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三大神勅とは、
1 天壌無窮の神勅
2 宝鏡奉斎の神勅
3 斎庭稲穂の神勅
の3つです。
原文と読みのあとに、そのポイントをご紹介していきます。

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1 天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちょく)
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とよあしはらの ちいほあき  豊葦原千五百秋               
みずほのくには あれのこの  瑞穗国是吾子孫
きみとなるべき このちなり  可王之地也
いましすめみま しらせつき  宜爾皇孫就而治焉
さきくませれば たからなる  行矣宝
さかへむことは これまさに  祚之隆當興
あめつちきはみ なかるべし  天壤無窮者矣

《現代語訳》
豊かに葦の原の広がる豊かな瑞穂の国は、
わが子孫が王となる地である。
我が孫よ、行って治(しら)しめなさい。
さあ、お行きなさい。
宝のように幸いを得て隆(さか)えることは
まさに天地と共に永遠となりましょう。

<解説>
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の意義を明らかにした御神勅です。
「天照大御神の直系のご子孫が天皇の地位にあり、地上の中つ国をシラスことにより、その地上の国は天地が未来永劫続くのと同様、未来永劫栄えます」という意味です。
従って、天壌無窮の神勅とは、天孫の皇位が続く限り、地上が栄えるということです。

では、「栄える(原文:宝祚)」とは、誰が栄えるのでしょうか。
その答えは、そこに住む人々、つまり民衆です。
最高権威である天皇が治(しら)すということは、民を「おほみたから」とするということです。

そして民は、天皇の「おほみたから」という地位を得ることによって、政治権力者からの自由を手にすることになります。
天壌無窮の神勅の意義は、まさに権力=責任とする社会なのです。
だから民が「宝のように幸いを得て、天地と共に永遠に隆(さか)える」のです。

文中の「行矣」は、古来「さきくませ」と読むと伝えられています。
漢字を優先するなら、「行く」を「さきくませ」と読むことは重要です。
なぜなら「さきくませ」なら、現代語に訳せば「幸せになりなさい」となるからです。
                
さらに「我が孫よ、行って治(しら)しめなさい」に、「さきくませ」が続くと、その意味はかなり深いものとなります。
それは、単に天照大御神がニニギノミコトに「おまえが幸せになりなさい」と述べているのではないということになるからです。
どういうことかというと、「しらせ」の意味は「お知りになりなさい」です。
何を知るのかといえば、民衆のことです。
そして天孫が民衆のことをお知りになられることが、民衆が幸せになることにつながるのです。

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宝鏡奉斎の神勅(ほうきようほうさいのしんちょく)
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あがみこみます このかがみ  吾兒視此宝鏡
あれみるごとく すべしもの  当猶視吾
ゆかをおなじく とこともに  可興同床共殿
もちていはひの かがみなれ  以為齋鏡

《現代語訳》
わが子よ、この宝鏡を視(み)ることは
まさに私(天照大御神)を見るのと同じにしなさい。
お前の住まいと同じ床に安置し、お前の住む宮殿に安置し、
祭祀をなすときの神鏡にしなさい。

《解説》
宝鏡(たからのかがみ)とは「八尺鏡(やたのかがみ)」で、これは天照大御神が天の岩戸にお隠れになられた際に、その天照大御神にご出現いただくために、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって川上の堅石を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた鏡とされています。三種の神器のひとつです。

すこし深く解説します。
現実の問題として、誰だって鏡を覗き込んだら、そこに映るのは自分の姿です。
その「映った自分の姿」の中に、祖先の慈愛の象徴としての天照大御神の御姿を見なさい、というのです。
ということは、誰しも、自分の中に天照大御神の神聖が備わっているということになります。
それは自分だけではありません。
「誰しも」備わっているのです。

つまり、周囲の人達の中には、すべての人に神聖がある。
もちろん自分の中にもある。
身分の上下に関わらず、すべての人に神聖があるのなら、すべての人は互いに相手の存在を認め、互いに尊敬し、慈しんでいかなければならない、ということになります。
これは、古代日本において、人の尊厳が、すべての人に認められていたことを意味します。

人と人とが織りなす社会です。
当然、意見の違いもあるでしょう。
腹の立つこともあるでしょう。
けれど、相手の中の神聖を認めるなら、互いに神聖を認め合うなら、どちらか一方の意見を正しいと強弁するよりも、互いに納得できる第三の道を選択することになります。

イザナギは、イザナミと千引石をはさんで別れるとき、
「愛する妻よ」と呼びかけました。そして、
「お前がそのようにするのなら、私は毎日千五百の産屋を建てよう」と答えています。

妻のイザナミは、イザナギの国の住民を毎日千人縊り殺すと言ったのです。
これは要するに敵対的行動に出る、という宣言です。
けれどそんな敵対しようとする相手にさえも、建設で答えようとしているのです。

この精神こそが、縄文時代1万4千年の長きに渡って、日本人が人が人を殺す文化を持たなかった理由ではなかろうかと思います。

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斎庭稲穂の神勅(ゆにはいなほのしんちょく)
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        あがもてる  以吾
たかあまのはら ゆにわのほ  高天原所御齋庭之穂
あがみこおひて まかすべし  亦当御於吾兒

