
はじめに|コンゴの歴史から見える教訓
コンゴという国が長い動乱を終え、ほんとうの意味で平和を取り戻すためには、何が必要なのでしょうか。おそらく多くの人々が口を揃えて言うのは、「それは、コンゴの人々自身の努力にかかっている」という答えではないでしょうか。
けれど、この言葉はそのまま日本にも当てはまります。結局のところ、自分たちの国を自分たちで守ることの大切さは、世界史に刻まれたコンゴの歩みを学ぶことで、より鮮明に浮かび上がってくるのです。
たしかに米国など大国の動きは、これからの日本に大きな影響を与えるでしょう。けれど、外部の影響ばかりを気にしていても仕方がありません。大切なのは「自分がどう生きるのか」、そして国家に置き換えれば「自分たちの国をどう築いていくのか」という点です。
中東からアフリカにかけての諸国は、日本人にとって遠く、なじみの薄い地域かもしれません。しかし、これまでヨーロッパ諸国がどのように介入し、現地で何を行ってきたのかを知ることは重要です。その意味で、1996年以降わずか19年の間に600万人が命を落としたコンゴの歴史は、典型的な事例といえるでしょう。
「ザイール」という国名を聞いたことのある人も多いはずです。これは昭和46年(1971年)、ルワンダの支援を受けた反政府勢力がコンゴで建てた国で、その後も内乱が相次ぎ、平成9年(1997年)には再び「コンゴ」という国名に戻りました。
しかし、もともとコンゴは15世紀末まで「コンゴ王国」として存在し、王のもとに部族が統合され、近隣諸国と交易を行う平和で豊かな国でした。では、なぜ今日に至るまで絶え間ない混乱に巻き込まれてきたのでしょうか。その背景には、植民地支配がもたらした恐ろしさが隠されています。
コンゴとポルトガルの出会い
1482年、西洋人との接触
コンゴに最初に西洋人がやって来たのは1482年のことでした。彼らはポルトガル人です。ちょうど同じ時代、日本にも鉄砲を伝えたことで知られるポルトガル人が訪れています。日本に鉄砲が伝来したのは1543年(1542年説もあり)であり、コンゴにポルトガル人が現れてからわずか60年後のことでした。
国交条約とキリスト教布教の条件
コンゴ王国は、1485年にポルトガル王国と国交を結びました。この条約は「対等な関係」をうたったもので、互いに五分と五分の関係を築くものでした。ただし、一つだけ条件がありました。それが、ポルトガルの宣教師によるキリスト教布教をコンゴが認める、というものでした。
宗教は人々を幸福へと導くもの──そう信じたコンゴは、この条件を喜んで受け入れました。そして1491年には、ローマから宣教師が派遣され、コンゴ国王ジンガ・クウ自身もカトリックに改宗しました。さらに王子であるジンガ・ムペンパをポルトガルへ留学させ、学問を修めさせています。
欧化政策とポルトガル留学
1506年、王子ムペンパが父の後を継いでコンゴ国王に即位しました。彼は積極的な欧化政策を推し進め、ポルトガル人を多く受け入れて国内の近代化を進めました・・・と、ここまでの歩みは、順調に見えます。しかしこの流れの裏側で、静かに侵食が始まっていたのです。
ポルトガル人の宣教師や商人の影に紛れて、奴隷商人たちがコンゴ国内に入り込み始めていました。彼らは後に、コンゴの歴史を大きく変える存在となっていきます。
奴隷商人の台頭とコンゴ社会の変質
奴隷貿易が始まった背景
コンゴ国内に入り込んでいたポルトガルの奴隷商人たちにとっての「商品」は、そこらで捕らえたコンゴの人々、すなわち黒人たちでした。多少の経費はかかるものの、元手はほとんどゼロ。それを高値で売れば、莫大な利益を生むことができました。
当時の感覚で言えば、タダ同然で仕入れた新車が高値で飛ぶように売れるようなものです。この構造によって、奴隷商人たちは瞬く間に巨万の富を手にし、国の政治や経済を牛耳る存在へと変わっていきました。
「元手ゼロで利益を生む」構造
もともとコンゴは貿易を基盤に栄えてきた商業国家でした。そのため、外来の経済システムを受け入れる素地も備えていたのです。しかし、問題は「誰が商売を行うのか」という点にありました。
コンゴの民衆は王国の伝統や共同体意識に基づき、愛国心や郷土愛をもって生活していました。ところが、外国からやって来たポルトガル商人たちにはそうした感覚はありません。彼らの関心はあくまで自分の利益だけでした。そして豊かさを手にした彼らは、正義を装いながら利権を拡大し、社会の中枢に食い込んでいきました。
コンゴ人とポルトガル商人の決定的な違い
こうしていつしか、コンゴ国内で最も大きな影響力を持つのは、奴隷商人とその手下となった一部のコンゴ人たちになっていきました。富と権力を得た彼らは、民衆の生活を顧みることなく、ただ自らの利益のために動きました。
