はじめに|日本の文字はいつから生まれたのか

一般的な通説とその疑問点

多くの人は「漢字が伝わる以前、日本には文字が存在しなかった」と考えています。しかし、この説にはいくつもの矛盾があります。たとえば、カタカナが漢字から派生したとされる説明では、「ア」は「阿」の一部から生まれた、「カ」は「加」や「力」から派生した、などと語られます。けれども実際には「可」は「か」とは読めても「ア」とは読めませんし、「力」は「ちから」「リキ」とは読めても「カ」にはなりません。音と字が結びつかないものを、後からこじつけて説明しているにすぎないのです。

文字の起源をめぐるもう一つの視点

こうした説とは逆に、日本には漢字が伝来する以前から独自の文字が存在し、その流れがカタカナとして受け継がれているのではないか、という考え方があります。古代から残るさまざまな神代文字の存在や、五十音という体系の一致は、単なる偶然とは思えません。決めつけは政治の領域ですが、真実を探るのが学問の役割です。漢字だけを文字と認める立場では、古代の日本を正しく理解することはできないでしょう。

神代文字の存在とカタカナの起源

H3. カタカナは漢字からではなく神代文字から?

一般的には、カタカナは漢字の一部を切り取って生まれたと説明されます。しかし、その説には多くの不自然さが残ります。「ア」が「阿」の部首から派生した、「カ」が「加」の偏から派生した、などとされていますが、実際には音の一致が見られないものが多いのです。もし本当に漢字から生まれたのなら、その字自体を使えば済む話であり、わざわざ音の合わない部分を選ぶ必要はありません。こうした矛盾を考えると、カタカナはむしろ神代文字を基盤に成立したとみる方が自然だといえるでしょう。

カタカムナ文字や八鏡文字など多様な古代文字

昭和24年に発見されたカタカムナ文字は、八鏡文字や化美津文字、上津文字などとも呼ばれています。これらの信憑性に疑問を投げかける声もありますが、頭ごなしに否定するならば、同じように「漢字からカタカナができた」という通説も疑わしいと言わざるを得ません。神代文字にはホツマ文字やアヒル文字のほか、伊予文字、出雲石窟文字、豊国文字、春日文字など、名の知られたものだけでも三十種類以上が伝わっています。その形は多種多様で、ハングルに似たものから楔形文字に近いものまで存在します。

共通点は「五十音」という体系性

神代文字の姿は地域によって異なりますが、共通しているのは「五十音を持つ」という点です。つまり、どの文字体系であっても、音を整理する基準は五十音であるということです。この点において、神代文字は互いに深くつながっており、やがてカタカナへと受け継がれていったと考えることができます。

縄文から弥生に至る日本の古さ

世界最古の土器や漆の利用が示す高度な文化

日本の歴史を振り返ると、縄文時代は今から約1万7千年前に始まり、弥生時代へと移行するのは約3千年前のことです。つまり、縄文時代だけで1万4千年もの長い期間が続いていたのです。その間、日本ではきわめて高度な文化が育まれていました。たとえば、1万6500年前には世界最古の土器が作られ、1万3000年前には人の形をした土偶が造られています。さらに1万2500年前には漆が栽培され、実際に利用されていたのです。こうした事実は、当時の人々が単なる狩猟採集生活にとどまらず、複雑で洗練された文化を持っていたことを示しています。

万年単位で続いた日本列島の歴史

日本では11万年前にはすでに石器が使われ、3万年前には磨製石器が登場しています。漢字が伝わったとされるのは西暦552年ですが、それから現在に至るまでわずか1460年余りにすぎません。さらに、明治維新から現代までを考えても、たったの160年しか経っていないのです。万年単位で積み重ねられてきた日本の歴史の流れからすれば、これらはほんの一瞬に過ぎません。そう考えると、日本が古代から独自の文字を持ち、それを工夫しながら受け継いできた可能性を否定することは、むしろ不自然だといえるでしょう。

海岸線の変化と人々の移動

縄文時代の氷期と生活の場

およそ1万6千年前、氷期の寒冷化がピークを迎えていました。この時期、海面は現在よりも約140メートルも低く、黄海や東シナ海、タイランド湾などは大部分が陸地として露出していました。そのため、日本列島は大陸と陸続きとなり、海岸線は現在とはまったく異なる姿をしていたのです。縄文時代の遺跡に見られる貝塚が示すように、人々は海に近い場所で生活を営んでいました。寒冷で人口が少なかった時代、人々はより温暖な南方に長く住んでいたと考える方が合理的です。

南方からの生活と占い文化の発展

人は生きるために食を必要とし、より住みやすい土地を求めて移動してきました。人々の暮らしは漁労と採集であり、それには天候の読みが生死に関わる重大事となります。そうであれば、暮らしの中で占いが盛んに行われるようになったとしても不思議ではないし、その占い結果を5×10の50通りに分類していたとしても何ら不思議はありません。やがて温暖化が進み、海面が上昇すると、かつての居住地は水没し、人々は現在の海岸線付近へと移動を余儀なくされました。その過程で、文字や文化も各地に分かれて伝わり、日本列島や琉球諸島、さらには中国大陸や東南アジアへと広がっていったのです。

