はじめに|明治維新で変わったことの全体像

世界の歴史を振り返ると、革命が成功すると、その中心となった人々がそのまま新しい権力者となるのが一般的です。けれども、日本の明治維新はそうした世界の常識にあてはまりません。維新を主導した藩主や武士たちは、成功後に自らの身分を返上し、社会の枠組みを大きく変える決断をしたのです。

その象徴が「四民平等」の実現であり、「版籍奉還」や「廃藩置県」といった制度改革でした。つまり、特権階級にとどまらず、自らの立場をも放棄して近代国家を築こうとした点が、他国の革命とは根本的に異なる特徴だったのです。

こうした変化は、単なる政権交代ではなく、社会の仕組みそのものを大きく転換するものでした。そして何より注目すべきは、これほどの大改革が、世界史と比べて驚くほど少ない犠牲で実現されたという事実です。

武士や貴族が身分を返上した意味

維新の立役者たちが権力を手放した事実

明治維新を主導した藩主や武士たちは、維新後に権力の座にとどまることを選びませんでした。彼らはむしろ自らの身分を返上し、新しい時代のために制度を変える道を選んだのです。その流れの中で「四民平等」が実現し、「版籍奉還」や「廃藩置県」といった抜本的な改革が行われました。

薩長政権といわれる見方について

「明治政府は薩長による政権ではなかったか」と思う人もいるかもしれません。しかし実際には、官軍側であっても、藩主がそのまま内閣総理大臣になった例はほとんどありません。維新後に藩主から総理大臣となったのは、平成5年に第79代総理に就任した細川護煕氏だけです。つまり、維新を担った藩主たちは、新しい国家の権力者として直接的に君臨することはありませんでした。

公家社会の変化と岩倉具視の立場

公家もまた身分を失った

明治維新によって身分を失ったのは、武士だけではありませんでした。摂関家を含む公家たちもまた、従来の身分制度から切り離されることとなりました。長い歴史の中で天皇に仕えてきた公家社会も、この時代の変革の波にのまれたのです。

岩倉具視の出自と家柄

公家出身の中で名を残した人物のひとりに、岩倉具視がいます。彼は若い頃「岩吉」と呼ばれ、京の都のやんちゃな少年時代を過ごしました。養子に入った岩倉家は正三位の大納言の家柄でしたが、実父の堀川家は中納言格であり、摂関家と比べれば一段下の地位にありました。摂関家が現代でいえば閣僚級にあたるとすれば、大納言や中納言は庁官クラスに位置づけられる存在でした。

蔵米取りとしての生活

岩倉具視の家は「蔵米取り」であり、知行地を持たずに米を支給される立場でした。彼自身の収入は「100俵取り」と呼ばれるもので、石高に換算すると約250石に相当します。ただし、これはあくまで現物支給であり、所領を管理する責任は伴いません。責任と権力が一体とされていた時代にあって、この仕組みは「軽輩」と見なされる要因でもありました。岩倉家が大納言格でありながらも、岩倉具視が「下級貴族」と呼ばれたのは、まさにそのためでした。

石高制と蔵米取りの仕組み

石取りによる所領支配と責任

江戸時代までの武士や貴族の収入には、「石取り」という形がありました。これは所領を与えられ、その土地から収穫できる米の量を「石」で表すものです。たとえば「500石取り」であれば、米500俵を生産できる地域を支配することになります。1万石の大名という言葉も、この仕組みに基づいています。

石高によって年貢の収入が決まり、武家はその一部を取り分としました。たとえば四公六民であれば、1000石の収穫から400石が武家の収入となります。しかしその収入は単なる私財ではなく、領民の飢饉時の救済や道路・水路の整備、火災時の救援など、地域の安全と生活を守るために使う義務がありました。武士の暮らしは決して楽なものではなく、大きな責任を伴う立場だったのです。

蔵米取りの立場と限界

もうひとつの形が「蔵米取り」です。これは所領を持たず、大名や上級貴族から米を現物支給される立場を指します。幕府でいえば御家人、公家であれば宮中に仕える下級貴族がこれにあたります。彼らは所領を管理する責任を持たないため、石取りに比べれば身分的に軽んじられることが多くありました。

