江戸時代までの日本について、士農工商という「身分制度」があり、武士は「支配階級」であって、社会構造の底辺を形成する百姓(農家)は、支配を被ることによってたいへんな貧困生活をしていた、という説があります。
特に戦後は、GHQによる日本人への贖罪意識の植え付けのため、こうした説が流布され、なかばそれが定説であるかのように声高に叫ばれ、なかには貧農史観などという、とんでも説(あえてそう呼ばせていただきます)まで登場するようになりました。
また、学校では、教科書でそのように子どもたちに教えられたりもしました。

全部、とんでもない間違いだと断言させていただきます。

そもそも、日本は西欧やチャイナ社会とは、まったく違う文明社会を形成してきた国です。
西洋共産主義による階級闘争史観で、日本の歴史を見ること自体に無理があるのです。

階級闘争史観は、プロイセン王国の社会主義者カール・マルクスが1867年に書いた『資本論』に依拠します。
つまり、19世紀の産物であり、価値観であり、歴史観です。
日本の歴史は万年の単位で続き、武士が登場したのが9世紀、江戸時代の武士たちが規範とした鎌倉武士が登場したのが12世紀です。
そもそも、9世紀や12世紀に、階級闘争史観自体、存在していなかったのです。

階級闘争史観は、この世を支配層と被支配層に分けて、歴史を考えます。
なるほど西欧社会はギリシャの都市国家の昔から、市民と呼ばれる支配層があり、市民以外の95%の人々は隷民とされていました。
この社会体制は、用語こそ違え、いまも続く西欧型社会の実質的な形となっています。

チャイナの場合は、そもそもが外来王朝ですから、当該外国人がまさに支配層であり、それ以外の漢族等は、すべて被支配層であったこともまた事実であり、士農工商という言葉も、そもそもチャイナの言葉です。
けれど日本は、まったく違う社会構造を持っていました。

では、日本における武士たちは、支配層でないのなら、いったいどのような層であったのでしょうか。

日本における武士層は、いわば「道徳的規範層」というべき人々です。
武士は大小二本差が認められていましたが、なぜ常時刀を携帯するのかといえば、武士が社会の規範であったからです。

これはいまでいうなら、市役所の職員などの公務員が、全員、銃や刀を常時携帯しているようなものです。
つまり、一般の庶民よりも、はるかに強力な武装を常時していたことになります。
どうしてそのようなことをしていたのかといえば、彼らの生き様や、日常の行動自体が、社会の規範とされたからです。

ですから武士は、すくなくとも家から一歩でも外に出るときは、常に身なりをきちんと整えることが義務付けられていました。
いまは夏で、毎日猛暑が続いていますが、当時の武士なら、外出時は、どのような猛暑にあっても、背広にネクタイ、髪も毎日ちゃんと月代を剃っていなければ、士道不心得として、下手をすればお家がお取り潰しの憂き目にあいました。

食べるものも、贅沢は禁止。
武士は一汁に最大3菜まで。
それ以上は贅沢であり、現代のような美食を行えば、これまた士道不心得とされました。

刀を携行しましたが、これはみだりに抜いてはならないものとされていました。
抜いたときには、相手を斬らなければ、これまた士道不心得でしたし、抜いて良いときも限られていました。
刀は、抜くべきときに抜かなければ、士道不心得だし、それによって自分が逆に斬り殺されても、それはOKでした。
けれど、抜くべきときに抜かずに斬られれば、これまた士道不心得です。

そもそも「武士」という字は、ゆがんだものをまっすぐにするタケル(武)という字と、まさかりを持つ人という意味の(士)から成り立っています。
武士は、刀剣を常時携帯し、眼の前に不条理があれば、これをまっすぐにする。
それが武士であったのです。

武士は社会的規範でしたから、国内のあらゆる職業の人々は、武士の生き様を社会の模範としました。
逆に言えば、武士が自堕落になれば、国内のあらゆる人々が自堕落になるわけです。
ですから武士は、幼少期から、厳しく躾けられました。

