
はじめに|神功皇后は実在しないとされる理由とは
かつてはお札にもなった神功皇后について語るとき、近年ではしばしば「実在しない人物ではないか」という見方が提示されます。なるほど史料の多くは神話や伝説の色合いが強く、考古学的にその存在を裏づける証拠が乏しいのが実情です。
しかし戦前の日本では、尋常小学読本に記された「三韓征伐」の物語は、当時の教育で必ず学ばれる内容でした。そこでは神功皇后は歴史上の偉人として語られ、その功績は大きな意味を持つものとされていました。
神功皇后は仲哀天皇の皇后であり、妊娠中に男装して出征し、朝鮮半島を平定したという物語が広く知られています。この壮大な物語は、単なる逸話として片付けられないだけの説得力を持ち、日本の歴史観に深く刻まれてきました。
次章からは、仲哀天皇との関わりや「三韓征伐」について詳しく説明いたします。
仲哀天皇と神功皇后の物語
仲哀天皇と熊襲征伐の背景
第14代仲哀天皇は、あのヤマトタケルの子として知られています。古事記では「帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」、日本書紀では「足仲彦天皇」と記されています。その治世の時代、西国の一部には「悪者ども」と呼ばれる勢力が存在し、朝廷に従わず勝手な振る舞いをしていました。仲哀天皇は、これを討伐しようと立ち上がったのです。
この「西の方の悪者ども」とは、熊襲のことを指します。仲哀天皇8年(西暦200年頃とされる)、この熊襲征伐が行われ、大和朝廷による全国統一が完成したと伝えられています。
神功皇后が担った役割
仲哀天皇には皇后がいました。それが神功皇后です。物語の中で、仲哀天皇が戦いのさなかに矢を受けて崩御すると、神功皇后が表舞台に立ちます。しかもそのとき皇后は身ごもっており、後に応神天皇となる子をお腹に抱えていました。
神功皇后は、敵の背後には外国の力が働いていると見抜き、直接その国を討つことで国内の乱を鎮められると考えました。そして自ら男装し、筑紫から玄界灘を越えて朝鮮半島に出兵するという大胆な行動に出たのです。
こうした伝説的な行動は「神功皇后は実在しない」とする学説を招く一方で、古代日本において女性の力がいかに強く描かれていたかを示すものでもあります。
神功皇后の朝鮮出兵と「三韓征伐」
男装して挑んだ伝説の遠征
仲哀天皇を失った後、神功皇后はお腹に子を宿したまま、自ら軍を率いて朝鮮半島へ出兵されました。その勢いは「船が山に登るほどであった」と表現され、まさに破竹の進撃だったと伝えられています。
新羅王の降伏と朝貢のはじまり
神功皇后が攻め入ったのは新羅でした。新羅王の波沙寐錦(はさむきん)は、
「東に神国あり、その国には天皇という聖王がいる」と語り、戦わずして降伏したと伝わります。さらに金や銀、絹を献上し、倭国への朝貢を誓いました。また、王族の微叱己知(みしこち)を人質として差し出したことも記録されています。
この出来事は、日本の史書における「朝貢と人質制度」の最初の例とされています。以後、毎年の朝貢と人質の慣例が続き、裏切れば王子が失われるという仕組みが確立されたのです。
応神天皇誕生と宇美町の由来
神功皇后の出征は10月と伝わり、同じ年の12月には筑紫に凱旋しています。そしてその地で出産した子が、後に第15代天皇となる応神天皇です。出生の地は「生む(うむ)」に由来し、やがて「宇美」と呼ばれるようになりました。現在の福岡県宇美町の地名の由来は、ここにあります。
三韓征伐の持つ意味
朝貢と人質制度の起源
神功皇后の朝鮮出兵において、新羅が降伏して朝貢と人質を差し出したことは、日本の歴史における大きな転換点でした。以後、この仕組みは制度として確立し、王子を人質に出すことで国王の忠誠を保証する流れが生まれました。この慣行は後世の武家制度にも影響を与え、さらにモンゴル帝国による支配システムの基礎ともなったといわれています。
倭国が強国として知られるようになった背景
また、このとき高句麗や百済も倭国への朝貢を約束したと伝えられています。これにより三国すべてが倭国の属国となったとされ、この出来事を「三韓征伐」と呼びます。
神功皇后が示した武の原則
疾風迅雷の進撃と戦わずして勝つ戦術
神功皇后の出兵にまつわる物語には、軍事的な原則が示されています。第一に、敵が準備を整える前に一気に攻め込む「疾風迅雷」の進撃。第二に、戦わずして勝利を収める姿勢です。新羅王が恐れて降伏したという逸話は、この「戦わずして勝つ」戦術の象徴でもあります。
敵の背後を叩く戦略
神功皇后は、国内で反乱を起こしている勢力の背後には外国の支援があると見抜き、その根本を叩くことで問題を解決しようとしました。表面的な敵を攻撃するのではなく、その背後にある原因を断つという戦略は、現代においても通じる考え方です。
皇后という女性が担った役割
さらに重要なのは、この戦略を成し遂げたのが女性であるという点です。世界的には女性は「慈愛」を象徴する存在として描かれることが多いですが、神功皇后はその慈愛を力に変えて国家の武を発揮したとされています。
