はじめに|戦争と虐殺の違いとは

人類の歴史において、戦争は国家間の外交手段の一つとして繰り返されてきました。しかし、戦争には明確なルールがあります。その根本にあるのは、「戦争とは軍服を着て武装した者同士が対峙するもの」 という共通認識です。このルールは東西を問わず、古代から人類が積み重ねてきた暗黙の秩序でもありました。
ところが、このルールを踏み外したときに起こるのが「虐殺」です。本来ならば戦場での武力衝突で完結するはずの戦いが、罪なき一般人へと矛先を向けた瞬間、それはもはや戦争とは呼べない行為に変質してしまうのです。

「軍服を着た者同士」が戦うのが戦争

戦争の根本は、国家の代表としての軍人同士が、武装し、軍服をまとい、正面から対峙するところにあります。
軍服はその人物が兵士であることを示す記号であり、戦う当事者であることの証でもあります。つまり、軍服を着て戦場に立つことは「自分は戦闘に参加している」という意思表示であり、同じ立場の者と戦う限り、それは戦争の枠に収まります。

このルールがあるからこそ、戦争は国家同士の手段として成立してきました。逆に言えば、軍服を着ない者を相手に武力を行使した場合、それは戦争という名の正当性を失います。戦争の名を借りた暴力行為は、どんな時代においても人類の共通認識として「卑劣」とみなされてきたのです。

一般人を狙う行為は戦争ではなく虐殺

もし軍服を着た兵士が、軍服を着ていない一般人を攻撃すれば、それは戦争ではなく「殺人」となります。さらにその犠牲が多数に及べば、「虐殺」と呼ばれる犯罪行為です。
たとえそれを行ったのが国家規模の軍隊であったとしても、戦争のルールを無視した瞬間に、その国家は「犯罪国家」として歴史に刻まれることになります。

つまり、戦争と虐殺を分ける境界線は明確です。「戦場で兵士同士が戦う」ことは戦争であり、「民間人を狙う」ことは虐殺。この違いを見失えば、戦争はただの大量殺戮に転落してしまいます。
歴史を振り返ると、この境界線を超えた瞬間に悲劇的な虐殺事件が数多く生まれてきたことがわかります。

戦争から虐殺へ変わる瞬間

第二次世界大戦において、日本は終戦間際まで「軍服を着た者同士の戦い」を守り続けました。確かに、それまでは戦争という枠組みの中で、兵士が兵士を相手に戦っていたのです。
しかし、戦争の末期になると状況は大きく変わりました。米軍は島々を制圧する過程で、次第に戦闘の対象を兵士から一般市民へと広げていったのです。この瞬間から、戦争は「戦争」であることをやめ、「虐殺」へと変質しました。

日本軍が最後まで守った「戦争のルール」

日本軍は終戦に至るまで、基本的には軍人同士が戦うという戦争のルールを貫いていました。サイパンや硫黄島、沖縄戦などでも、日本兵は軍服を着て武器を持ち、軍人としての誇りをかけて戦い抜きました。
そのため、日本の戦い方は最後まで「戦争」であり続けたといえます。ところが戦争末期になると、米軍の攻撃は次第にその枠を超えていきました。

米軍によるサイパン・沖縄・東京大空襲

サイパンやグアム、沖縄戦では、米軍は一般住民が生活する地域にまで砲撃を加えました。戦場の兵士だけでなく、逃げ場のない民間人が犠牲となっていったのです。
さらに、東京をはじめとする大都市では、大規模な空襲が繰り返されました。軍需工場だけでなく、住宅地や学校までもが爆撃の対象となり、炎の海に呑み込まれた市民が数え切れないほど命を落としました。

この時点で、戦争はすでに「軍人同士の戦い」ではなく、「一般人を狙った攻撃」へと変わっていたのです。

広島・長崎への原爆投下が意味するもの

そして決定的な出来事が、広島と長崎への原子爆弾投下でした。
広島では約16万人、長崎では約8万人という膨大な数の一般市民が一瞬にして犠牲となりました。軍人を狙った攻撃ではなく、最初から最後まで一般人を標的にした行為――それは戦争の名を借りた大規模な虐殺にほかなりません。

