし、日本国政府は戦後の長い間、台湾の問題を事実上放置してきました。その背景には、日中共同声明や国際情勢など複雑な要因がありますが、台湾の人々が寄せてきた期待に十分応えてきたとは言い難い現実があります。

台湾はどこの国なのか――この問いは、歴史、国際法、そして両国の絆を踏まえなければ答えが出せない問題です。そして、この未解決の課題は、日本にとっても今後向き合わなければならない大きなテーマであり続けるでしょう。

そして、この未解決の課題は、日本にとっても今後向き合わなければならない大きなテーマであり続けるでしょう。

この問題の行方を左右するのは、政府や国際政治の動きだけではありません。

日本という国がどのような立ち位置を取り、どのように行動するか――その背後には、国民全体の意思があります。

明治維新からわずか44年で不平等条約を撤廃したときのように、日本人が心を合わせ、揺るぎない意志を示すことができれば、争わずして誇りある未来を切り拓くことができます。

そのための旗印が、「共震・共鳴・響き合い」です。

国民の心を一つに──共震・共鳴・響き合いの旗のもとに

明治の日本は、わずか44年で不平等条約をすべて撤廃しました。
それを可能にしたのは、為政者の力だけではありません。
「日本を取り戻す」という強い意思を国民一人ひとりが抱き、政府と民が同じ課題を共有し、同じ方向を向いて行動した結果です。

現在、私たちの周囲には、台湾をはじめ戦後から未解決のまま残されてきた重要な課題があります。
国際社会は、表向きには美しい理念を掲げつつも、実際には力と利害で動いています。
この現実の中で、日本が誇りと尊厳を守り抜くために必要なのは、国民全体の意思を再び一つにまとめることです。

その指針となるのが「共震・共鳴・響き合い」です。
• 共震──国の危機や社会の変化を、他人事ではなく自分事として共有すること。
• 共鳴──互いの心や志が響き合い、孤立せずに支え合い、認め合うこと。
• 響き合い──その輪が社会全体に広がり、価値観と行動の方向を揃えていくこと。

これらは争いのためではなく、未来を築くための基盤です。
この基盤が確立されれば、日本は武力ではなく絆によって、自らの立場を世界に示すことができます。
台湾との関係においても、歴史と信頼を踏まえたうえで、平和的かつ揺るぎない解決の道を探ることが可能になるでしょう。

国の未来は為政者だけで決まるものではなく、国民全体の意思によって方向づけられます。
共震し、共鳴し、響き合う国民的意思を育てることこそ、これからの日本に求められる最大の課題です。

おわりに

台湾の未来、そして日本の未来は、切り離すことのできない関係にあります。
歴史の重みと国際法の現実を直視しつつ、過去の絆を力に変え、平和と誇りある立場を守り抜かなければなりません。
そのためにこそ、共震・共鳴・響き合いを通じて国民の意思を一つにまとめることが、これからの日本に不可欠です。
未来は、私たちの手の中にあります。

お知らせ

この記事は2015/04/08投稿『台湾は待っている』のリニューアル版です。

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