真珠湾攻撃は日本の失策として語られる一方、米国では「卑劣な奇襲」と描かれ続けてきました。しかしこの開戦には、石油問題だけでは見えてこない“もうひとつの理由”がありました。有色人種として初めて欧米列強に正面から挑んだ国・日本。そして、太平洋の島々に暮らす「日本人」を守らねばならないという切実な国家的課題──その背景をあらためて読み解きながら、歴史の本質である「もし自分なら」を問う旅へご案内します。

12月8日は、真珠湾攻撃が行われた日です。
今回は、真珠湾攻撃がもたらした意味を、従来あまり語られてこなかったもうひとつの視点とともに整理してみたいと思います。
昭和16(1941)年12月8日、日本はハワイ・オアフ島の米軍基地に対し、航空隊と特殊潜航艇による攻撃を実施しました。
真珠湾攻撃は、日本国内では長く「帝国海軍の華々しい戦果」とされ、映画化もされてきました。
一方、米国側の映像作品では、これを「卑劣な奇襲」と描き続けています。
また戦後の旧陸軍関係者の間では、
「南方の石油を確保する戦争だったのに、
海軍が勝手にハワイまで戦線を拡大したから日本は敗れた」
という批判も語られ続けてきました。
近年に至っても、日本の真珠湾攻撃を「馬鹿げた行為」と断じる識者は少なくありません。
しかし──
日本の開戦目的は、石油だけではありませんでした。
そこには、
• 「人種差別への挑戦」
• 「日本の一部である太平洋の島々をどう護るのか」
という、当時の日本にとって切実な課題があったのです。
■「人類の序列」に挑んだ国、日本
当時の国際社会は白人至上主義が支配していました。
有色人種は「猿」と呼ばれ、人間として扱われない時代です。
その国際秩序の中で、日本は例外的に、
「有色人種国として、
世界で唯一、
欧米列強と肩を並べる力を持った国家」
でした。
日本人が戦った理由には、
「自分たちは猿ではなく、人間なのだ」という、
いわば「人間の証明」ともいえる根源的な動機があったのです。
当時の日本における徴兵検査の甲種合格者というのは、いまでも同じクラスに一人いるかどうかというレベルです。
成績優秀、健康優良児、性格良好、運動神経抜群──まさに「とてつもなく良い子」です。
父母や祖父母からしたら、目に入れても痛くない、かけがえのない我が子です。
では、どうして当時の女たちは、その優秀な子を戦地に送り出したのか。
それは、我が子や孫たちが未来永劫「劣った猿」として扱われないようにするためでした。
だからこそ、女たちは「人間としての尊厳」を賭けた戦いに、我が子を送り出したのです。
女たちもまた涙をこらえて、甲種合格の優秀な息子たちを戦地へと送り出しました。
この側面を語らずして、真珠湾攻撃の意味は本当に理解できないと私は思います。
■太平洋の島々も「日本の一部」だった
日本は第一次世界大戦後、国際連盟から委任統治領として太平洋の島々(パラオ、サイパン、テニアン等)を管理することを認められました。
それらの島々の住民は、当時は公式に「日本人」でした。
パラオの小学生は、帝国全体の学力テストで1位をとるほどでした。
彼らには、日本国内と同じ高いレベルの教育が施されていました。
これは、欧米諸国のいわゆる植民地支配では、まず考えられないことです。
つまり当時の日本にとって、
• 太平洋の島々は護るべき「領土」であり、
• そこに暮らす人々は護るべき「国民」であった
ということです。
だからこそ、日本にとって米国との戦争が現実のものとなったとき、
「太平洋の島々をどう守るか」は、避けて通れない国家的課題になったのです。
■石油確保は直接のきっかけに過ぎない
もちろん、日本の開戦の引き金は南方資源の確保にありました。
米国による禁油措置によって、日本は1〜2年分の備蓄しか残されず、このままでは国家運営すら不可能になる状況でした。
そこで目を向けたのが、ナチスドイツに本国が占領され、「無主地」となっていたオランダ領インドネシア(インドシナ)の石油資源です。
しかし──
問題は、石油を日本まで運ぶためのシーレーンでした。
その航路は必ずフィリピン沖を通ります。
そして当時のフィリピンは「米国領」、つまり米国そのものでした。
もし日本のタンカーがフィリピン沖で撃沈されれば、それだけで戦争継続は不可能になります。
逆に、シーレーン確保のためにフィリピンの米軍基地を叩いた瞬間、米国の中立は完全に破れ、日米は戦争状態に入ります。
つまり、
資源確保と米国との開戦は、切り離せない問題だったのです。
■では真珠湾攻撃は本当に「余計な戦線拡大」だったのか?
