はじめに|日本の軍事力はなぜ高いのか

「日本の軍事力が高い理由は何だろう?」――そう問いかけられると、多くの人は現代の自衛隊や最新兵器を思い浮かべるかもしれません。けれど、その答えはもっと深く、歴史の奥底に眠っています。

実は、日本は古代から世界の最先端を走る軍事大国でした。信じがたいかもしれませんが、時代をひも解いていくと、まるでファンタジーの物語のように見える数々の出来事が、事実として積み重なっています。

日本の戦闘技術や武具の発展は、縄文から弥生、卑弥呼の時代、そして大和朝廷や平安期、鎌倉・戦国時代に至るまで、途切れることなく続いてきました。その強さは単なる武力だけでなく、「どう戦うか」「どう守るか」という知恵と工夫に裏打ちされています。

しかし現代では、政治的な制約のもとにその力が抑えられています。もしこの制約が外れたなら――日本は再び世界の最先端を担う存在になる、と言っても過言ではありません。

これからの章では、縄文時代から現代までを旅しながら、「日本の軍事力が高い理由」を紐解いていきましょう。そこには、悠久の時を超えて受け継がれた知恵と誇りが刻まれているのです。

縄文時代|武器を持たなかった超大国

青銅器を生活道具として活用

縄文時代は、いまからおよそ1万7千年前から約3千年前まで、実に1万4千年もの長きにわたり続いた時代です。世界の多くの地域がまだ石器を頼りに暮らしていたころ、日本ではすでに青銅器が登場していました。驚くべきことに、約7千年前には青銅を用いた道具が使われていたともいわれているのです。

けれども日本人は、その青銅を決して武器にはしませんでした。斧や槍に作り変えることは容易だったにもかかわらず、生活のための器具や道具として利用していたのです。そこには「力を誇示するのではなく、平和に生きる」という価値観が宿っていたと考えられます。

武器を持たずに強さを示した文化

ここに、「日本の軍事力が高い理由」の原点があります。つまり、日本は武器を持たずとも、いつでも軍事力を持ち得る技術を秘めていたのです。必要とあらば、青銅器は瞬時に武器へと姿を変えることができる。しかし、あえてそれをしなかった。

世界が戦いや略奪を繰り返すなか、日本は「力を抑える強さ」を持ち続けました。これは単なる武力ではなく、文化的な力、そして精神的な強さでした。後に日本が世界でも突出した軍事力を発揮できたのは、この縄文時代の価値観と技術的基盤があったからだといえるでしょう。

弥生時代|世界に先駆けた鉄器の製造

鉄の剣と盾がもたらした圧倒的優位

弥生時代、日本列島には大きな転機が訪れました。弥生式土器を焼くためには1200度もの高温が必要で、その温度を出すためには、窯に炭を入れ、さらに空気を送り込み、真っ赤に燃え上がらせる高度な技術が必要でした。

この技術を手にした日本人は、やがて鉄を自在に加工できるようになります。およそ3000年前にはすでに鉄器を製造していたことが、福岡県春日市の赤井手遺跡からも確認されています。

当時、世界の多くの地域ではせいぜい800度ほどの熱しか得られず、青銅器の加工止まりでした。その中で、日本は鉄の剣や盾を持ち得た数少ない地域。鉄の剣は青銅の盾をたやすく貫き、鉄の盾は青銅の剣を受け付けません。まさに圧倒的な軍事的優位を築いていたのです。

半島諸国を利用した防衛戦略

しかし日本は、単に武器を持っていたから強かったわけではありません。周辺諸国の状況を見極め、巧みに戦略を立てていました。

当時、朝鮮半島には高句麗・新羅・百済といった国々が誕生しますが、これらは日本が働きかけて独立を促したものでもありました。つまり、日本は自らの直轄地として守るのではなく、あえて現地の国々を独立させ、彼ら自身に防衛を担わせたのです。

その背景には、戦乱の中国大陸から流れ込んでくる敗残兵の侵入を防ぐという目的がありました。北方の「高句麗」は「高い国」、新羅の「羅」は「網」、そして百済は「桃が成る国」という意味を持ち、それぞれに防衛の象徴が込められています。

つまり日本は、鉄という軍事的優位性を持ちながらも、周辺諸国を味方につけて広域の安全保障網を築き上げていたのです。この先見性と戦略性こそが、日本の軍事力をさらに高めた理由のひとつだったのです。