この構造こそが、後に「なぜアフリカ系奴隷を労働力としたのか」という問いに直結するのです。人々をタダで捕らえ、莫大な利益を生む労働力として扱う仕組みが、コンゴの社会そのものを蝕んでいったのです。
なぜアフリカ系奴隷が労働力とされたのか
タダ同然で捕らえられる人々
奴隷商人にとって、アフリカの人々は最も手に入れやすい「商品」でした。網で捕まえられ、家族や仲間から引き離された人々は、そのまま労働力として売りに出されます。元手はほとんどゼロ。それゆえに奴隷は莫大な利益をもたらす資源と化したのです。
外国商人の私利私欲と支配
このようにして得られた富を武器に、ポルトガルの奴隷商人たちはコンゴ国内の政治や経済に食い込み、支配力を強めていきました。彼らにとって重要なのはコンゴの平和や発展ではなく、あくまで自分たちの利益。外からやって来た商人たちは土地や人々に対する愛着を持たず、徹底して私利私欲のために動きました。
奴隷貿易がもたらした社会的崩壊
こうして、奴隷貿易はコンゴの社会に深刻な影響を及ぼしました。人々は日常生活の中で突然拉致され、モノとして売り買いされました。今後の人々が信じていた国王も、最終的には無力化され、国全体が奴隷商人たちの支配下に組み込まれていったのです。
「なぜアフリカ系奴隷を労働力としたのか」という問いへの答えは、この構造にあります。人々をタダで捕らえ、莫大な利益を得る仕組みが、あまりにも効率的であったがゆえに、アフリカの人々は容赦なく労働力として扱われてしまったのです。
1568年の転機|ジャガ族襲来とポルトガル従属
国王の苦悩と援軍要請
奴隷貿易に揺れる中で、コンゴの民衆はついに暴発しました。拉致や人身売買に耐えかね、各地で反乱や暴動が相次いだのです。しかしその頃、コンゴ国王の武力はすでに衰えており、国内の暴動を抑える力は残っていませんでした。
さらに追い打ちをかけるように、1568年にはジャガ族という無法集団が襲来します。彼らは奴隷商人を襲撃し、キリスト教の施設を破壊しました。もはや国王の力だけでは対応できず、国王はやむなく同盟国ポルトガルに軍事支援を要請します。
対等な関係から属国化へ
ポルトガル軍は迅速にジャガ族を鎮圧しました。しかしその「成功」は、コンゴにとって新たな不幸の始まりでもありました。圧倒的な軍事力を持ち、すでにコンゴ国内に拠点を築いていたポルトガルは、ここで関係性の転換を迫ったのです。
それまで「対等な国交相手」であったはずのコンゴは、この瞬間から「従属国」として扱われるようになりました。国王は従わざるを得ず、コンゴ王国の独立性は失われていきます。
無政府状態に陥ったコンゴ
属国化したコンゴは、もはや国としての体をなさなくなりました。名目上は王が存在したものの、実際には奴隷商人たちが王侯貴族のように振る舞い、民衆は極貧の暮らしを強いられる状態となります。
こうして、愛国心や共同体の絆に支えられていたコンゴ王国は、奴隷貿易と外部支配のなかで急速に崩壊していきました。この転機が、後の数百年にわたる混乱の出発点となったのです。
ベルギー支配とゴム産業の地獄
ベルリン会議と「コンゴ自由国」
300年の混乱を経て、1885年に大きな転換が訪れました。ベルリン会議の決定により、コンゴはベルギー国王レオポルド2世の支配下に置かれることになったのです。名目上は「コンゴ独立国」とされましたが、実際にはレオポルド2世の私有地でした。
ベルギー本国の首都ブリュッセルに政府が置かれ、国王自身は一度もコンゴの地を踏むことなく、総督を派遣して統治を行いました。形式的には「独立国」でも、実態は徹底した私物化です。イギリス人たちは皮肉を込めてこれを「コンゴ自由国」と呼びました。
ゴム需要の拡大と過酷な労働
19世紀末、ヨーロッパで自転車用ゴムタイヤが発明され、やがて自動車産業にも応用されると、ゴムの需要は急激に拡大しました。コンゴにはゴムの木が豊富に自生しており、これがベルギーにとって莫大な利益源となります。
ベルギー人たちはコンゴの人々を強制的に働かせ、ゴムの採取を進めました。その結果、20世紀初頭にはコンゴ産のゴムが世界全体の約10%を占めるまでになり、ベルギーは大いに潤いました。
手首が通貨になった異常な支配体制
しかし、その裏で行われていたのは凄惨な現実でした。ノルマを達成できなければ、村の女性や子どもを人質にとり、見せしめとして手首を切断するという残虐な制裁が加えられました。さらに徴用された部族兵たちは、罰の執行や監視役として利用され、時には残虐さを競うように振る舞いました。
やがて「切り落とした手首の数」が任務達成の証拠とされ、昇進や報酬の基準にまでなりました。この異常な仕組みは村人たちを追い込み、他者を殺してでも手首を集めるという狂気の連鎖を生み出しました。こうしてコンゴでは、手首そのものが一種の通貨として扱われるようになっていきました。
