はじめに|戦争と「命の重み」

松本裕昌氏の言葉に見る戦争の教訓

これから「アッツ島の戦い」についてお話しします。
けれど、その前にどうしてもお伝えしておきたいことがあります。

元海軍航空隊の松本裕昌氏は、その著書『我が予科練の記』の中で、こんな言葉を残しました。

「私たちは、今後けっして、権力者の野望を満たすために若者の命を奪ってはならないし、また奪われてもならない。」

この言葉には、戦争の悲しみを知る世代の切なる願いが込められています。

一人ひとりの命を大切にする日本人の心

いま世界のどこかで続いている戦争や紛争のニュースでは、「兵士が何人死んだ」といった数字だけが伝えられます。
けれど、その一人ひとりに、家族や友人がいて、未来や夢があったはずです。

日本人が大切にしてきたのは、「数」ではなく「ひとつひとつの命」でした。
だからこそ、戦争を考えるときも、決して十把一絡げに語るのではなく、命の重さを心に刻んでおくことが大切なのです。

終戦が意味するもの

そして、もう一つ忘れてはいけない事実があります。
それは、私たちの国が「戦争をした」ということ。

先の大戦は、やむを得ぬ事情の中で開戦に至り、最後には原爆の投下によって、戦いは「戦争」から「虐殺」へと変わってしまいました。
だからこそ日本は、自ら戦いを終わらせる決断を下したのです。

――この二つの前置きを胸に、次の章では「アッツ島の戦い」に目を向けていきます。
そこには、勇敢に戦い、そして玉砕の中でわずかに残された「アッツ島 生存者」の姿がありました。

戦争の現実と終戦の理由

「戦争」と「虐殺」の違い

戦争には国際法があります。
本来、戦いは「軍服を着た兵士同士が向き合うもの」であり、それが守られてこそ「戦争」と呼べるのです。

しかし、先の大戦の末期に投下された原子爆弾は、武器を持たない民間人を大量に殺害しました。
この行為は、戦争ではなく「虐殺」でした。
だからこそ、日本は自ら戦いを終わらせるという決断に至ったのです。

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原爆によって変わった戦いの意味

終戦の詔勅には、このことがはっきりと記されています。
「戦争」が「虐殺」にすり替わったとき、日本は戦いを続ける意味を失いました。

この判断は、ただ敗北を認めるというものではなく、未来の日本人を守るための英断だったのです。
その上で、私たちは「アッツ島の戦い」のように、最後まで勇敢に戦った人々の姿を忘れてはなりません。

そして、この玉砕の中でわずかに残された「アッツ島 生存者」の証言や記録こそ、戦争の現実を今に伝える貴重なものとなっています。

アッツ島の戦いの始まり

日本軍の進出と守備隊2,650名

北の海に浮かぶ小さな島、アッツ島。
ここは北海道よりもさらに北に位置し、厳しい寒さに覆われた島でした。
昭和17(1942)年9月18日、日本軍はこの島に進出し、守備隊2,650名が駐屯しました。目的は飛行場の建設でした。

当時アッツ島には人は住んでいませんでしたが、形式上はアメリカ領であり、これが「米国領土を外国軍が初めて占領した事例」となったのです。

米国領土を初めて占領した事例

そのため、米軍にとってアッツ島の存在は大きな意味を持っていました。
やがて米軍は建設途中の飛行場を空襲し、翌昭和18年には大艦隊を率いて島の奪還に乗り出してきます。
これが、後に「アッツ島玉砕戦」と呼ばれる激闘の始まりでした。

山崎保代陸軍中将の赴任と戦略

このとき守備隊を指揮するために赴任したのが、山崎保代(やまさきやすよ)陸軍中将です。昭和18(1943)年4月18日、彼は潜水艦でアッツ島に到着しました。

山崎中将は、米軍が大艦隊と大部隊で来ることを予測し、ただ海岸線で迎え撃つのではなく、あえて島の奥に引き込み、徹底抗戦する戦略を立てました。
この作戦は後に硫黄島の戦いでも取られることになる戦法です。

こうして、数に勝る米軍に対して、わずか2,650名の日本兵が運命を共にし、やがて玉砕へと向かう日々が始まったのです。
その中で、奇跡的に残された「アッツ島 生存者」の存在が、今に至るまで戦いの真実を伝えてくれています。

激闘の日々と玉砕

圧倒的な米軍との戦力差

昭和18(1943)年5月5日、ついに米軍の大艦隊がアッツ島へと姿を現しました。
戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」、さらに空母や輸送艦を従えたその姿は、まさに圧倒的な戦力でした。

上陸部隊だけでも約1万1,000人。
それに対して日本軍は、わずか2,650名。しかも純粋に地上戦を戦える兵士はその半数にも満たなかったといいます。

この絶望的な戦力差のなかで、日本兵たちは最後まで勇敢に戦い抜きました。

守備隊の奮闘と辰口軍医の日記

5月12日、米軍は艦砲射撃と空爆で島を覆い尽くした後、一斉に上陸しました。
それでも日本守備隊は粘り強く反撃し、米軍部隊を海岸線に押し戻すなど、驚くべき奮戦を見せました。