《現代語訳》
吾が高天原に作る神聖な田の稲穂を、
わが子に任せましょう。

《解説》
この斎庭稲穂の神勅によって、日本国中で栽培される稲は、ことごとく「天照大御神からの授かりもの」という位置づけになります。
つまり民(おほみたから)が栽培する稲は、そのすべてが天照大御神が召し上がられた稲の子ということになります。
私たちが毎日いただくお米は、高天原で天照大御神がいただかれるお米と同じお米です。
私たちの体は、そのお米によって育ち、生きています。

「戸喫(へぐい)」という言葉があります。
同じものをいただくということは同じ仲間となる、共同体の一員となるという意味の言葉です。
神社などで、参拝のあとに「直会(なおらい)」といって、奉納したお米や作物などを、みんなで一緒にいただきます。
これもまた、そうすることによって神様と心を通じあうための神事です。

このご神勅によって、全国でお米を栽培する民は、高天原の稲を栽培する人々という位置づけになります。
だからこそ、民は「おほみたから」という位置づけになります。
近年では、お百姓は収奪されていたなどという、とんでも説がまかりとおっていますが、国家としての農家への認識は、斎庭の稲穂を栽培するという大事を行う宝であったのです。

最近では、縄文食に帰れという言葉をよく聞くようになりました。
宇宙食だの、未来食だのと言われますが、万年の単位で営まれた縄文由来の我が国の食文化は、やはり日本人の肉体に最も適しているのであろうと思います。

いま西欧では、既存の農業を壊滅させて人工食に切り替えようとする動きが本格化しています。
けれど、人の肉体は、その人の霊(ひ)の乗り物です。
果たして宇宙食や人工食で、人の体の健康が保持できるのでしょうか。

これまで、食べ物は栄養学的な存在とされてきました。
人は食べ物から栄養をいただいている、とだけ解釈されてきていました。
けれど本当にそれだけでしょうか。

敏感な資質の子供は、何も知らなくても牛肉などを食べると、その牛が殺されるときの死の恐怖が感染して泣き叫ぶといった症例が報告されています。
つまり、食べるということは、その食物の栄養素を体にいただくだけではなく、その食物が持っている何らかの振動を受け取るということなのです。

振動とはエネルギーの本質です。
ですから愛情深く育てられたお野菜をいただくと、愛というエネルギーを同時に体内に採り入れることになります。

四足動物のお肉をいただくのに、その動物をいたぶり、なぶり殺しにする方が肉が締まって美味しくなると考え、そのようにする国もあると聞きます。
どことは言いませんが、日本のすぐ近くにある国です。
その国の人々の心の歪みは、まさにそうした残虐な酷白さから生じているといえるのかもしれません。
なぜなら、残酷な仕打ちで殺された動物の恐怖心が、そのままその国の人々の体内の細胞のひとつひとつに住み着いているのです。
すると何もかもが恐怖の対象になる。
日本に居て、日本人として暮らすことで日本人のやさしさや、日本社会の持つやさしさに触れても、彼らはそれを恐怖にしか感じない。
だから日本的なものを攻撃し、残酷に攻撃することが正義だと考え行動する。
その行為自体が、本当は悪なのに、それを勝ち組だと履き違える。

実際、おかしな合成物ばかりを食べていると、人が暴力的になるということは、米国の刑務所の実験などで実証されていることです。

我々がいただくお米が、天照大御神から授けられた愛の産物だという自覚のもとにお米を育てる。
そのお米を、そうした愛の自覚のもとにいただく。
そうすれば、誰もが、いまとは一味違った幸福感を、ご飯からいただくことができる。
そういうことを、この御神勅は教えてくださっているのです。

 *

三大神勅は、日本書紀の中の「一曰(あるにいわく)」として、つまり別伝の中に書かれていることです。
けれど古来、我が国では、三大神勅の心を大切にしてきました。
 民衆のひとりひとりが「おほみたから」であること。
 鏡に写った自分の姿の中に、天照大御神様がおいでになること
 我々が日々いただくお米は、天照大御神様からいただいた、高天原のお米の子孫であること。
ここに、我が国の感謝の文化の根幹があります。

感謝の文化は、同時に和の文化でもあります。
そして和することは、結びの文化となります。
それは、世界中の人類が、もう数千年もの間、ずっと希求してきた文化です。

昨今の都市伝説界隈では、宇宙人が地球に飛来し、地球の人類を見守っているのだといった説がかしましいです。
それが本当のことであるかどうかは、筆者にはわかりません。
けれど人類社会が、ごく一部の人々の贅沢のために圧倒的多数の人々が搾取され奴隷化されるといった世界は、すくなくとも人類社会の理想形とは程遠いものであることは、誰の頭でも理解できることであろうと思います。

※この記事は2022年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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しっかり学ぶ「三大神勅」” に対して1件のコメントがあります。

  1. 向 直樹 より:

    先生、ありがとうございます。
    大変勉強になりました。

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