戦前教育に見る神功皇后の功績
尋常小学読本の記述
戦前の日本では、神功皇后の物語は「尋常小学読本」に取り上げられ、子どもたちが必ず学ぶ題材のひとつでした。そこでは仲哀天皇の崩御後、神功皇后が自ら戦いの指揮を執り、朝鮮半島へと遠征する姿が描かれています。文章は文語体で書かれていましたが、現代語に訳して読んでも、その迫力と説得力は十分に伝わってきます。
尋常小学読本(国定読本第1期) 第18神功皇后
神武天皇よりすこしあとの仲哀天皇の時代、わが国のうちの西の方に悪者どもがいて、たいそう我がままをしていました。
天皇はその皇后の神功皇后と申す御方と、それを攻めにおいでになりました。
ところが戦いのさなかに、敵の矢を受けておかくれになりました。
神功皇后は、
「この悪者どもが
わがままをしておるのは
外国の者が扶(たす)けているからだ。
だからその外国を攻めたら
この悪者どもは
わがままをやめるであろう」
とお思いになりました。
そこで神功皇后は、男装して海を渡り、その外国を攻めにおいでになりました。
すると向かう国では、たいそう畏(おそ)れて、戦(いくさ)もせずに、降参してしまいました。
そして毎年、宝物をさしあげますと約束しました。
皇后は、それを許して、お帰りになりました。
それから西の方の悪者どもは、わがままをしないようになりました。
またわが国の強いことが、前よりもよく外国に知れるようになりました。
当時の小学生に課された問題のレベル
また、当時の小学5年生には、神功皇后に関する問いが試験や自習問題として出題されていました。
たとえば、
- 神功皇后がなぜ新羅を討ったのか、その理由を述べよ
- 三韓が日本の皇威に従ったのはなぜか
- 神功皇后の功績を三つ挙げよ
といった内容です。現代の感覚からすると高度な設問であり、戦前教育の水準の高さに驚かされます。
神功皇后伝説と中国・朝鮮の歴史背景
チャイナの大帝国崩壊と難民問題
神功皇后の物語が伝えられた時代、隣国チャイナのある大陸では秦や漢といった大帝国がすでに存在していました。しかし、それらが崩壊すると長い内乱期に突入し、多くの敗残兵や難民が周辺国に流れ込みました。難民は時に歓迎される存在ですが、中国の難民はむしろ拒まれることが多かったと伝えられています。
移民が歓迎される場合とされない場合
歴史を見れば、移民には歓迎される場合とそうでない場合があります。ブラジルでは日系移民やロシアからの移民が受け入れられましたが、中国の難民は周辺国でしばしば拒否されてきました。これがなぜかという問いは、今も考え続けるべき課題です。物語の中で神功皇后が半島を治めたとされることは、こうした「受け入れられない移民」の存在を背景に理解できるのかもしれません。
半島に押し寄せた人口圧力と倭国の役割
中国の混乱によって大量の移民が朝鮮半島に流れ込むと、半島の国々はその圧力に抗う力を持ちませんでした。しかし、神功皇后の遠征によって倭国が半島を支配下に置いたと伝えられています。このことによって半島の国々は独立を守ることができ、民族の存続が可能になったといわれます。
日本と半島に与えた影響
鉄の武器が守った民族
神功皇后の時代、倭国が鉄の武器を有していたことは大きな力となりました。青銅の武器や防具しか持たない相手に対し、鉄の存在は圧倒的な優位をもたらしました。半島の国々はこの後も存続し、民族としての独立を守ることができたとされます。
隋・唐の「遠交近攻」と三国分立の意味
後世、中国に隋や唐といった強大な国家が成立すると、その外交戦略は「遠交近攻」に基づいて展開されました。もし朝鮮半島が一つの国であれば、日本はその隣国として直接標的にされていたかもしれません。ところが実際には、新羅と百済という二つの国が併存しており、互いに牽制し合う構図が生まれました。この「三国分立」の状況こそが、日本を直接的な侵略の対象から遠ざける要因になったと考えられます。
倭国の立場を守った神功皇后の戦略的価値
こうした複雑な国際関係の中で、神功皇后の出兵伝説は日本の立場を有利にした象徴として語り継がれてきました。この物語がもたらした戦略的な意味は大きく、後の時代にまで影響を及ぼしています。倭国は「強い国」として知られ、結果的に日本は元寇を除いて長く外敵から守られることになったのです。
おわりに|神功皇后は実在しないのか
日本が長く平和を保てた理由
神功皇后の「三韓征伐」という物語は、日本がその後長く外敵から守られた理由のひとつとして語られています。この物語が示す「敵の背後を断つ」「戦わずして勝つ」「女性の力が国家を支える」といった原則は、歴史の教訓として大きな意味を持ち続けました。
「神功皇后 実在しない」と断じるだけでは、この伝承がもたらした文化的・教育的な価値を見落とすことになります。この物語が後世の日本人に与えた影響は計り知れません。神功皇后は歴史上の人物か、それとも象徴的な存在か──その答えを考えること自体が、歴史を学ぶ意義なのかもしれません。
お知らせ
この記事は2022/10/29投稿『神功皇后の三韓征伐の歴史上の意義』のリニューアル版です。
