はじめに|植民地とは簡単にいうと何か

植民地支配と聞いて思い浮かべるイメージ

「植民地」と聞くと、多くの人は大航海時代以降のヨーロッパ列強がアジアやアフリカを力で支配し、現地の人々から富を奪ったというイメージを持つのではないでしょうか。
たしかにその側面はありますが、それだけでは植民地の成り立ちを語りきることはできません。

単なる王の権力欲ではなく「必要性」から生まれた体制

「植民地支配」と聞くと、権力者が自らの欲望を満たすために他国を支配した、という単純な説明で片付けられがちです。
けれども実際には、支配する側にも「そうせざるを得なかった事情」が存在していました。つまり、時代や国際社会の中で秩序を保つために、必要から生まれた体制でもあったのです。

こうした背景を理解することで、「植民地とは何か」をより簡単に、かつ立体的に捉えることができるようになります。

植民地が生まれた理由

国家には責任体制が求められる

国を名乗る以上、その国内で起きた事件や事故には、政府が責任を負わなければなりません。
たとえば外国人が国内で被害を受けた場合、その国は加害者を捜査し、被害者やその家族に対して補償を行う責任があります。
これは「国家」としての最低限の約束事であり、だからこそ国同士は信頼関係を築くことができるのです。

被植民地では通用しなかった「国としての責任」

しかし、当時「植民地」とされた地域では、このような責任の感覚が通用しないことが多くありました。
たとえばイギリス人が現地で殺害されたとしても、その国の王朝は「それは民間人のしたことで、政府は関係ない」と答えるだけ。
こうした態度では、他国の国民を安心して送り出すことはできません。

欧米列強がエリアを分担して支配した仕組み

そこで欧米列強は相談し、それぞれの地域を「担当エリア」として分け合いました。
「この地域で起きたことはフランスが責任を持つ」「この地域はイギリスが管理する」といった具合です。
その結果、そこで暮らす人々の生活までもが支配される「植民地」という仕組みが生まれたのです。

つまり、植民地支配は必ずしも一方的な欲望だけでなく、「責任を負える国が秩序を守る」という側面からも生まれたと言えるのです。

日本が植民地化されなかった背景

国家としての責任体制が古くから存在した

日本が他のアジア諸国と違って植民地化されなかった理由のひとつは、すでに「国家としての責任体制」が整っていたことにあります。
つまり、国内で起きた事件に対して政府が責任を持ち、国として対応する仕組みがあったのです。これは単なる武力の強さではなく、国家としての成熟度を示していました。

生麦事件と幕府の対応が示した近代的姿勢

幕末の「生麦事件」では、薩摩藩士によってイギリス人が殺害されるという大事件が起こりました。
このとき幕府は、政府としてきちんとイギリスに対して賠償を行いました。
欧米列強にとって、当時の東洋の国が「国際ルールに基づき、責任を果たす姿勢」を示したことは、大きな驚きだったのです。

欧米列強が日本を見直した瞬間

さらに薩英戦争では、薩摩がイギリス軍艦に対抗し、互角に戦いました。
それでも幕府は国として賠償を支払い、責任を果たしました。
この対応は「日本は他のアジアの国々とは違い、国際社会のルールを理解できる国である」と欧米列強に印象づけました。
こうした事実が、日本が植民地化されずに独立を守る大きな要因となったのです。

植民地支配の実態と評価

支配された側の不幸はもともと存在した?