この瞬間、第二次世界大戦は「戦争」という枠を超え、人類史に刻まれる大規模な虐殺事件のひとつへと姿を変えたのです。

虐殺事件ランキングという視点で見る先の大戦

人類の歴史を振り返ると、数多くの虐殺事件が発生しています。民族紛争や宗教対立、あるいは独裁政権による粛清など、その形はさまざまです。しかし第二次世界大戦末期に日本で起こった出来事は、その犠牲者数や攻撃の性質から見ても、世界的な虐殺事件ランキングの上位に数えられるものでした。

とりわけ広島と長崎への原爆投下、そして全国の都市に対する無差別爆撃は、戦争のルールを完全に逸脱した行為でした。これらは軍人ではなく、明らかに一般市民を標的としたものであり、まさに「虐殺」と言わざるを得ません。

広島で16万人、長崎で8万人の犠牲

1945年8月6日、広島に投下された原爆によって約16万人の命が奪われました。そしてそのわずか3日後の8月9日、長崎でも約8万人が犠牲となりました。
これらの犠牲者の大半は、戦闘に参加していない一般市民でした。彼らは武器を持たず、ただ日常生活を送っていただけであり、戦争の当事者ではありませんでした。

もし「虐殺事件ランキング」というものが存在するなら、広島と長崎の原爆投下は、間違いなく上位に位置づけられる規模の惨劇です。

空襲や原爆がもたらした「民間人虐殺」の規模

広島・長崎に限らず、日本各地の都市空襲でも無数の民間人が犠牲となりました。東京大空襲では一夜にして10万人以上が命を失い、大阪や名古屋、神戸といった都市も壊滅的な被害を受けています。
こうした無差別爆撃の被害を合算すれば、その規模は原爆被害をも上回るほどです。

「軍服を着ていない人々を狙った攻撃」という点で、これらの空襲もまた明確に虐殺事件と呼ぶべきものです。規模の大きさから見れば、これらは世界の虐殺事件ランキングにおいても上位に位置することは疑いようがありません。

戦争から虐殺に変質した歴史の意味

戦争が戦争であるためには、軍人が軍人を相手に戦うというルールが守られなければなりません。しかし、第二次世界大戦末期に繰り返された空襲や原爆投下は、このルールを完全に崩壊させました。
その瞬間、戦争は「戦争」としての枠を超え、虐殺へと変質したのです。

虐殺事件ランキングの視点から振り返れば、日本で起きたこれらの出来事は、人類史の中でも最大規模の民間人虐殺といえるでしょう。そして、この歴史の意味を忘れないことこそ、現代を生きる私たちの責任なのです。

昭和天皇の決断と終戦の本質

広島・長崎への原爆投下、そして全国の都市に対する空襲によって、第二次世界大戦は「戦争」ではなく「虐殺」へと変貌しました。そのような状況の中で、戦いを終わらせる決断を下したのが昭和天皇でした。
この決断の背後には、単なる軍事的な敗北や国力の限界ではなく、「日本は虐殺には加担しない」という強い意志が込められていました。

新型爆弾の使用を止めた理由

実は昭和20年初頭、日本でも新型爆弾の開発が進んでおり、完成に至ったといわれています。沖縄戦で集結する米艦隊に対して使用する計画も存在していました。
しかし、その報告を受けた昭和天皇は、もし日本がこの爆弾を使用すれば米国も同様に応じ、両国の間で無数の民間人が犠牲になると深く憂慮しました。そして「民に犠牲が出たとき、朕はどのように民に謝れば良いのか、皇祖皇宗にどのように謝れば良いのか?」と疑問を呈せられました。これによって我が国における原子爆弾の開発は中止となりました。

この陛下のお言葉には、戦争が虐殺へと転落することを避けたいという強い思いがあったと拝せられます。

「敗戦」ではなく「終戦」と呼ぶべき意味

1945年8月14日、昭和天皇はついに戦闘行為を終結させることを決断しました。翌15日に放送された玉音放送によって、日本国民は初めてその意志を知ることとなります。
この決断は、単に戦いに敗れたからではなく、虐殺の連鎖に日本自身が加担しないための選択でした。

だからこそ8月15日は「敗戦の日」ではなく「終戦の日」と呼ばれるべきなのです。戦争を終わらせることで、日本は虐殺国家になることを拒み、人類社会のルールを最後まで守ろうとしたのです。

