はじめに|「真珠湾攻撃は奇襲ではない」と言われる理由

1941年12月、日本が下した大きな決断

昭和16年(1941年)の冬、日本は世界を大きく揺るがす決断を下しました。
ハワイのオアフ島にあるアメリカ軍の基地・真珠湾を攻撃したのです。

現地時間では12月7日午前7時10分、日本時間では12月8日午前2時40分のことでした。
空からの航空攻撃と、海中からの潜航艇による攻撃。その指揮をとったのは、海軍中佐の淵田美津雄でした。

淵田中佐は、出撃にあたり「全軍突撃」を意味する「ト・ト・ト」という信号を発し、その後45分後には旗艦・赤城に「トラ・トラ・トラ」と打電しました。
これは「我、奇襲に成功せり」という暗号でした。

この報告から、真珠湾攻撃は“奇襲”という言葉で広く知られるようになります。
しかし実は、「真珠湾攻撃は奇襲ではない」と語られる理由があるのです。

淵田美津雄中佐と「トラ・トラ・トラ」の意味

「トラ・トラ・トラ」という合図は、ただの作戦成功の報告だけではありません。
それは、極限状態の中で全力を尽くした兵士たちの気迫と、命をかけた覚悟を示すものでした。

日本軍の攻撃によるアメリカ側の損害は甚大で、戦艦5隻が沈没、駆逐艦2隻が沈没、航空機は数百機が破壊や損傷を受け、2,000人を超える兵士が命を落としました。
まさに歴史に残る大戦果でしたが、この出来事は「卑怯な奇襲」と一方的に語られがちです。

けれども、この背景にはもっと深い人種観や国際政治の事情が隠されていたという意見を語る人がいます。「真珠湾攻撃は奇襲ではない」と考える人々がいるのです。

真珠湾攻撃の衝撃と米軍の先入観

ドイツ軍の仕業と疑った米司令官

真珠湾攻撃が始まったとき、米軍の司令部はその光景に驚きました。
なぜなら、日本軍の攻撃があまりにも鮮やかで、緻密だったからです。

その場にいた米軍の司令官たちは口々に「これはドイツ軍の仕業に違いない」と語り合ったといいます。
日本人がこんな高度な作戦を成功させるはずがない、という思い込みがあったのです。

実際のところ、当時のアメリカでは「日本人は劣った黄色人種である」という偏見が根強く存在していました。

彼らには「日本がここまでの攻撃をできるはずがない」と映ったのでしょう。

日本人への偏見が生んだ誤解

「真珠湾攻撃は奇襲ではない」と語られる背景には、この偏見があります。

日本軍の行動は、決して単なる“だまし討ち”ではなく、長い準備と決断の結果でした。
けれども、その成果が「奇襲」としてのみ語られたのは、当時の国際社会にあった人種差別的な視点が大きく影響していたという説もあります。

このことを思うと、真珠湾攻撃の出来事は「ただの戦闘」ではなく、人種意識の壁をも浮き彫りにした歴史だったと考えられるのです。

戦後に語られたもう一つの物語

黒人兵たちが語った「本当に喜んだのは誰か」

戦争が終わってしばらく経ったころ、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄元海軍大佐のもとに、ある日アメリカの黒人兵たちが訪ねてきました。
彼らは淵田を車に乗せ、米軍将校の宿舎へと連れて行きました。淵田元海軍大佐は、これで死ぬのだろうと覚悟をされたそうです。

ところが、到着したお店で待っていたのは、思いもよらぬ光景でした。
大勢の黒人兵たちが彼を温かく迎え、「食べていけ」「飲んでいけ」と盛大に歓迎してくれたのです。

そのとき彼らは、こういいました。
「真珠湾の攻撃を一番喜んだのは、私たち黒人だよ」
差別に苦しんでいた彼らにとって、日本の行動は胸の奥に響く出来事だったのです。

前線に立たされた黒人部隊の現実

戦時中、米軍では人種による扱いに大きな差がありました。
艦砲射撃や空爆の後、最初に上陸させられるのは黒人部隊。
彼らが撃たれることで敵の位置が割り出され、弾が止んだ頃になって白人部隊が前進していく――そんな現実があったのです。