植民地支配というと、「西欧列強が富を奪った不幸」とだけ語られることが多いですが、実際にはその地域にもともと存在していた問題も大きかったのです。
王や支配者が自国民を搾取し、人権が守られない状況はすでにあったのです。
つまり、不幸のすべてが「植民地にされたこと」だけで生まれたわけではないのです。

ガンジーに象徴される教育と人材育成

もちろん植民地支配がすべて正しかったわけではありませんが、支配する側が将来性を認めた若者に教育を与えた例もあります。
インド独立運動の指導者であるガンジーも、宗主国の制度によって西洋に留学し、弁護士の資格を得ています。
植民地の中からも、高い教養を持った人材が育っていったことは事実です。

日本が人種差別撤廃を訴えた意味

日本は近代化を成し遂げ、列強の仲間入りを果たした後、第一次世界大戦後の国際会議で「人種差別撤廃」を提案しました。
これは、それまでの「植民地=当然」という世界の構図を大きく揺るがすものでした。
人道的な理念を掲げた日本の姿勢は、欧米列強にとって脅威でもあり、その後の国際関係に大きな影響を与えました。

戦後の独立とその課題

独立後に起きた虐殺や内乱

第二次世界大戦後、多くの有色人種国家が次々と独立を果たしました。
しかし、独立が平和や安定につながったわけではありません。
むしろ権力闘争から虐殺や粛清が起こり、長く内乱状態に陥った国も少なくなかったのです。
自由を得たはずの国々が、逆に混乱と悲劇に見舞われた例は多く見られました。

国際秩序を乱す国家の存在

独立をした後も、国際的な約束事や条約を守らず、周辺国や国際社会に迷惑をかけ続ける国もあります。
条約を軽視し、国際秩序を揺るがす行為は、世界全体に不安定さをもたらします。
「国家としての責任体制」を持たない国が独立しても、結果的に新たな問題を生むことになるのです。

人道主義が必ずしも秩序を守るとは限らない

戦後は「人権」や「人道主義」が重視される時代になりました。
しかし、それが必ずしも国際秩序や安定を守ることにつながるわけではありません。
一部の国では「人権」を口実に他者を非難しつつ、自分たち自身は他人の権利を平気で踏みにじる姿勢をとり続けています。
この現実は、単なる理想だけでは世界の安定を支えられないことを示しています。

外国支配と植民地の違い

Chinaの外来王朝と支配の意味

「植民地」という言葉は、単に外国人による支配と同じ意味ではありません。
たとえば中国を見てみると、多くの人は「漢民族の国」というイメージを持っていますが、実際には漢民族が王朝を築いたのは前漢の時代だけでした。
その後は、モンゴルや満洲など外来の民族が王朝をつくり、中国を支配してきたのです。

モンゴルが元を建てた背景

代表的な例がモンゴルによる元王朝の成立です。
北方の遊牧民だったモンゴルが、なぜ中国に直接乗り込んで王朝を築いたのか。
それは、漢民族が約束を守らず、条約や国境の取り決めだけでは秩序を維持できなかったからです。
結局、ハーン自身が支配者として現地に入り込むことでしか、安定を保つ方法がなかったのです。

秩序を保つための「直接支配」という選択

もし相手が国際的な約束を守る民族であれば、条約を結ぶだけで十分だったはずです。
しかし、それが成り立たない状況では、力による直接的な支配を選ばざるを得ませんでした。
これが「外国による支配」と「植民地」という言葉の違いにつながります。
つまり植民地は単なる権力欲の結果ではなく、「秩序を維持するための仕組み」として生まれた側面があったのです。

おわりに|植民地とは簡単にまとめると

支配は「必要性」から生まれた

植民地というと「強国による一方的な搾取」とだけ思われがちですが、実際には「国として責任を果たせない地域に秩序を与える」という側面もありました。
つまり、単なる権力欲や欲望の産物ではなく、国際社会の中で「そうせざるを得なかった必要」から生まれた体制だったのです。

今を生きる私たちが考えるべきこと

もちろん植民地支配には、現地の人々が受けた苦しみや搾取があったことも事実です。
しかし同時に、「国家として責任を果たす」という姿勢がなければ、秩序は保たれないという教訓もそこにあります。
現代の国際社会においても、約束を守らず自国の利益ばかりを追う国が混乱を生んでいます。
だからこそ私たちは、歴史を単純な善悪で判断するのではなく、「植民地とは何だったのか」を多角的に見つめ直す必要があるのではないでしょうか。

お知らせ

この記事は2021/05/11投稿『植民地の意味を理解する』のリニューアル版です。

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