戦争を終えることで虐殺に加担しない決意

昭和天皇のお言葉には、もう一つの大きな意味がありました。それは、日本が自ら虐殺に手を染めることを拒否されたということです。
もし戦闘を続けていれば、日本各地でさらに一般市民の犠牲が増え、虐殺は拡大していたでしょう。それは米国による攻撃であっても、日本が戦いを続ける限り、日本の軍事行為によって自国民が犠牲になるという側面を持っていました。

だからこそ、戦争を終えるということは、「虐殺に加担しない」という日本の最終的な意思表示だったのです。

虐殺事件ランキングから学ぶべき教訓

歴史を振り返ると、虐殺事件はいつの時代にも存在してきました。どの国であれ、どの時代であれ、「極悪」が権力を握ったときに必ず起きるのが虐殺です。第二次世界大戦末期の広島・長崎への原爆投下や全国の都市空襲もまた、人類史に残る最大規模の虐殺事件ランキングに数えられる出来事でした。
では、私たちはそこからどのような教訓を学ぶべきなのでしょうか。

時代の思考を踏まえなければならない

では、米国側から観たとき、日本の民間人への無差別攻撃は虐殺だったのでしょうか。答えはNOです。それぞれの時代には、それぞれの時代の認識があります。この時代、有色人種は人間ではありません。人に似た動物の猿と考えられました。大人しい猿なら、時に可愛がってもらえることもあるでしょう。けれど猿が人類に歯向かったら凶暴な野獣と見做され、殺処分の対象となります。殺人は罪になります。しかし殺猿罪という罪はありません。単なる殺処分です。けれど我々日本人からしたら、有色人種だって人間です。だから殺処分に対して敢然と戦ったのです。

被害者になってはいけない

先の大戦の結果、有色人種も人間と見做されるようになりました。いまではすっかり、黄色種も黒人種も、白人種と同じ人間として対等に暮らせる世界になりました。その現代の価値観で過去の歴史を評価することはできません。時代には時代の思考があるからです。

従って「先の大戦で我が国は民間人が大量に殺された、だから我々は被害者だ」と考えることは、我々有色人種が「人間である」という視点にたった考えです。けれど当時は、500年続いた植民地統治が世界のあたりまえになっていた時代です。いまでも牛の口蹄疫や鶏の鳥インフルエンザで、何十万頭、1億羽といった牛や鶏が殺処分になることがあります。では、牛や鳥は被害者なのでしょうか・・・ということと同じなのです。
先の大戦の結果、ようやく私たち有色人種は人間と見做されるようになりました。そうであれば、より一層、人として、国として、立派に生きていく必要があるのではないでしょうか。

平和で豊かな未来を築くために

歴史を学ぶことの意義は、過去を非難することではありません。避難したところで、過去の事実が変わるわけではありません。そして先の対戦で命を失われた方々全員の総意として、生き残り、次代を担っている私たちが、彼らのぶんまで平和で豊かで安全で安心な国を、しっかりと維持していくこと。世界の模範となれるような立派な有色人種となっていくこと。

昭和天皇は終戦のご詔勅において、次の御言葉を述べられました。

「宜(よろ)シク挙国(きょこく)一家子孫相伝(あいつた)ヘ、確(かた)ク神州(しんしゅう)ノ不滅ヲ信シ、任(にん)重(おも)クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ、総力(そうりょく)ヲ将来ノ建設ニ傾(かたむ)ケ、道義(どうぎ)ヲ篤(あつ)クシ、志操(しそう)ヲ鞏(かた)クシ、誓(ちかっ)テ国体ノ精華(せいか)ヲ発揚(はつよう)シ世界ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサラムコトヲ期スヘシ。爾臣民其(そ)レ克(よ)く朕カ意ヲ体(たい)セヨ」

現代語に訳してみます。

「そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、人の道を重んじて、動かぬ志を保ち、誓って民衆こそが「おほみたから」とされる国柄を大切にし、日本人としての美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけなさい。汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体しなさい。」

お知らせ

この記事は2024/07/11投稿『戦争の反対語は「虐殺」』のリニューアル版です。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。

虐殺事件ランキング最上位は日本!?│戦争と殺戮の境界線を考える” に対して1件のコメントがあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です