寒いときに「寒い」とか「冷たい」といえば、叱られました。
武士が戦場にあれば、暑いとか寒いなどと言ってはいられないからです。

お腹が空いても、「腹減った」などと言ってはいけないとされました。
自分がお腹が空いたときには、周りの人たちもお腹を空かせているのです。
みんなが我慢しているときには、自分も率先して我慢する。
それが武士の道とされました。

夏の暑い日、食欲がなくて出されたご飯を残してしまえば、残ったご飯が時間が経って酸いて糸を引くようになっても、そのご飯を一粒残らず食べ切らなければ、次の炊きたてご飯を出してもらえませんでした。
食に贅沢を言うことは禁止。
「うまい」とか「おいしい」というのは、自分のわがままです。
武士は規範なのですから、自分が美味しいと感じるかではなく、世の中の人々が美味しいと感じるかを常に思わなければならない。
だから「このような味であれば、世の中の人々はきっと満足するであろう」という意味で、「世は満足じゃ」という言葉が生まれています。

学問をするときは正座。
師匠の前では、背筋を伸ばして、何時間でも正座をしなければなりません。
それで膝が痛いとか、足が痺れたとか甘ったれたことを言ってはいけない。
そのような不心得で殿の前に出れるのか!というわけです。

この項目で、武士を神格化しようとしているのではありません。
社会には秩序が必要だということを申し上げています。
そして秩序は、自堕落にしては絶対にならないものです。

西欧型やチャイナ型の社会では、社会の上層部という身分にあれば、どれだけ自堕落であってもそれが許容されます。
そして自堕落な人間が、社会の上層部にあり、人々を支配すれば、世の中の富の半分は支配層に吸い上げられ、支配層だけが贅沢をし、被支配層の人たちが極貧にあえぐようになるのは自明の理です。

日本では、武士が社会の道徳的規範層を形成することで、社会全体を道徳的社会としてきたのです。
これは法では実現できないことです。
なぜなら、法は、縦と横の紙の上の二次元の文章だからです。
社会は、縦横高さの3次元であり、これに時間軸が加わります。
そのような社会を、二次元の文章で管理統制しようとしても、事態は刻々と変わるものだし、どんなに精緻に2次元の文章を組み立てても、三次元から見たら穴だらけになるのです。

武士は、人々と同じ次元に生きて、自ら道徳的規範となることで、社会の秩序を形成してきたのです。

百姓(農家)は貧しかったという人がいます。
西欧の貴族の生活からみたら、日本の農家は貧しい生活に見えたかもしれません。
けれど、日本は島国です。
そして江戸時代の日本は鎖国をしていました。
ということは、国内での食糧自給可能な人口しか養うことはできません。

その食料を、一部の人達が独占したら、他の人は貧しくなります。
けれど我が国は、その独占をせず、誰もがに行き渡るように均等に配分をしてきたのです。
すると誰もが豊かであり、誰もが貧しくなります。

そしてあたりまえのことですが、富というのは集約したときに、はじめて大きな力を持ちます。
我が国の一級河川と呼ばれる川には、いま、巨大な堤防が何十キロにもわたって築かれています。
土地は、みんなの共有の財産という概念があったからこそ、あのような堤防が築かれたのです。

武士は大きな屋敷に住んでいたではないかという人もいます。
それはその通りです。
けれど、武士の家は、すべて借家です。
身分によって、家屋の大きさが細かに定められ、禄高に応じて家人の数も定められていました。
いつの時代も、人件費は最大の出費です。
武家に贅沢は無理なことです。

農家も、職人さんの家も、貧しかったといえます。
けれど、あれだけ大きな工事ができたのは、人々の稼ぎを、共同の稼ぎとして、社会資本にまで高めたからです。
ひとりで堤防は築けません。
みんなの協力があって、はじめて巨大な堤防が完成したのです。

戦後、日本の歴史は、ものすごく歪められてきました。
武士は社会の道徳的規範層だという、今回の見解には、いつものように反論する人が、また出るものと思います。
けれど、日本が支配被支配の社会であったと規程することに無理があることは、ちょっと考えれば子どもでもわかることです。

歴史に対して謙虚になることで、私達は先人たちの本当の歩みを知ることができます。

混迷する世の中ですが、いかなるときにも、困ったときには原点に還る。
武士道は、日本のひとつの原点です。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。