はじめに|伊勢神宮と日本人の心

江戸の人びとは、愚かさや過ちを抱えながらも、その奥に潜む「良心のかけら」を信じて生きていました。ほんの小さな光でも、それを大切に守り育てることで、人と人とが思いやりを分かち合う社会を築いていたのです。その心の象徴こそ「お伊勢参り」でした。伊勢神宮は、人々にとって信仰の対象であると同時に、良心を映し出す鏡であり、人生を支える灯火の場でもありました。

江戸時代の旅と「お金」の意味

当時の人びとは、お伊勢参りや金毘羅参り、富士登山や温泉湯治など、積極的に旅を楽しんでいました。とりわけ伊勢参拝は、年間500万人もの人が訪れた「国民的行事」と言えるもの。

その際、旅人は「もしもの時」に備え、小判を衿に縫い込んで旅立ちました。これは単なる貨幣ではなく、仲間や地域社会との「絆の保証」でした。お金は孤独に握りしめるものではなく、人の助け合いを支える“約束の証”として生きていたのです。

女中と贋金|不思議な旅

こうして五人にひとりがお伊勢参りをしていた江戸時代のこと、農家からある商家に奉公に出ていたある女中【じょちゅう】さんの実話が残っています。

その女中さんは、一度でいいからお伊勢様に参拝したいと願っていたのですが、あるとき主人が小判を一両、箱に入れたのを見て、その夜こっそりと取り出して、それを旅費にしてさっそく誰にも告げずに出掛けたのだそうです。女中は、うしろから追われるのではないかと思い、街道の方へ急いで行きました。

あいにくワラジのヒモが切れてしまい、一銭もないので、手にしている小判を銭に両替してもらおうと、あちこちを回るのですが、どこに行っても断られてしまいます。

どうなることかと思案に暮れていると、どこの人ともしれない男が女中のこの様子を見ていて、そっと道の向こうに呼び寄せました。

「お前、一緒に行く人もいないのに伊勢神宮へ参拝するようだが、カネを持っていると思われるとどんな目にあうかわからない。取られないように用心したほうがいい。小判を持っているなら、銭に替えてやろう」という。

女中が承知しないでいると、その男は金二分を取り出して見せ、

「ワシはこっそり取り替えてやろうと思ったが、ここにある二分金以外に持っていない。少し待っていろ。外に行って両替してきてやろう。とにかく二分金を渡しておくから、この小判を出せ」というので、本当かと思い、女中は小判を渡します。

ところがいつまで経っても現れない。さてはだまされたかと気付くのですが、男の行方はわからない。思案に暮れているとその男が帰ってきます。そして荒々しい声で、

「きさまはよくも俺を騙したな、あの小判はニセモノだ」と怒鳴りました。女中も負けてはいません。そんなことあるもんですかと、こちらも大声を出して応じます。男と女の言い争う声は激しさを増しました。

あたりに響く争いの声に、近くにいた人たちが何事が起きたのだと集まってきます。双方の言い分を聞いているうちに、男は詐欺師で、女中をだましていると感じる。これは男から二分を取り戻すことが先決だと集まった人たちは考え、男を責めました。男はこうした方法で旅人をだましてはカネをかすめとることで渡世【とせい】しているならず者でした。

男は、この場をうまく切り抜けることはもはやむつかしいとみて、身を隠すに限ると思ったのか、一瞬のすきをみて素早く逃げ出してしまいました。集まっていた人たちは、逃がすな、あの野郎と追い掛けたが、男は人混みのなかを駆け抜けて姿を消してしまいます。仕方なく戻ってきた人は、女中に「あんたには気の毒だが、あいつは詐欺専門のならず者だから皆だまされる。それでも半分は手もとに残ったのだから、あきらめな。そのカネを旅費にすれば、伊勢参拝はできるから」と慰めてくれました。

女中はやむをえないと思って、その二分金を旅費にして伊勢参拝を果たして、無事に故郷に帰ってきました。そしてこの一連のできごとを詳しく家族に話しました。

すると主人は、

「おかしな話だよ。まったくその男がお前をだまして盗んでいった小判は、実はニセモノなのだ。旅費につかえるようなものではない。それを男のために二分金を手に入れ、楽々と伊勢神宮に参拝できたことは、神の恵みと言っていい」と言いました。

お金が教える「神の恵み」

このお話は、江戸時代に実際に遠州の榛原郡であったお話で、中村乗高という人が『事実証談【ことのまことあかしがたり】』という本の中で、実際に詳しく調査して明らかになった事実を紹介しているものです。

女中が持ち出したのは、主人の蔵にしまわれていた小判一両でした。ところがそれは贋金で、どこに持って行っても銭に替えてもらえません。もしそれが本物だったなら、彼女は何の苦労もなく旅を続けられたでしょう。しかし「偽物」だったがゆえに、詐欺師との出会いがあり、人々の同情や支えが生まれ、結果として二分金を手にして参拝が叶いました。

この出来事は、お金がただの「価値の尺度」ではないことを物語っています。

お金は本来、人と人とのあいだに信頼を生み、心をやりとりする「道具」です。そこには、善意や悪意すらも超えて、神が人を導く不思議な働きが潜んでいます。女中にとっては、偽物を通じてこそ「本物の旅」が与えられたのです。

つまり、贋金という“無価値”が、結果的に“真価”へと転じた。これこそが「神の恵み」と呼ぶにふさわしいでしょう。お金そのものではなく、そのやりとりの中に生まれる出来事、出会い、心の動き――そこにこそ、神々が人に与える深い学びがあるのです。

共震共鳴がひらく未来

この物語が伝えるのは、「お金」だけに依存した生き方ではなく、人の心が響き合うところにこそ人生の豊かさがある、という真実です。

贋金から始まった旅が本物の参拝へとつながったように、お金の価値は絶対ではありません。むしろお金は、人と人を結びつけ、共に生きるためのきっかけであり、試金石なのです。

現代社会では、お金があるかないかが人の価値を測る物差しのように扱われがちです。しかし、本当は逆で、お金は「響き合い」を生むときにこそ力を持ちます。互いに信じ合い、助け合うとき、お金は単なる貨幣を超え、絆を育てる道具になります。

伊勢神宮の奇跡がそうであったように、どんな逆境の中にも「心を通わせる力」は潜んでいます。そして人と人が共震し、共鳴し、響き合うならば、神の風が吹き、思いもよらぬ道が開かれていきます。

女中の物語は、いまを生きる私たちにも告げています。

「お金に振り回されるのではなく、お金を通じて心を結び、共に歩みなさい」

そうすれば、たとえ偽物に見えるものからでも、本物の人生と未来が拓けていくのだと――。

お知らせ

この記事は2023/12/25投稿『お伊勢様にまつわる怪談』のリニューアル版です。

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