卑弥呼の時代|倭国と魏を結んだ鉄の力

鉄の供給国としての倭国

卑弥呼が登場する三世紀頃、中国大陸は魏・蜀・呉の三国時代でした。その中で魏が圧倒的に強かった理由は、青銅器の軍団を用いていた蜀や呉とは違い、魏が鉄器の軍団を持っていたからです。

しかし不思議なことに、魏の領土には鉄の産地がありませんでした。では魏はどこから鉄を得ていたのか――その答えが「倭国」でした。

当時の倭国は朝鮮半島南部を直轄地としており、そこには豊かな鉄の鉱山がありました。そこで採掘された鉄は「たたら製鉄」の技術で加工され、武器や道具として仕立て上げられます。そしてその鉄を、倭国は魏へと輸出していたのです。

つまり魏の軍事的優位を支えた根本は、実は倭国が握っていた鉄にあったのです。ここにも「日本の軍事力が高い理由」がくっきりと浮かび上がります。

呉の朝貢が示す日本の地位

魏と戦い続けた呉もまた、その秘密を察知します。魏の強さは倭国から供給される鉄にある――そう理解した呉の王は、なんと自ら倭国に使者を送り、朝貢を誓いました。この記録は日本書紀にも残されており、呉の国王が一方的に倭国への服従を申し出たことが確認されています。

これは単なる外交儀礼ではなく、倭国の圧倒的な軍事的地位を示す出来事でした。中国大陸の強国でさえ、倭国の資源と軍事力を無視できなかったのです。

つまり卑弥呼の時代、倭国は東アジアの超大国として君臨していました。

古代大和朝廷|海洋大国としての広がり

倭国が支配した広大な海域

古代大和朝廷の時代、日本はただ列島にとどまる存在ではありませんでした。当時の倭国は、海を越えて広く影響力を及ぼす「海洋大国」でもあったのです。

その勢力は、琉球諸島や小笠原諸島、マリアナ諸島、さらにはハワイ諸島にまで広がっていたと伝えられています。遠く中南米の裸国や黒歯国までが倭国の一部として認識されていたという記録も残っており、まさにグローバルな広がりを持つ存在でした。

実際に縄文土器が中南米や北米から出土していることからも、日本列島と大洋の彼方が結びついていた可能性が感じられます。倭人の足跡は、ただの伝説ではなく歴史の一端として息づいているのです。

この海洋的な広がりこそが「日本の軍事力が高い理由」のひとつでした。広い海域を押さえた倭国は、まさに世界に進出する超大国だったのです。

隋・唐との対峙と白村江の戦い

しかし情勢は変わっていきます。6世紀末、中国大陸に隋が誕生すると、強大な軍事国家が周辺を次々と併合し始めました。その後、隋を滅ぼして唐が台頭すると、新羅と手を結び百済を滅ぼしてしまいます。

これに対し倭国は百済を救うため出兵しますが、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍にだまし討ちを受け、敗北を喫しました。これを境に、日本はそれまでの広大な影響圏を縮小し、国境を現在の日本列島に限定して守りを固める方針へと転じます。

とはいえ、この時代においても日本の武器は世界最強でした。鉄で作られた刀や槍、さらに遠距離から敵の指揮官を正確に射抜く和弓は、東アジアにおいて他に並ぶものがなかったのです。

つまり、日本は海洋的な広がりを失っても、本土を守る軍事力では依然として圧倒的な存在であり続けました。

奈良・平安期|古刀と和弓の進化

世界最強と称された古刀の切れ味

奈良から平安の時代、日本の武器は大きな進化を遂げました。両刃の剣が片刃の日本刀へと形を変え、さらに切れ味を増していったのです。この時代に作られた刀は「古刀」と呼ばれ、鉄製の鎧をも真っ二つに斬り裂くほどの威力を誇っていました。

驚くべきことに、室町以降の刀では同じことはできません。この切れ味は、数千年にわたる鉄の加工と鍛錬の工夫が積み重なって生み出された、まさに奇跡の技術だったのです。

刀剣は世界中で作られたものです。けれど日本の刀は、硬い鉄と柔らかい鉄を何層にも重ね、丈夫さと柔らかさを併せ持つ、世界的にみても特異な性能を持ちます。アーミーナイフとしてのその性能は、現代の最先端の鉄鋼メーカーでも作れないほど精巧なものです。

ではそもそもどうして日本の刀はそれだけの性能を手に入れることができたのでしょうか。
理由は、刀剣類が最初から鉄を刀剣として用いるということのために制作されたものではないからです。
日本刀の技術は、実は農機具から生まれています。
鉄を利用して鍬や鋤を作るとき、何年も土を耕すのに使うのです。硬すぎれば折れるし欠ける、柔らかすぎれば曲がってしまいます。だから長い歳月をかけて、折れない曲がりすぎないように、鉄を何層にも重ね、さらに不純物をできるだけ排出する技術が育まれたのです。