岩倉具視が属していた岩倉家もこの「蔵米取り」で、彼が「下級貴族」と呼ばれた背景には、責任を伴わない収入形態がありました。

所領と「おほみたから」の考え方

日本における所領の考え方は、単なる私有地とは異なります。天皇を頂点とし、民を「おほみたから」として大切にする発想が根底にありました。所領はあくまで天皇から与えられたものであり、領主はその土地と民を豊かに守る義務を負っていたのです。もし領民を私有民と見なす発想であれば、ただ収奪するだけで済んだはずですが、日本の制度は責任と権力が一体であった点に大きな特徴がありました。

年貢と生活の実態

四公六民の仕組みと実際の負担

江戸時代の年貢は「四公六民」と呼ばれ、収穫の四割が領主の取り分とされていました。しかし、実際には収穫高を低めに見積もる慣習があったり、江戸初期の基準で算出されていたりしたため、後に開発された新田の収穫分は含まれませんでした。結果として、実質的には「一公九民」に近い割合で、農民の手元に残る米は豊富であったといえます。

千石取り武士の収入と責務

千石取りの武士を例にとると、所領はおよそ30キロ四方の広さに相当しました。収入としては現代のお金で約2400万円程度に換算できますが、そこから家臣の給料、参勤交代の費用、領内の公共事業など、多くの支出をまかなわなければなりませんでした。つまり、収入はあっても蓄財は難しく、常に領民の生活や安全を守るための責任を負っていたのです。

また、武士は領民が飢饉や災害で苦しむときには米蔵を開き救済にあたり、もし一揆などが起これば責任を問われて切腹を命じられることもありました。地位は高くても、その重圧は大きなものでした。

村社会の豊かさと自治の体制

当時の農村は大地主制のもとで、庄屋などが中心となって運営されていました。農民が比較的豊かであったため、村の中で多くの問題が解決される仕組みもできあがっていました。武士や貴族は参勤交代や城勤めで領地に常駐できず、年に一度訪れる程度のことも多かったため、地域運営を村人自身が担う必要があったのです。こうした村社会の自立性が、江戸時代の安定を支えていました。

明治維新による制度の転換

石高制から現金支給への変化

明治維新は、長く続いた石高制を根本から変える大改革でした。武士や貴族への給与は米による支給から現金支給へと切り替えられ、古い制度が完全に姿を消しました。これにより、所領を基盤とした生活や責任の仕組みが終わりを迎え、近代的な給与制度が始まったのです。

所領責任制の廃止とその影響

江戸時代までは、所領を持つ者は領民の生活や安全に対して大きな責任を負っていました。しかし、維新後はその責任制度そのものが廃止されました。武士も公家も、もはや領民を守る義務を持たず、社会の枠組みは大きく変化しました。責任と権力が一体であった伝統が終わりを告げたことは、日本の歴史において非常に大きな転換点といえるでしょう。

世界的に見ても稀な改革

このような大規模な制度改革が行われる場合、世界の歴史では多くの民衆が犠牲になるのが常でした。ところが明治維新では、それがほとんど起こりませんでした。制度の大転換を少ない犠牲で実現できたこと自体、世界史的に見ても極めて珍しい出来事だったのです。

世界の革命と比較した明治維新

戊辰戦争の犠牲とその規模

明治維新に伴う大きな戦いといえば戊辰戦争です。この戦争による死者は、幕府側で8,625名、新政府側で3,588名、合計13,562名とされています。当時の日本の人口はおよそ3,124万人であり、その割合はわずか0.04%にすぎません。日本人の感覚からすると大きな内乱と捉えられていますが、世界史的に見れば犠牲者数は極めて少ないものでした。

