はじめに|豊臣秀吉の朝鮮出兵はいつ行われたのか

「文禄の役」と「慶長の役」――二度の出兵

豊臣秀吉が行った「朝鮮出兵」は、一度きりではなく二度にわたって実施されました。最初は文禄の役(1592~1593年)、続いて慶長の役(1597~1598年)です。したがって、「豊臣秀吉 朝鮮出兵 いつ」と問われれば、答えは1592年から1598年にかけての二度の遠征となります。このわずか数年の間に、十数万人規模の兵が海を渡ったという事実は、当時の東アジアにおいて極めて大規模な戦いであったことを示しています。

朝鮮ではなく「明」との戦いだったという視点

ただし、「朝鮮出兵」という呼び方には誤解を生む要素があります。秀吉が本来相手にしようとしたのは、朝鮮王ではなく、その背後にあった明国(中国)でした。当時の李氏朝鮮は明の勢力下にあり、日本軍が交戦した主な相手は明軍だったのです。つまり「朝鮮征伐」という表現は、実際の戦いの本質を捉えていません。戦場が半島に限られていたためそう呼ばれるようになったに過ぎないのです。

出兵の時期を理解するための前提

このように、朝鮮出兵が「いつ」であったかを答えるだけでは不十分です。重要なのは、その時期に豊臣秀吉がなぜ行動を起こしたのかという背景です。当時の日本は戦国の世を終え、国内の統一を成し遂げたばかりでした。一方で、東アジアではスペイン帝国の影響が拡大し、世界規模での勢力争いが展開されていました。秀吉の出兵も、単なる戦国武将の野望ではなく、国際情勢を見据えた戦略的な判断だったのです。

1 世界史の視点から見る朝鮮出兵

韓国での評価と李舜臣の存在

現代の韓国において、豊臣秀吉は「もっとも嫌われる日本人の一人」とされています。その理由は、文禄・慶長の役によって朝鮮半島に攻め込んだとされる歴史認識にあります。特に、朝鮮の将軍・李舜臣は国民的英雄として語られ、日本軍を海上で封じ込め、補給路を断ったと伝えられています。韓国の歴史観では、李舜臣の活躍によって日本が撤退を余儀なくされたという物語が強調されているのです。

「補給路を断たれた」という誤解と史実

しかし、史実をたどるとその理解には大きなずれがあります。李舜臣は確かに海戦を挑みましたが、文禄元年(1592年)の釜山港での戦いでは日本軍に敗北しています。また、慶長3年(1598年)の露梁海戦では、すでに停戦協定が結ばれ、日本軍が撤収する途中を追撃した戦いにすぎません。しかも李舜臣自身がこの戦闘で戦死しています。つまり、「李舜臣が日本の補給路を断ったため撤退した」という説は事実ではなく、むしろ日本軍は自らの戦略判断と秀吉の死によって撤収したのです。

なぜ大名たちは出兵に従ったのか

秀吉の朝鮮出兵については、「秀吉が老いて判断を誤った」あるいは「戦国武士を国外で消耗させるためだった」といった単純な説明が広まっています。しかし、それだけでは到底理解できません。もし秀吉が一人の老将として無謀に戦を始めただけなら、各地の大名が莫大な費用と労力をかけてまで従う理由はなかったはずです。実際には、国内外の情勢、とくにスペイン帝国の東アジア進出といった国際政治的背景があり、それを理解していたからこそ東北の大名までが積極的に兵を出したのです。

2 スペイン帝国と日本の緊張関係

宣教師の布教と植民地化の狙い

スペインが日本に最初に姿を現したのは天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルの来日でした。表向きはキリスト教の布教でしたが、実際には将来の植民地化を見据えた情報収集や懐柔工作が大きな目的でした。宣教師たちは各地の大名に迎え入れられ、改宗者も増えましたが、それはやがて軍隊を導入するための布石でもあったのです。世界の他地域では、宣教師の活動をきっかけにスペイン軍が入り込み、住民を制圧し、その土地を植民地化していった例が数多くありました。

日本が鉄砲を世界一保有した事情

しかし、日本は他の国々とは大きく違っていました。西洋からもたらされた鉄砲を、日本人は短期間で模倣し、大量生産に成功しました。その結果、戦国末期には世界の総保有数の半分にあたる約50万丁の鉄砲が国内に存在するまでに至りました。この軍事力の飛躍的な強化は、スペインにとって計算外の事態でした。スペイン側の報告には「日本は住民が多く城郭も堅固で、軍事力での侵入は困難」と記されていますが、これは鉄砲の圧倒的な数を正面からは書けず、婉曲的に示した表現だったのです。

スペインの日本占領計画が遅れた理由

本来であれば、日本も他のアジア諸国と同じく布教と調略の末に植民地化されるはずでした。ところが、日本人が鉄砲を即座に取り入れ、軍事力を世界水準以上に高めたため、スペインは直接的な侵略を諦めざるを得ませんでした。代わりに「福音を宣伝し、日本人を自らスペイン王に臣従させる」という戦略に切り替えたのです。つまり、日本は世界最強の大帝国スペインにとっても「軍事的に容易に征服できない国」と認識されていたのです。

3 秀吉が朝鮮出兵に踏み切った背景

安全保障上のリスクと「元寇の再来」への備え

豊臣秀吉が日本を統一すると、国内の平和がようやく訪れました。しかし同時に、国際情勢が大きな課題となります。もしスペインが明国を植民地化すれば、膨大な明兵を背景に日本へ侵攻する可能性が生じます。これは鎌倉時代に元軍が襲来した「元寇」を思わせる深刻な脅威でした。秀吉にとって、この脅威を防ぐ唯一の方法は「スペインより先に明国を抑える」ことであり、その拠点として朝鮮半島を制することが不可欠と考えられたのです。