映画やドラマでは白人兵士の勇敢さばかりが描かれますが、実際には命の危険が最も大きい場面に黒人兵が立たされていました。
だからこそ、彼らは日本の存在を「自分たちと同じく差別に抗う仲間」と感じ、特別な親近感を抱いたのです。

この出来事は、戦争の勝敗だけでは語りきれないもう一つの物語を私たちに伝えてくれます。

日本が掲げた人種差別撤廃の理想

パリ講和会議での日本の主張

第一次世界大戦が終わった1919年、パリで講和会議が開かれました。
この会議は「二度と大戦を繰り返さないために国際連盟をつくろう」という大きな目的を持っていました。

そこで日本の全権・牧野伸顕は、世界に向けてはっきりとした提案を行います。
「人種差別を撤廃すべきだ」――この主張は、当時の国際社会にとってとても衝撃的なものでした。

なぜならその頃、植民地支配があたりまえで、白人が優等人種、黄色人種や黒人は劣等人種どころか、人類以下の獣と考えられていたのです。
そうした常識の中で、日本が掲げた「人はみな平等である」という考えは、まさに時代に挑戦するものでした。

西欧列強にとっての“危険思想”

もしも人種差別が否定されれば、欧米の大国は植民地を維持できなくなります。
彼らの富や権力の多くは、まさに人種差別と支配によって成り立っていたからです。

だから日本の主張は、彼らにとって「財産を手放すよう迫られる危険な獣の思想」でした。
このため、日本の提案は多くの賛同を集めながらも、アメリカ大統領ウィルソンの一言によって退けられてしまいます。

けれども、このときの日本の姿勢は、世界の有色人種に大きな希望を与えました。
「日本は我々の代弁者なのだ」と、遠い国からの声に勇気をもらった人々も多かったのです。

こうして日本は、単なる軍事的な力だけでなく、「差別なき世界をつくろう」という理想を掲げていたことがわかります。
この理想は、やがて日米関係の溝を深める要因ともなり、真珠湾へとつながっていくのです。

デュボイスが見た日本という希望

帝国ホテルでの忘れがたい経験

アメリカの黒人思想家であり、公民権運動の先駆者でもあった W・E・B・デュボイス
1936年、彼は日本を訪れ、二週間ほど滞在しました。

ある日、東京の帝国ホテルで勘定を済ませようとしていたときのこと。
そこに“典型的なアメリカ白人女性”が現れ、あたりまえのように列に割り込もうとしました。

しかしホテルの係員は、その女性を無視して、デュボイスへの対応を終えるまで丁寧に接客し、最後に深々と頭を下げたのです。
この場面にデュボイスは驚きました。
「ここには、白人が当然のように優先される母国アメリカとは違う世界がある」――そう感じたのです。

「有色人種の国」としての日本

デュボイスは後にこう語っています。
「日本人は、私たち黒人が同じ有色人種として苦しみを共有していることを理解し、心から迎えてくれた」

その思いは、上海での体験によってさらに深まります。
白人の子どもが中国人の大人に「どけ」と命じたとき、中国人たちは慌てて道を譲りました。
それはまるで、アメリカ南部で黒人が白人に従わされる光景と同じでした。

しかし日本は違った――。
日本は有色人種が、自らの国を築き、対等に世界と渡り合っている国だったのです。

デュボイスにとって日本は、「人種の壁を越えて共に生きられる希望の国」と映りました。
その感覚は、当時差別に苦しんでいた黒人社会にとって、大きな励ましとなったのです。

日米開戦は人種問題でもあった

黒人社会が抱えた葛藤と日本への期待

大東亜戦争が始まったとき、アメリカの黒人社会にはさまざまな意見がありました。
「人種問題は一旦脇に置き、祖国のために戦おう」という声もあれば、
「戦って功績を立てれば、公民権を勝ち取れるかもしれない」と期待する人もいました。