フランス・ロシア・中国との比較

他国の革命と比べてみると、その差は歴然としています。中国の易姓革命では、国の人口の約3分の2が失われるといわれています。ロシア革命では、帝政ロシアの人口約1億人のうち、6,600万人もの死者が出たとされます。比較的犠牲が少ないとされるフランス革命ですら、人口2,000万人のうち約490万人、実に24.5%が命を落としました。これに対して明治維新の死者数は桁違いに少なかったのです。

なぜ日本だけが少ない犠牲で済んだのか

それでは、なぜ日本の改革はこれほど少ない犠牲で済んだのでしょうか。その理由のひとつは、明治維新が「革命」ではなく「政変」として進められたからです。国の形を根底から変えるのではなく、天皇を中心とした枠組みの中で政権交代が行われたため、民衆が大量に犠牲になる事態を避けることができました。これこそが、日本独自の改革の在り方を示す大きな特徴といえるでしょう。

天皇の存在と民衆の位置づけ

天皇を頂点とした「おほみたから」の思想

日本の国の形は、古来より天皇を頂点とする君主国です。しかし天皇は政治権力を直接的に握る存在ではなく、常に民を「おほみたから」として大切にする立場にありました。この考え方があるからこそ、政権が交代しても民衆は権力者の私有民や奴隷とならずに済んできたのです。

民衆を守る政権交代の枠組み

戊辰戦争や佐賀の乱、西南戦争といった大きな戦いにおいても、民衆が大量に犠牲になることはほとんどありませんでした。その理由は、戦いがあくまで武士同士の責任ある戦いにとどまり、天皇の「おほみたから」である民衆を巻き込まない枠組みが守られていたからです。つまり、明治維新を含む日本の大改革は、民を犠牲にせずに進められる政変として実現したのです。

天皇が政治権力を持たなかった意義

天皇が政治権力を超越した存在であったことも大きな要因です。政治を担う者は常に「天皇のおほみたからを支える立場」にあり、民衆は支配の対象ではなく守るべき存在とされてきました。この枠組みがあったからこそ、他国のように革命で数多くの民衆が犠牲になることなく、日本は大規模な改革を成し遂げることができたのです。

明治維新が示した日本独自の国柄

欧米文明の取り入れとその限界

明治維新や大日本帝国憲法は、欧米列強の圧力に対抗するために生まれたものでした。当時の日本は、彼らの軍事力や文化を取り入れざるを得ない状況にありました。しかしその目的は単なる模倣ではなく、長く続いてきた「民をおほみたからとする国柄」を守るためでした。つまり、欧米文明の導入は手段であって、目的ではなかったのです。

日本建国の原点に立ち返る必要性

ただし、欧米から取り入れた制度や価値観がすべて正しいわけではありません。西洋文明は、支配と隷属、一部の者の利益を重視する側面を持っています。キリスト教の教えが民を慈しむものであるとされながら、実際には多くの民が犠牲となる政治体制が続いてきました。これに対して日本は、建国以来、民を「おほみたから」とし、平和を重んじる国柄を守り続けてきました。

今の時代だからこそ、私たちはその原点に立ち返る必要があります。明治維新は、欧米の力を取り入れつつも、日本独自の価値観を守るための改革であったことを忘れてはならないのです。

おわりに|明治維新から学ぶこと

革命ではなく「政変」としての意味

世界各国の革命が大量の民衆の犠牲を伴ったのに対し、明治維新は天皇を中心とした枠組みの中で行われた「政変」でした。そのため、民衆を犠牲にすることなく、社会の大転換を成し遂げることができたのです。この点は、日本史の大きな特徴であり、世界史的に見ても稀有な出来事といえるでしょう。

平和と民衆を守る改革のあり方

明治維新が示したのは、権力者が民衆を私有化せず、あくまで「おほみたから」として守る姿勢でした。天皇の存在がその根底にあり、だからこそ日本は他国のように流血の革命を経験することなく、近代化を進めることができました。

このことを踏まえると、現代に生きる私たちもまた、日本建国の原点に立ち返り、平和と民を重んじる国柄を守り続ける必要があります。明治維新は、そのための大きな指針を今なお示しているのです。

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この記事は2018/01/26投稿『身分を返上した武士や貴族たち』のリニューアル版です。

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