刀狩りと国内治安の回復

秀吉は国内の戦乱を終わらせるために「刀狩り」を断行しました。これは庶民から武器を取り上げ、内乱の芽を摘む画期的な政策でしたが、同時に日本の総合的な戦力を弱める側面も持っていました。もし外国勢力が攻め込んでくれば、民衆が武器を持たない状況は大きなリスクになりかねません。だからこそ秀吉は、戦力がまだ潤沢なうちに対外戦を起こし、潜在的な脅威を遠ざけておく必要があったのです。

明を緩衝地帯として利用する構想

たとえ明国全体を支配できなかったとしても、日本が朝鮮半島を押さえることで、地政学的に「緩衝地帯」を確保できます。つまり、日本と明国の間に防壁を築くことで、スペインや明の脅威を直接受けにくくする戦略です。これは後の明治期に、日本がロシアの南下政策に備えて朝鮮半島を重視した政策と酷似しており、歴史的に見ても理にかなった安全保障上の判断でした。

4 スペインへの強硬姿勢と外交交渉

「臣下の礼を取れ」と迫った秀吉

秀吉は、文禄の役を始める直前の天正18年(1591年)、スペインに対し驚くべき要求を突き付けました。ルソン(現在のフィリピン)にあったスペイン総督府に使者を派遣し、「スペインは日本に入貢し、臣下の礼を取るべきだ」と迫ったのです。世界を制していた大帝国スペインに対し、正面から「従え」と言い放つ国は、当時の世界で日本だけでした。この強気な姿勢こそが、秀吉の気宇壮大な世界戦略を物語っています。

マニラでの日本人町の成立

日本が文禄の役を開始すると、スペイン総督府は大きな衝撃を受けます。もし日本が明国を制すれば、東アジアの最大勢力となり、スペインにとって深刻な脅威となるからです。その危機感から、マニラに住む日本人を一か所に集めて監視下に置く政策をとりました。これが後に「マニラの日本人町」と呼ばれる共同体の始まりでした。スペインが日本をどれほど警戒していたかが、この事実からも分かります。

サン・フェリペ号事件が示した植民地支配の実態

さらに緊張を高めたのが、慶長元年(1596年)に起きたサン・フェリペ号事件です。スペインの大型船が日本に漂着した際、その乗組員が「宣教師を先に送り込み、改宗者を増やした後に軍隊を投入し、その土地を占領する」と自白しました。これは、スペインが世界中で実行してきた植民地政策の実態を示すものであり、秀吉にとっては日本の危機を裏付ける決定的証拠でした。この事件を受け、秀吉は国内のキリシタンに厳しい処置を取り、スペインに対してますます強硬な態度を崩さなくなったのです。

5 秀吉の世界戦略とその結末

「対等な関係」が存在しない国際関係の現実

当時の国際社会において、「対等な国際関係」という概念は存在しませんでした。力のある国が弱い国を支配するか、逆に支配されるか、その二択しかなかったのです。だからこそ秀吉は、スペインと「友好関係を結ぶ」といった中途半端な選択肢を取らず、徹底して「日本が上位である」ことを示し続けました。これによって日本は、スペインの植民地化の流れに飲み込まれることを避けられたのです。

秀吉が目指した「戦のない世の中」

一方で、秀吉の真の理想は「戦のない太平の世」でした。国内統一ののち刀狩りを行い、庶民から武器を取り上げて治安を安定させたのはその象徴です。しかし、国内の平和を守るためには、国外からの侵略の火種を遠ざけなければなりませんでした。そのために朝鮮出兵を行い、国力を誇示し、スペインの勢力を東アジアに寄せつけないという戦略を選んだのです。

慶長の役の終結と秀吉の死

二度目の遠征である慶長の役(1597~1598年)は、秀吉の病と死によって終わりを迎えます。秀吉亡き後、日本軍は朝鮮半島から撤退しました。この撤退は「敗北」ではなく、指導者を失ったことによる戦略的な帰還でした。つまり、朝鮮出兵は「秀吉の気まぐれ」ではなく、国際情勢を踏まえた安全保障政策として進められ、その終焉は秀吉の死という国内事情によって決まったのです。

おわりに|朝鮮出兵から学ぶ気宇と誇り

秀吉が守ろうとした自立自存の精神

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、単なる権力者の野望や気まぐれではなく、当時の世界最強国スペインによる植民地化の危機に対抗するための戦略的判断でした。もし日本が沈黙していれば、明国や朝鮮半島はスペインの支配下に置かれ、やがて日本もその影響を避けられなかったでしょう。秀吉が示したのは、自らの国を守り抜く「自立自存」の気概そのものでした。

日本・朝鮮・中国が植民地化を免れた理由

南米の国々では、スペインによる侵略によって先住民が姿を消し、白人との混血が主流となりました。しかし、日本・中国・朝鮮はそれぞれ民族としての純血を保ち、今日まで続いています。その背景には、秀吉とその配下の大名たちがスペインに真正面から対抗する姿勢を見せ、東アジアを容易に支配させなかったことが大きく影響しています。

現代に生きる教訓

最終的に朝鮮出兵は、秀吉の死によって幕を閉じました。しかし、その過程で日本が世界に示した「気宇壮大な誇り」は決して無駄ではありませんでした。戦国の武将たちが真剣に戦い、国の存続を守るために命を懸けた歴史は、現代に生きる私たちにとっても大きな教訓を与えます。すなわち、国の独立と誇りを守るためには、時に大きな決断と行動が必要であるということです。

お知らせ

この記事は2021/10/06投稿『秀吉の朝鮮征伐は、秀吉が「明国と朝鮮半島で戦った」事件』のリニューアル版です。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です