一方で、「差別するアメリカのために戦うのはおかしい」と考える人たちも少なくありませんでした。
そんな中で、日本の存在は特別な意味を持ちました。
日本は国際舞台で堂々と「人種差別撤廃」を訴えた国であり、同じ有色人種の立場から黒人たちに勇気を与えていたからです。

プロパガンダが描いた「黄色い猿」

当時のアメリカ政府は、世論をまとめるために日本人を「残虐で野蛮な存在」と描きました。
「黄色い猿」や「小さな悪魔」といった差別的な呼び方まで使い、日本兵を人間扱いしない宣伝を続けたのです。

けれども黒人社会は、そこに強い違和感を覚えました。
なぜなら、白人による偏見や差別を日々受けてきた彼ら自身が、その言葉の裏に潜む人種意識を敏感に感じ取ったからです。

黒人兵士の中には「白人を守るために、同じ有色人種の日本人と戦うのはおかしい」と口にする者もいたほどでした。
彼らにとって日米開戦は、単なる国と国の戦いではなく、人種をめぐる大きな問題の一部だったのです。

真珠湾攻撃が残した意味

日本が挑んだ大義と世界の独立運動

真珠湾での戦いは、単に軍事的な勝敗だけで語れるものではありません。
その背景には、日本が掲げた「人種差別のない世界を」という大きな理想がありました。

当時の世界は、欧米列強による植民地支配があたりまえでした。
けれども、日本が立ち上がり、命をかけて戦ったことで、アジアやアフリカの人々は「自分たちも独立できるのではないか」と勇気づけられました。
結果的に戦後、数多くの国が植民地から解放され、独立を果たしていきます。

真珠湾攻撃は、そうした世界の流れを加速させた大きなきっかけだったのです。

「だまし討ち」ではなく、時代を変えた出来事

一般的には「だまし討ち」と呼ばれることの多い真珠湾攻撃ですが、その実態はもっと複雑です。
長い準備と覚悟の上に行われた作戦であり、背後には人種問題という深いテーマがありました。

だからこそ、「真珠湾攻撃は奇襲ではない」と語られるのです。
それはただの戦術的な評価ではなく、世界の人々に希望を与え、時代を動かした歴史的な意味を含んでいるからです。

おわりに|やさしさを忘れない日本人の心

戦前も戦後も変わらぬ日本人のあり方

日本は、戦前も戦後も「人と人とが共に生きること」を大切にしてきました。
戦時中に人種差別撤廃を掲げたのも、自分たちだけの利益を求めたからではありません。
「四方の海はみなはらから」という古くからの精神――すべての人は兄弟姉妹である、という考え方が根底にあったのです。

戦争が終わったあとも、その心は失われませんでした。
遠い国で飢えや病に苦しむ人々を助けるために、多くの日本人が寄付をしたり、現地に赴いて支援したりしています。
それは決して豊かさに余裕があるからではなく、「困っている人を放っておけない」という自然な心から生まれる行いでした。

真珠湾攻撃から学ぶ大切なこと

真珠湾攻撃は、今も世界史に残る大事件です。
けれど、それを単に「突然の攻撃」として片づけてしまうのではなく、そこに込められた背景や理想を見つめることが大切です。

日本が示したのは、「差別のない世界を目指す」という強い願いでした。
その思いが結果として世界中の独立運動へとつながり、いまの国際社会を形づくる一歩になったのです。

だからこそ私たちは、この出来事を「未来への道を切り開いた歴史」として記憶していきたいのです。

そして何よりも忘れてはならないのは、日本人の心に根付く「やさしさ」。
それは戦前も戦後も変わらず受け継がれてきたものであり、これからも私たちが大切にしていくべき宝物なのです。

お知らせ

この記事は2021/12/09投稿『真珠湾攻撃と人種差別問題』のリニューアル版です。

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