旧陸軍関係者の一部からは、いまでも、
「石油確保だけに戦線を絞っていれば勝てた」
との主張があります。
近年に至っても、日本の真珠湾攻撃を「馬鹿げた行為」と非難する識者もいます。
しかし、この見方には重大な欠落があります。
もしフィリピンを叩いた瞬間に日米戦争が避けられないのであれば、
太平洋の島々(日本の国土)が米軍の反撃を受けるのも時間の問題です。
アメリカ太平洋艦隊を無傷のまま放置すれば、
その艦隊は真っ先に日本委任統治領を攻撃し、島の原住民としての日本人が殺されていきます。
ゆえに、当時の日本の軍事計画としては、
「フィリピン攻撃」と「真珠湾攻撃」は
セットでなければ成立しなかった
というのが実情でした。
ハワイの真珠湾への攻撃は、「海軍の暴走」でも「余計な冒険」でもありません。
太平洋の日本人を守るための戦略的行動でもあったのです。
■黒人社会が真珠湾攻撃を称賛した理由
戦後、真珠湾攻撃隊指揮官・淵田美津雄元海軍大佐のもとに、米軍黒人兵たちが押しかけ歓待した、という有名なエピソードがあります。
彼らは口々にこう言ったといいます。
「真珠湾攻撃を一番喜んだのは、われわれ黒人だ」
黒人兵は白人兵の盾として最前線に立たされ、
「白人を守るために、有色人種と戦わされて死んでいく」
という理不尽な扱いを受けていました。
たとえば南方の島々の前線でも、ジャングルの中を先に進まされるのは黒人兵でした。
日本から見れば、彼らは敵兵です。
日本側が彼らに発砲すれば、その様子を双眼鏡で見ていた白人兵が無線で艦隊に呼びかけ、その発砲地点に艦砲射撃を浴びせます。
こうしたことは、当時の米軍において日常的に行われていた行動でした。
米国の黒人兵たちは、そんな状況下だからこそ、
「白人に反旗を翻した有色人種国家・日本」に深い敬意を抱いたのです。
人種差別の構造を揺るがしたという点において、
真珠湾攻撃は、当時の世界に大きな衝撃を与えた事件でもあったのです。
■歴史は「評価する」ものではない。「もし自分なら」を考える学問だ
歴史とは、
「なぜそうなったのか」を事実に基づいて時系列で物語として理解することです。
そして、その物語の中で、
「もし自分がその立場なら、どう判断したか」
を考えることで、未来をより良くする智慧を学ぶ学問です。
もしあなたが日本の作戦参謀だったら──
• 石油確保のためにフィリピンを叩く必要性を、どう判断したでしょうか?
• 太平洋の島々に住む日本の民を、どう守ろうとしたでしょうか?
• 真珠湾攻撃なしで、本当に米国に勝てたのでしょうか?
• もし真珠湾攻撃がなければ、日本とアジアの未来はどのように変わったでしょうか?
過去の歴史そのものを変えることはできません。
けれど私たちは、歴史を学ぶことで、「未来の選び方」を変えることができます。
それが、「歴史を学ぶ」ということではないでしょうか。
【所感】
歴史の判断はいつも「その時代に生きた人々の痛みと覚悟」を踏まえなければ見えてきません。
真珠湾攻撃の意味を考えることは、過去を正当化するためではなく、
私たちがこれから「どのように尊厳を守り、未来を選ぶのか」を見つめ直す作業だと思っています。
歴史は過ぎ去った物語ではなく、いまを照らす光でもあります。
私たちは、先人たちが問い続けた「人間としての尊厳」を、どのように未来へつないでいけるのか──
その問いを胸に、これからも学びを深めていきたいと思います。
◆英語版 https://bushido.hjrc.jp/818-2/