つまり日本刀の技術は、いわば農機具の開発の応用として生まれていたのです。

楯を持たなかった日本の戦い方

もうひとつ特筆すべきは、日本の武者が「楯を持たなかった」点です。世界的に見れば、敵の攻撃を防ぐには楯が欠かせないのが常識でした。しかし日本では楯を使わず、身軽な戦い方を選びました。

その理由は、古刀の切れ味にありました。鉄でできた楯でさえ、古刀の一撃によって両断されてしまうため、防御の意味をなさなかったのです。むしろ楯を持たず、鎧を身に着けて自由に動き、攻撃に集中したほうが合理的でした。

つまり、日本は武器の性能に合わせて戦術を進化させていたのです。

鎌倉期|和弓と馬上からの戦い

馬上からの精緻な射撃技術

鎌倉時代に入ると、日本の戦い方はさらに洗練されていきます。その象徴が「和弓」です。すでに平安時代に大きく進化していた和弓は、鎌倉期になると馬上からでも正確に敵を射抜けるほどの技術と精度を備えていました。

馬に乗りながら弓を放つことは容易ではありません。揺れる馬上で的を狙うには、弓そのものの性能だけでなく、射手の高度な技量が必要です。鎌倉の武士たちは、この難題を克服し、戦場で自在に矢を放つ力を手に入れました。これにより、日本は「機動力と遠距離攻撃力を兼ね備えた軍事大国」へと成長していったのです。

モンゴルの大遠征にも影響を与えた和弓

驚くべきことに、日本の和弓は世界史にも影響を及ぼしました。モンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻したとき、その主力となったのは大型で威力のある弓でしたが、その原型のひとつが日本の和弓にあったと考えられています。

ジンギスカン率いるモンゴル軍は、その強力な弓を武器に東欧まで支配を広げました。つまり、日本で培われた弓の技術が、世界的な軍事の潮流にも大きな影響を与えたのです。

こうして鎌倉期の日本は、自国の軍事力を高めるだけでなく、その技術によって世界の歴史にも影響を及ぼしたと言えるでしょう。

室町・戦国・江戸期|武具と鉄砲の黄金期

日本刀・薙刀・鎧兜の完成度

室町から戦国の時代、日本の武具はさらなる完成度を迎えました。大型の和弓、切れ味鋭い日本刀、そして薙刀や合理的に作られた鎧兜――どれもが精巧に磨かれ、戦場で無類の強さを発揮しました。

この時代の日本の戦闘力は、こうした武具の進化によって支えられていました。東アジアにおいて、日本に匹敵する武装集団はほとんど存在せず、まさに軍事力の頂点に立つ存在だったのです。

世界を圧倒した鉄砲の普及

さらに、日本に衝撃を与えたのが西洋からもたらされた鉄砲でした。しかし、その受け入れと発展の速さは世界に例を見ません。鉄砲が伝来すると、日本は瞬く間にその製造技術を吸収し、大量生産を開始しました。

豊臣政権の時代には、世界に存在する鉄砲のおよそ半数が日本にあったとも言われています。つまり当時の日本は、鉄砲の保有量と技術力において世界一を誇っていたのです。

これは単なる偶然ではなく、「必要なものを取り入れ、改良し、使いこなす」という日本人の特性が生み出した結果でした。

江戸時代|軍事バランスの変化

ペクサン砲の衝撃

江戸時代の日本は、戦国の鉄砲大国としての力を引き継ぎつつも、比較的安定した時代を過ごしていました。しかし、幕末に差し掛かる頃、西洋から「ペクサン砲」と呼ばれる炸裂弾を撃ち出す大砲が登場します。

この兵器は、従来の火縄銃や大砲とは比べものにならない破壊力を持っていました。黒船来航の際に幕府が最も恐れたのは、実は蒸気機関や巨大な船そのものではなく、このペクサン砲だったといわれています。もし炸裂弾を江戸の町に撃ち込まれれば、木造建築の都市は一瞬で壊滅してしまうからです。

この脅威は、日本が世界の軍事バランスの変化を痛感するきっかけとなりました。そして「西洋の新兵器にどう向き合うか」が、日本の未来を左右する課題となったのです。

明治維新と西洋技術の導入

その危機感から、日本は明治維新を通じて大きな変革を遂げます。元込め銃や炸裂砲弾といった西洋式の兵器を積極的に導入し、軍制を一新しました。近代化の波をいち早く取り入れたのは、過去から続く「軍事に対する柔軟性」と「吸収力」の表れでした。