古事記編纂と共通文字の確立

天武天皇の危機感と「以音」の使用

古事記の序文には、天武天皇の詔(みことのり)として「諸家が持っている帝紀や本辞は事実と異なり、虚偽も多い。今その誤りを改めなければ日本は滅んでしまうだろう」という趣旨の記録が残されています。詔は、西暦681年の出来事として日本書紀にも明記されています。地方ごとに異なる文字で記された史書を放置すれば、国内で意思統一ができず、他国の侵略に対抗できなくなるという危機感があったのです。そのため、天武天皇は太安万侶に古事記の編纂を命じました。古事記では、漢字が多用されていますが、それは意味ではなく音だけを用いたものであり、注釈として「以音」と記されています。つまり漢字をカナとして用いたのです。

日本書紀との比較に見る戦略的文字運用

同じ時期に編纂された日本書紀は、整った漢文で書かれました。これは単なる記録ではなく、子どもたちが学ぶ教科書としての役割を担い、自国の歴史や道徳を学ぶと同時に、外国語である漢文を自然に習得させるための工夫でもありました。唐の人々にとって日本語は理解できませんが、日本人は唐の文書を読み書きできる。これは国防上の大きな優位性でした。古事記と日本書紀の違いは、まさに戦略的な意図の表れであり、文字を国家の基盤として整備することが急務だった時代背景を映し出しています。

五十音の成り立ちと占いの関係

鹿骨占いや亀甲占いのヒビ模様

古代に広く行われていた鹿骨占いや亀甲占いでは、骨や甲羅を火で焼き、そのときに生じるヒビ割れの模様を神意として読み取りました。その割れ目は「ー」や「|」、「/」「\」、あるいは「・」など、様々なパターンを生み出します。長い年月を経るうちに、それらのパターンは次第に類型化され、特定の意味や音を持つものとして扱われるようになったと考えられます。

記号が音に、音が文字へと変わる過程

占いに使われた記号には、それぞれ名前が付き、やがて音が結びつけられました。すると今度は逆に、音を表すためにその記号が使われるようになります。こうして記号が音と一体化し、やがて文字として活用されるようになったのです。五十音が体系的に整えられた背景には、このような占い文化の影響があったと考えるのが自然です。日本語の発音は濁音や拗音など多彩で、五十音に収まりきらない要素も多いのに、なぜ基本形が五十音として定着しているのか。その理由を探ると、この占いの体系化に行き着くのです。

金印が示す日本の文化レベル

奴国王・親魏倭王と金印の意味

日本に文字がなければ、本来「印」を授けられることはあり得ません。ところが歴史の記録には、漢の皇帝が西暦57年に倭国の奴国王へ「漢委奴国王」と刻まれた金印を与えたと明記されています。また3世紀には、魏の皇帝が「親魏倭王」の金印や銅鏡を贈ったことも『魏志倭人伝』に記されています。印とは文書に押すためのものです。もし日本に文字を扱う文化がなかったのなら、こうした贈り物がなされる理由が存在しません。

鉄の技術と魏とのパートナーシップ

魏が強大な軍事力を誇ったのは、鉄製の武器を用いていたからでした。そしてその鉄の供給源こそ倭国だったのです。日本列島や朝鮮半島南部で鉄を産し、生活用品に用いる一方で、魏へと輸出されていました。魏にとって倭国は敵対するよりも、むしろ友好関係を結ぶ方が利益が大きい存在でした。その象徴が金印です。つまり、金印は日本が当時すでに高い文化と技術を備えていたことを示す証拠であり、漢字渡来以前に文字文化が存在していたことを裏付けているのです。

神代文字の痕跡と継承

神社や古いお守りに残る文字

神代文字は伝説や空想の産物だと考える人もいますが、実際にはその痕跡が数多く残されています。伊勢神宮には、稗田阿礼や菅原道真、源義経といった歴史上の人物が神代文字で奉納したとされる文献が存在します。さらに、古い神社で授けられるお守りや札の中に、神代文字が書かれた紙片が納められていることもあります。つまり、これらは単なる「昔話」ではなく、実際に受け継がれ続けてきた文化であることを示しています。

戦前まで男性が使ってきたカタカナの背景

江戸時代から戦前にかけて、ひらがなは女性が日常的に使う文字とされ、一方でカタカナは男性の文字とされていました。男性が家系を継ぎ、霊(ひ)を受け継ぐ存在と見なされていたため、古来からの伝統を担う文字としてカタカナを用いたのです。この背景には、カタカナが神代文字を起源とするという考え方が潜んでいます。つまり、現代でも日常的に使われているカタカナは、神代文字の系譜を受け継いだ「生き残り」なのです。

まとめ|日本文字の起源をどう考えるか

「文字はなかった」説の不自然さ

一般に、漢字が伝わるまで日本には文字が存在しなかったとされています。しかし、その説に従えば、なぜ日本語に五十音という独自の体系があるのかを説明できません。漢字には五十音という概念はなく、合理的な答えを導き出すことができないのです。また、金印の授与という歴史的事実を見れば、日本が文字を扱える文化を持っていたからこそ成立したことは明らかです。「文字はなかった」とする通説の方が、むしろ不自然に感じられます。

日本独自の文化としての誇り

神代文字は、縄文の遺物や神社に残された痕跡からも存在が裏付けられます。そしてその流れがカタカナに受け継がれ、戦前まで男性が日常的に用いてきました。つまり、文字文化は漢字の渡来によって始まったのではなく、それ以前から日本独自に存在していたと考える方が、歴史をより合理的に理解できます。この事実は、日本が長い歴史のなかで独自の文化を築き上げてきたことを示しており、私たちが誇りと自信を持つ根拠ともなるのです。

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この記事は2022/01/24投稿『漢字渡来以前の日本の文字』のリニューアル版です。

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