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レイシスト(racist)という言葉は、人種差別を行う人やその考え方を指す言葉です。
またレイシズムとは、人種差別や人種主義を意味し、人種間の不平等を正当化するために使われてきた歴史があります。
たとえば、米国では「メキシコ系は犯罪者が多い」といった人種的偏見から、メキシコ系を殺害するヘイトクライムやジェノサイド(虐殺)などの事件が発生しています。
このような観点から、レイシストやレイシズムは、悪のように言われ、悪なのだから、こうした人たちやその思想を叩くことが正義とされています。

日本でも、15年ほど前から、これらの用語が広く用いられるようになり、いわゆる差別主義者、レイシストというだけで、それがまるで社会悪であるかのように言われてきました。
筆者もまた、そうした差別主義者、レイシストであるように言われていて、これを叩く人たちから、いわば「目をつけられた人」のようになっているのだそうです。

物事の考え方は自由ですので、そうした「悪者叩きは正義である」とする人たちが世の中にいることは、それはそれで仕方がないことであると思います。

ただ、言い訳するわけではありませんが、筆者は西洋的な用語でいうレイシストでもなければ、日本語でいう差別主義者でも、レイシズムに陥った考え方を持つ者ではありません。
むしろ、レイシズムやレイシストを明確に拒否する立場でいます。

どういうことかというと、先ほど述べました通り、
「悪を叩くことが正義である」という二項対立的な思想に「NO」を申し上げています。

ここはとても大切なところですので、少し詳しくご説明します。

現在、日本以外のすべての国に蔓延している思想が、「生き残るためにはいくら嘘をついても構わない」という思想です。
日本以外のすべての有色人種国は、欧米列強諸国によって、およそ500年の植民地支配を受けました。
植民地支配を受けなかったのは、世界でただひとつ、日本だけです。

それ以外の諸国では、現地の人たちは、宗主国の白人さんに、完全に支配される情況にありました。
そしてこの場合、支配される側の有色人種は、人間とさえも認識されません。
ペットの犬や猫以下、人の形はしているけれど、ただの機械のような労働力としてしか認識されません。

こうした差別に有色人種側が抵抗した大きな事件のひとつに、インドで行われたセポイの乱(Sepoy Mutiny)があります。
この事件は、1857年にインドで発生した大規模な反乱で、英国が経営する東インド会社の支配下にあったインド人兵士(セポイ)たちが大規模な抵抗運動を行ったという事件です。
そしてこの事件において、インド人の首謀者たちは、見せしめのためにと、大砲の前にくくりつけられ、そのまま大砲を発射されて五体をバラバラにされて殺害されています。

どうしてそんな残酷なことができるのかといえば、被植民地の人々は、人として認識されていないからです。
たとえていうなら、AIのアンドロイド・ロボットが反乱をした。だから一括回収して解体処分にするとともに、二度と反乱することがないように、反乱抑制チップを脳に埋め込んだ・・・といったような考えと実はまったく同じことです。

あるいは、東南アジアの植民地において、大豪邸に住む支配者層の若い女性が、部屋で裸になって着替えをしている。
そこに有色人種の奴隷の男性が、部屋の掃除に入ってくる。
女性は、別段、何も騒ぎません。
なぜなら、それは、単に部屋に掃除ロボットが入ってきたのと、まったく同じことでしかなかったからです。
もちろん、その部屋に、白人の男性が入って来ようものなら、大騒ぎになります。

このような植民地支配のもとでは、支配される側は、もし何かの罪にでも問われたならば、どれだけ残酷な刑罰が待っているかわからない。
そもそも命を持った人間であるとさえも認識されていないのです。
あっという間に、解体され、命さえも失いかねないし、さらにいえば、反抗的な態度を取るならば、その反抗をした者のみならず、その者の家族や友人、親や子どもに至るまで、まとめて逮捕され、殺されかねなかったのです。

もちろん被支配層の女性たちには、貞操さえも認められていません。
昔、若者たちが性の処理のために、ニワトリ小屋に入ってメンドリを捕まえて処理をしたといった話が伝えられていますが、このとき、メンドリを襲う側は、メンドリの貞操など、まったく眼中にありません。
これと同じです。

そもそも20世紀の初頭まで、たとえば米国では、米国にいる黒人さんたちには、「痛覚」がないと本気で信じられていたのです。
ですから拷問をしたときに、彼らが「痛い、痛い」と泣き叫ぶのは、あれはただのポーズでしかないと、これまた本気で考えられていました。

人が人を支配する社会というのは、かくも残酷なものなのです。

そしてこうした社会にあっては、支配される側は、もし万一捕まったならば、ありとあらゆる言い訳を本気で、脱糞してまでも、言い張って自分の無罪を主張しなければならない。
また捕まえる支配層の側も、もし支配層の側に落ち度があったとしても、それを絶対に認めるわけにいかない。
つまり、支配する側もされる側も、本気で真剣勝負で嘘を並べ立てて、強引に嘘をホントにしていかなければならないのです。

こうなると、世の中が、ありとあらゆる嘘に満たされていくわけで、そのような嘘にまみれた社会においては、人々は常に周囲の人よりも上位の立場を得ていないと、どれだけ蹂躙されるかわからないという恐怖に四六時中怯え続けることになります。
こうして、嘘に闘争が加わります。

嘘をついてでも勝つ、卑怯卑劣な手段を用いてでも、勝てば官軍。
嘘も百回つけばホントになる。
そのために、常に競い、常に闘争し、日常の生活においても、四六時中、闘争し続ける。
こうした行動と思考が、社会の根幹となっていくことになります。

