何年か前にネットで拾った小話をひとつご紹介します。

***

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにグレた。

親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・
病室のベットの上にお母さんがうつってた。

「〇〇ちゃん、二十歳のお誕生日おめでと。
 なにも買ってあげれなくてゴメンね。
 お母さんがいなくても、
 〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
 今頃、大学生になってるのかな?
 もしかして結婚してたりしてね・・・」

10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。

次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカににされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。

そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら「情けないわねぇ」なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。

父親も辛かったんだろうな、親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、就職決まった時、親父が「これでお母さんに怒られなくて済むよ」
なんていってた。

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

***

以上のお話が実話かどうかはわかりません。
しかし伝えているメッセージは、とても大切な父母の愛です。
その父母もまた、それぞれの父と母(つまり祖父母)から、同じように大きな愛に包まれて育っているし、その祖父母もまた曾祖父母の大きな愛に包まれて育っています。

こうして世代をさかのぼると、戦国時代頃には50万人もの直系の祖先がいたことになるし、鎌倉時代にまでさかのぼると1億3千万人もの直系のご祖先がいたことになります。
実際には鎌倉時代の人口は700万人ですから、その分、祖先がかぶっている・・・つまり日本人はみんな親戚だ、ということになります。

そしてこの若者は、いつの日か結婚して子をなし、その子もまた結婚して子をなしていきます。
こうして700年後には、彼の血を引く子孫の数は1億人を越えます。
血は、繋がっていくのです。

その血脈を、父母の愛によってつないでいくのか。
それとも、グレて憎しみや恨みや横暴や身勝手でつないでいくのか。
それはとても大切な選択だと思います。

そうしたメッセージをこの文から学び感じ取るか。
それとも、この話をただのつくり話といって、馬鹿にするのか。
それもまた人生の選択です。

民族的な気質は、おおむね400年で固定すると言った人がいます。
それが本当かどうかはわかりません。
ただ、同じことを見たり聞いたり読んだりしても、その感じ方が我々とはまったく異なる人達というのは現実にいます。
そうした人たちは、一般に前頭葉が未発達で、眼球や、口唇の運動機能に乏しいという人もいます。つまりあまり動かない。

やっかいなことに未婚女性は本能的に自分からできるだけ遠い遺伝子を持った若者を好む傾向があるという説があります。
娘さんが年頃になると、父親や兄貴の下着をクサイと拒否したり、やたらと外国人を好むのは、生涯の出産回数に制限のある女性が、できるだけ自分から遠い遺伝子を求めようとする本能なのだそうで、利己的遺伝子論で解き明かされました。
もっとも経産婦になると、自分に近い遺伝子を持った者(最も近いのが我が子)を好むようになるのだそうです。

日本人は、千年万年の単位で日本列島に住んで交配を続けてきた種です。
ですから千年前の源氏物語を読んでも、日本人の心は何も変わらない。
今も昔も、思いやりの度がすぎて、かえって誤解が誤解を生んだりして人間関係がややこしい。
ところが伝統的気質に、まったく思いやりの心を持たない民族もあって、彼らは兎にも角にも自分さえ良ければそれで良いと考えますから、同じものを見たり聞いたりしても、感じ方が日本人とはまったく違う。やっかいなことです。

トップの写真は、北海道の函館市の垣ノ島A遺跡から出土した「足形付き土器」です。
亡くなった子供の足形を粘度版に型どったものです。
多数のものが見つかっている。
いまから3200年ほど前のものです。
日本人の心は、千年前の源氏物語も、3千年前の土器も、現代も、実はまったく変わらない。

学校の成績が悪い、少々勉強ができない、悪さばかりしている等々、親の悩みは尽きないものです。
けれど誰もが何らかの使命を持って生まれてきているのだとしたら。
その子にとって、いちばん大切な生きる使命をまっとうさせてあげるために必要なことは、果たして学校の勉強だけなのでしょうか。

少々馬鹿でもいい。
心身ともに健康第一!!
成績優秀なバカよりも、バカでいいから真っ直ぐな人間に育って欲しい。
それがほんの数十年前までの我が国の教育でした。

誰もが成績一番になれるわけではないのです。
勉強がダメなら駆けっこで一番。
勉強も駆けっこもダメなら、絵かきで一番。
絵もダメなら、楽器の演奏で一番。
楽器もダメなら、読書量で一番。
読書もダメなら、飯を食う速さで一番。
食うのも遅いなら、食べる量で一番。
どれもダメなら、せめて努力で一番!!

人には様々な使命があります。
その子が持って生まれた使命を、ちゃんと果たさせてあげること。
それこそが本当の教育なのではないかと思います。

そしてその根底にあるのは、いつの時代においても、常に父母の愛であり、民族的な愛の精神です。

ここで「民族的な」と申し上げたのは、こうした思考は、いまだけカネだけ自分だけといった個人主義や功利主義のもとでは成立し得ないものだからです。
もっというなら、そもそも「○○主義」といった思考そのものが、我欲に満ちているような気さえします。
なぜなら「主義(イズム・Izm)」という考え方自体が、極めて一神教的というか、ひとつの考え方以外を排除する思考であるように思えるからです。

例えば「民主主義」といえば、民衆が主役の思想もしくは教えということになりますが、これが正しいとなった途端、他の例えば封建主義や王権主義などは全否定の対象になります。
それがいけないのです。

日本は、もともと八百万の神々の国であり、それは決してひとつの思考だけを強要する思考ではありません。
多様な価値観を認め、それぞれから学びながら少しでも良い生き方をする。
人を認め、互いに尊敬の心を持って人と接する。
ただし、心や体への暴力だけは絶対に許さない。
でも改心すれば、またやり直しを皆で認めていく。
現状を常に改善し、いまよりほんの少しでも良い未来を築いていく。
そうした知恵は、やはり縄文以来、万年の単位で熟成された、いわば日本人の、あるいは日本文化の持つ叡智だと思うのです。

このように申し上げると、また「じゃあ、縄文主義なの?」などと言われそうですが、これまた主義と言った途端、あたかも竪穴式住居に住むことが良いと言っているかのような歪んだ見方をされることになります。
そういうことではないのです。
そりゃあ、誰だってエアコン付きの快適住宅の方が住み良いに決まっています。

日本語で「愛」といえば、その訓読みは「いとし、かなし、めでる、おもふ」です。
愛しく愛でるような気持ちで相手を深く思うこと。
そしてかなしみさえも、愛にしてしまう。
それが日本文化です。

※この記事は2019年7月のねずブロ記事を大幅にリニューアルしたものです。

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