つまり江戸時代から幕末、そして明治維新へと至る過程は、「日本 軍事力 高い 理由」を次の時代へつなぐ架け橋だったのです。伝統的な技術を守るだけでなく、外来の進んだ技術を受け入れ改良していく姿勢こそが、日本を再び軍事大国へ押し上げる原動力となりました。

近代|西洋式兵器を取り込んだ超大国

日英同盟下の日本の強さ

明治維新を経て近代化の道を歩んだ日本は、西洋の兵器や軍事制度を取り込み、急速に軍事力を高めていきました。特に日英同盟が結ばれていた頃、日本は世界有数の海軍力を持ち、名実ともに「軍事超大国」として国際社会に存在感を示しました。

日清戦争や日露戦争の勝利は、その成果の象徴です。西洋列強に肩を並べる力を得た日本は、まさに「世界最強」と呼ばれる地位にまで到達しました。それは、ただ模倣するだけではなく、自国の特性に合わせて武器や戦術を改良した結果だったのです。

石油依存が生んだ弱点

しかし時代が進むにつれて、軍事の根幹を支える資源が石炭から石油へと変化しました。ここに日本の弱点がありました。日本は石油を産出しない国であり、その多くを海外に依存せざるを得ませんでした。

この資源の制約は、後の大東亜戦争で大きな影を落とします。どれほど高度な軍事力を誇っても、燃料が尽きれば兵器は動かない。結果として、日本は持てる力を十分に発揮できず、敗戦へとつながっていきました。

現代と未来|世界最強といえる潜在力

海上・空・陸で最先端を誇る自衛隊

現代の日本は「戦争をしない国」としての歩みを続けていますが、その裏には驚くほどの軍事力が秘められています。特に海上自衛隊の実力は「太平洋最強」とも評され、米国太平洋艦隊にすら匹敵する力を持っています。さらに航空自衛隊は高度な防空・迎撃能力を誇り、陸上自衛隊も少数精鋭で世界有数の練度を誇っています。

ただし、これらの装備やシステムは米国の影響下にあるため、日米が直接対峙することは想定されていません。それでも「日本の軍事力が高い理由」を問うならば、現代においてもその答えは明白です。人数や物量ではなく、技術力と精密さに裏打ちされた軍事力こそが日本の強みなのです。

政治的制約と資源依存という課題

しかし、日本の力がそのまま「世界最強」として発揮できないのは、政治的な制約と資源の問題にあります。憲法や国際関係の中で自衛隊の行動は制限され、またエネルギーの多くを石油に依存している現状では、軍事力を完全に自立させることは難しいのです。

それでも、もしこの制約が解除され、資源問題に解決の道が開かれれば――日本は数年を経ずして再び東アジアの安定を担う柱となるでしょう。軍事力の増強は同時に国内産業を潤し、景気回復の一助ともなり得ます。

つまり、日本は「政治と資源」という壁を超えたとき、真の意味で世界最強に近い潜在力を解き放つのです。

おわりに|「戦わないための軍事力」

若者の命を守るために

ここまで見てきたように、日本は古代から現代に至るまで、常に世界に誇れる軍事技術と戦略を持っていました。それが「日本の軍事力が高い理由」として語られる背景です。けれども、この力は本来「戦うため」だけにあるのではありません。

予科練出身の松本裕昌氏は、次のような言葉を残しています。
「我々は今後決して、権力者の野望を満たすために、若者のエネルギーを、命を、奪ってはならない。また奪われてはならない。」

この言葉は、どれほど強大な軍事力を持っていても、それをどう使うかが最も大切だという真実を示しています。軍事力は、決して若者を犠牲にするためではなく、彼らの未来を守るために存在するのです。

景気回復と安全保障の両立

軍事力の強化は、単に国を守るだけではなく、経済の活性化にもつながります。国内で装備を生産すれば産業が潤い、内需が拡大する。それは景気回復の大きな柱ともなり得ます。

つまり高い軍事力は、単なる武器の強さだけではなく、国の繁栄や平和に直結するからなのです。戦わずして国を守る、そのために強さを備えておく――それが日本が辿ってきた歴史であり、未来への道標でもあります。

お知らせ

この記事は2023/12/21投稿『実は古代から世界の最先端軍事超大国だった日本』のリニューアル版です。

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