そしてこうした植民地支配において行われた人と人とも思わないという嘘と虚飾と闘争の文化は、そもそもヨーロッパ社会を覆った思想でもあります。

ヨーロッパの場合、中世の王国における王侯貴族は、そもそも地元の人ではありません。
北欧で海賊をしていた荒くれ者のバイキングが、ヨーロッパ各地に上陸し、そこら一帯を制圧して自分の国にしたものです。
ですから王侯貴族と、地元の原住民では、そもそも人種も異なるし、言語も異なっていました。
そして王侯貴族たちは、諸国の王侯貴族たちとの間でのみ交わり、結婚し、子をもうけていました。
つまり、わかりやすくいうならば、ヨーロッパの諸国自体が、バイキングによって支配された、まさに植民地であったわけです。
そして植民地支配を受けた人々は、今度は船に乗って有色人種社会に進出し、こんどは自分たちが、その地で王侯貴族となっていったというのが、実は、この千年の世界の歴史そのものということができます。

こうした次第ですから、ヨーロッパ社会もまた、支配と隷属を基とする社会です。
そこでは、常時、嘘を言い合い、闘争し、少しでも相手よりも上位に立ち続けなければ、ありとあらゆる不遇を享受しなければならなくなる。
そういう社会が形成されたのです。

中世ヨーロッパを描く映画やアニメで、よく、王城に集められた民衆が、王の一言に、その場にいる全員が称賛の嵐を吹かせるといったシーンがよく登場します。
普通に考えて、全員が称賛するなんてことは、まず通常はありえないことです。
それが起こるということは、そもそも王城に集合命令が下ったときは、何をさておいても集合しなければ、あらゆる刑罰が待っていたということだし(だから恐怖のために集合せざるを得ない)、称賛を求められたときに、「何をいってやがんだい!」と抵抗でもしようものなら、命がいくつあっても足りなかったということでもあるのです。

日本のすぐ近くにあるチャイナやコリアも同じです。
チャイナの場合は、歴代王朝は、そのほとんどが外来王朝です。
ですから地元の漢族は、もし罪にでも問われようものなら、一族郎党皆殺しの憂き目に遭うし、その憂き目というものが、極めて残虐な、およそ人間の頭脳では考えられないほどの残酷なものとなっていました。

コリアの場合は、そもそも半島にいたのは、6つの部族であって、その中のひとつが支配層となり、その余は、被支配層とされたという歴史があります。
ここでも、嘘と闘争でなければ生き残ることができないという社会が、長らく形成されたのです。

南◯問題にしても、いわゆる従軍◯安婦問題にしても、どうしてあのような「すぐにバレる嘘」を、彼らが言い張るのかといえば、ひらたくいえば、日本という金持ち国に対してマウントを取って、すこしでも分け前にあずかり、あるいは自分たちの利益にしていこうということが根幹となります。
そのためにどれだけ嘘を言っても構わないし、嘘で闘争に勝利すれば、自分たちに利益があると、これはもうDNA的にそう思い込むように民族が進化してきたといえるのです。

つまりそこに真実は関係ないのです。
嘘と利害と闘争しか眼中にないし、そうやって、とにもかくにも、その場を生き残れば良いと考える。
それが、実は、チャイナやコリアのみならず、欧米諸国に植民地支配された有色人種国の人々の常識だし、その支配層であった西欧の人々の常識でもある、ということなのです。

では、幸いなことに植民地支配をされなかった日本はどうかというと、上古の昔から続く、民こそがたから、という概念が根底にあります。
そして宝とされた庶民は、お互いの命に神の分身となる霊(ひ)が乗っていることを自覚し、お互いに神々の分身なのだから、互いに信頼し合おうという和の文化、結びの文化を根底に持ちます。

そして信頼のためには何が必要なのかといえば、それは正直であること。
つまり嘘を言わないこと。
そもそも嘘つきは信頼されないのです。

こうして正直さが大切にされる社会では、嘘つきは忌避され、真実が大切にされるようになります。
正直で、互いに信頼し合うことができる社会だからこそ、真実が求められるのです。
これこそが、いわゆる「和の文化」、「結びの文化」の根幹です。

現在世界にはおよそ100億の人口があるといわれています。
日本人は1億です。
99対1の割合で、日本以外の世界では、嘘と闘争が社会を形成しています。
そしてその日本でも、戦後のGHQの政策によって、個人主義なるものが蔓延し、すでに日本の99%が、嘘と闘争によって社会が形成されているといわれています。

つまり、まさにこれこそが「一厘の神仕組み」の正体なのです。
日本に残った、本来人間が築くべき、信頼と信用、そして真実を大切にする文化。

世界の99.9%が嘘と闘争に覆われたいま、いよいよ大逆転の時がやってきているのです。
いま、筆者を含め、我々の同志たちが戦おうとしているのは、まさにそうした嘘と闘争の文化です。
それを一言で言い表すなら、それは「我の文化」であり、「闘争の文化」です。

この文化を「和の文化」、「結びの文化」で大逆転していく。
それは、レイシストでもなければ、レイシズムとは何の関係もない文化運動です。

筆者は、和歌や記紀などの古典や、日本の歴史を通じての、そうした日本の文化の再発見情報を発信しています。
昔、故・鶴田浩二さんが、ある番組の中で話していました。
 一年でダメなら
 三年五年
 それでもダメなら
 十年二十年。
 俺は決してあきらめない。

この言葉のままに、これからも進んでいきたいと思います。

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