その戦いの様子を伝える貴重な記録の一つが、辰口信夫軍医の日記です。
彼は敵上陸の日から玉砕前日までの18日間を克明に記し、最後の日にはこう書き残しています。

「僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下萬歳。」

さらに、妻や幼い子どもたちに宛てた別れの言葉も添えられていました。
その一文一文から、彼がどれほど家族を想い、そして覚悟をもって最後の時を迎えたのかが伝わってきます。

最後の突撃と「アッツ島 生存者」の姿

5月29日。戦闘に耐えられない重傷者が自決したのち、山崎保代陸軍中将はわずかに残った約150名の兵を前に、最後の総攻撃を決断しました。

「今日までよく戦ってくれた」――。
そう兵を労い、無線を破壊させたのち、中将は軍刀を右手に、日の丸を左手に掲げ、皆に向かって笑顔を向けると、「いざ!」と声をかけ、みずから先頭を走り始めました。
生き残った傷だらけの兵たち全員が、敵陣へと駆け上っていきました。
鬼神のごとき突撃は米軍を混乱させ、本陣にまで迫る勢いでしたが、圧倒的な火力の前に、ついに全員が散華しました。

米軍の記録によれば、最前線に倒れていたのは山崎中将の遺体でした。
突撃攻撃は、我が身を敵前にさらします。米軍にしてみれば銃剣を手にして銃を撃ちながら突進してくる兵の姿は、まさに恐怖の対象です。撃ち殺さなければ自分たちが殺されてしまうのです。ですから米軍も機銃を構え、必死で応戦しました。
当然、先頭を駆けてくる日の丸の旗を手にした人物は、恐怖の的です。機銃の銃口はその人物に向けられました。
その弾丸は、何発も山崎中将の体を貫きました。何度も倒れました。だけど何度も立ち上がりました。その結果が「最前線に倒れていた」という記録です。
最後まで先頭に立ち続けたその姿は、日本人としての誇りそのものであったのです。

そして、ほとんどが命を落としたこの戦いの中で、奇跡的にわずかに残った「アッツ島 生存者」たちの証言が、後の時代にこの壮絶な玉砕戦を伝える貴重な証拠となりました。

戦後に語り継がれた真実

米軍戦史に記された日本兵の勇敢さ

アッツ島の戦いは、圧倒的な兵力差のもとでの玉砕戦でした。
しかし米軍は、その勇敢な戦いぶりを決して軽んじませんでした。

米軍戦史にはこう記されています。
「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術がなかった。」

そして、山崎保代中将については「稀代の作戦家」と称賛の言葉が残されています。
敵であったはずの米軍ですら、その奮闘と知略に深い敬意を抱いたことがわかります。

瀬島竜三の証言と天皇の言葉

当時、大本営参謀だった瀬島竜三氏は、自身の手記『幾山河』の中で、アッツ島から届いた最後の電報を紹介しています。

「衆寡敵せず、明日払暁を期して全軍総攻撃をいたします。アッツ島守備の任務を果たし得なかったことをお詫びいたします。」

この電報は、天皇陛下にも届けられました。
そして奏上を受けた陛下は杉山元帥にこう伝えられたといいます。

「アッツ島部隊は最後までよく戦った。そう伝えよ。」

無線機を破壊した後で通信は届くはずもありません。
けれど、瀬島氏は「母が息子の名を呼び続けるように、陛下は兵を想われた」と涙ながらに記しています。
この言葉は、玉砕の中にあっても心を寄せ続けられた「アッツ島 生存者」たちの存在をも含め、日本人の誇りとして語り継がれています。

北太平洋戦没者の碑に込められた願い

昭和62年(1987年)、日本政府と米国の協力によって、アッツ島に「北太平洋戦没者の碑」が建立されました。
その場所は、最後の総攻撃が行われた「雀ケ丘」。

碑にはこう刻まれています。
「さきの大戦において、北太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび、平和への思いをこめてこの碑を建立する。」

国を越えて共通する願い――それは、再び戦争の惨禍を繰り返してはならないということです。
アッツ島で命を落とした将兵、そして奇跡的に残った生存者の証言を通して、私たちは平和の尊さを今に学んでいるのです。

おわりに|アッツ島生存者の記録が伝えるもの

平和を訴え続ける日本人の使命

アッツ島の戦いは、先の大戦で初めての玉砕戦でした。
そこに散った2,650名の命、そして奇跡的に残された「アッツ島 生存者」の証言は、私たちに戦争の現実を静かに語りかけてきます。

戦争は、権力者の野望や利益によって始められることがあります。
しかし犠牲になるのは、いつの時代も普通の人々――若者や家族を持つ人々です。
だからこそ、日本人として、戦争の悲惨さを知る者として、私たちは二度とその過ちを繰り返さないと世界に訴え続ける使命を持っているのだと思います。

「命を奪わず、奪われない」未来へ

現代においても、紛争や戦争はなくなっていません。
武器を持たない市民が犠牲となることも少なくないのが現実です。

けれど、本当に大切なのは「人が人として、安心して生きられる社会をつくること」です。
アッツ島で命を落とした将兵の思い、そして生存者の残した声は、まさにその未来を私たちに託しているのではないでしょうか。

「命を奪わず、奪われない」――そのシンプルで深い願いこそ、日本がこれからも守り続けるべき道標です。

お知らせ

この記事は2024/03/13投稿『日本人と戦争〜アッツの戦い』のリニューアル版です。

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