ベルギー支配のもとでのゴム産業は、経済的な繁栄と引き換えに、数え切れないほどの命と尊厳を奪っていったのです。
独立とその後も続く動乱
独立の喜びとすぐに訪れた崩壊
1960年、長い植民地支配を経てコンゴはようやく独立を果たしました。国民にとって待ち望んだ瞬間であり、大きな希望に包まれた出来事でした。ところが、その喜びはほんの一瞬で終わりを迎えます。独立からわずか1週間後、国内は再び内乱に突入し、旧宗主国ベルギーの軍が介入。国家としての体制はすぐに崩れ去ってしまいました。
民族対立と冷戦構造の影響
この内乱は単なる国内問題ではありませんでした。独立を推し進めたムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍との対立が表面化し、冷戦構造の縮図のような状態が生まれたのです。さらに国内には複数の民族が存在しており、その利害対立が加わることで、争いはさらに複雑化しました。
いまなお続く資源をめぐる争い
こうして始まった「コンゴ動乱」は、5年間にわたって国を引き裂きました。その後も状況は安定せず、資源をめぐる争いが新たな火種となりました。ゴムに続き、コバルトなどのレアメタルが豊富に採れるコンゴは、電子機器やハイテク産業にとって欠かせない地域となりました。その利権を狙う西欧諸国や周辺国の思惑が絡み合い、現在に至るまで内乱は絶えることがありません。
独立の瞬間に抱かれた希望は、外部勢力の干渉と国内の対立によってかき消され、コンゴは再び動乱の渦に引き込まれていったのです。
日本とコンゴの対比から学ぶこと
日本が奴隷化を免れた理由
16世紀、日本にもポルトガル人がやって来て鉄砲を伝えました。その裏で、火薬の原料である硝石を得るために、日本人女性が奴隷として海外に売られた記録も残っています。状況だけ見れば、日本もコンゴと同じ道を歩んでもおかしくありませんでした。
しかし日本は異なる選択をしました。鉄砲という新しい兵器を素早く吸収し、自国で大量に生産できる体制を築いたのです。秀吉の時代には世界の半数近い鉄砲を保有するまでに成長し、さらに奴隷売買とキリスト教布教を禁止しました。そのため、日本人が大量に奴隷化される事態は防がれたのです。
武力と自立の重要性
コンゴがポルトガルに従属していった背景には、自前の軍事力を失っていたという現実があります。もし当時、国王が強力な軍隊を保持していれば、奴隷商人の跋扈も、ジャガ族の襲来も、防げたかもしれません。逆に武力を欠いたことで、外部の介入を許し、国家は崩壊へと追い込まれました。
日本は逆に、外からの圧力を学び、吸収し、それを超える力を築くことで独立を守ってきました。幕末には不平等条約を結ばされながらも、明治時代には欧米列強と肩を並べる国力を獲得し、条約改正を実現したのです。
平和を守るための条件
「なぜアフリカ系奴隷を労働力としたのか」という問いは、単なる歴史の出来事にとどまりません。それは「力を持たない国や人々は、外からの欲望の犠牲になる」という厳しい現実を示しています。
自らの力で自国を守り、自立を続けること。それがなければ、いかなる国も、いかに立派な理想を掲げようとも、容易に支配され、搾取されてしまうのです。
おわりに|なぜ「自立自存」が必要なのか
奴隷労働の歴史が示す真実
コンゴの歴史を振り返ると、「なぜアフリカ系奴隷を労働力としたのか」という問いの答えは明らかです。外部からの力に依存し、自らを守る力を失った国は、容易に支配され、人々は商品として扱われるようになってしまうのです。奴隷とは、単に労働力を補う存在ではなく、他国の欲望を満たすための「資源」と化してしまったのです。
現代日本への警鐘
現在の日本は、自衛隊を持ちながら「専守防衛」を掲げ、相手からの不条理に抵抗しない姿勢をとっています。これはまるで、かつてポルトガルに従属したコンゴの姿を思わせます。力なき正義は正義になりえず、むしろ国民を不幸に導いてしまうのです。
歴史が教えることは明快です。どれほど立派な理念や憲法を掲げても、自らを守る力がなければ国家は独立を保てません。
自立自存こそ平和の条件
支配されるということは、いかなる場合も国民の幸福につながりません。唯一の道は、自立し、自存すること。日本が過去に奴隷化を免れたのも、先人たちが学び、努力を重ね、自国の力を築いたからです。
だからこそ、いま私たちが平和に暮らせるのは、その歴史的な努力の積み重ねの結果に他なりません。この現実を忘れずに、未来へと引き継いでいく必要があるのです。
お知らせ
この記事は2022/01/15投稿『コンゴの歴史に学ぶ』のリニューアル版です。
