『古事記』の冒頭に登場する造化三神は、「独神」として成られ、「隠身」されたと記されています。では、神々はいったいどこへ隠れたのでしょうか。「身を隠した」ではなく、「身に隠した」と読んでみたら――。そこから見えてきたのは、私たちが神々の外側ではなく、大きな「いのち」の内側に抱かれて生きているのかもしれない、という壮大な世界像でした。

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【今日のひとこと】私の命は、本当に「私だけのもの」なのだろうか。
以前、この「今日のひとこと」で、『古事記』の冒頭に登場する三柱の神々についてご紹介しました。
天地(あめつち)のはじめ、高天原に最初に成られた神様は、
天之御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)。
次に、高御産巣日神(たかみのむすひかみ)。
そして、神産巣日神(かみのむすひかみ)。
この三柱を、『古事記』では「造化三神」と呼びます。
前回は、ここから「むすひ」という言葉に注目しました。
世界のはじまりに、「産巣日(むすひ)」の神々が登場する。
何もなかったところから、何かが「生まれる」。
異なるものが結ばれ、そこから新しいものが生まれていく。
『古事記』は、そのような世界観を冒頭に置いているのではないか、というお話でした。
ところが、そのすぐあとに、とても不思議な文章が続きます。
此三柱神者
並独神成坐而
隠身也
七五調で読むと、
このみはしらの かみがみは
ひとりかみにて なられまし
みにおかくしに なりませる
となります。
現代語にすれば、「この三柱の神様は、それぞれ独神としてお成りになられ、身にお隠しになられました」という意味になります。
ここには、たいへん興味深い三つの言葉があります。
「独神」、「神成」、「隠身」の3つです。
まず、「独神」とは何でしょうか。
一般には、男女一対で現れる神ではなく、単独で成られた神、と理解されています。
私はここを、もう一歩踏み込んで、
「まだ男女という性別に分かれていない神」と読んでみたいと思っています。
なぜなら、『古事記』では、このあと物語が進むにつれて、男女一対の神々が登場するようになるからです。
けれど、世界の最初に成られた神々には、まだ男も女もない。
男と女に分かれる以前の、いわば生命そのものとしての存在です。
そして、次に出てくるのが、「隠身」という言葉です。
これが、実におもしろい。
一般には、「身を隠した」と読まれています。
つまり、神様はお姿を現したあと、すぐに姿をお隠しになった、というわけです。
けれど、ここで少し立ち止まってみたいのです。
天地のはじめです。
まだ、何もない。
そこに神様が成られた。
その神様が、すぐに「身を隠した」。
では、いったいどこへ隠れたのでしょうか。
押し入れもありません(笑)。
山もありません。
森もありません。
建物もありません。
そもそも、神様以外には、隠れる「場所」そのものがないのです。
ここで、古典のおもしろさが出てきます。
古典には、ときどき、「ん?」と思うところがあります。
話が合わない、意味が通らない、どうして、わざわざこんなことを書いたのだろう?
そういうところに出会ったとき、私は、それを単なる矛盾として片づけないようにしています。
むしろ古典の向こうから、「お前たち、ここをどう読む?」と問いかけられているように感じるからです。
答えが書いてあるのではない。
「問い」が置いてある。
だから、考える。
それが古典を読む楽しさのひとつなのだと思います。
そこで私は、この「隠身」を、
「身“を”隠した」
ではなく、
「身“に”隠した」
と読んでみました。
すると、まったく違った景色が見えてきます。
「隠」という字には、大切なものを覆い、外から見えないようにするという意味があります。
では、「身」はどうでしょう。
「身」は、人の身体を表す古い象形から生まれた文字です。
古い字形を眺めていると、身体の中心に何かを抱えているようにも見えます。
もし、この「身」を、何か大切なものを内側に抱いた身体として眺めてみたらどうでしょう。
そして、造化三神は「独神」です。
まだ男でも女でもない。
その神々が成られると、その「身」に何かを隠した。
では、何を隠したのでしょうか。
ここからは、私なりの『古事記』の読みです。
私は、そこに、「胎児」という観測点を置いてみたいのです。
つまり、神様が世界から姿を消したのではない。
逆です。
世界のほうが、神様の「身」の内側に入った。
そう読んでみるのです。
天之御中主神が成られ、その御存在の内側に世界を抱かれた。
その世界の中に、高御産巣日神が成られ、その神もまた世界をその身に抱かれた。
さらに神産巣日神が成られ、その御身の内側に世界を抱かれた。
そう考えてみると、「隠身」は、
神が世界からいなくなったという言葉ではなく、
世界が神の内側に抱かれた、という、とてつもなく壮大な言葉に見えてきます。
そして興味深いことに、『古事記』冒頭の創世神は、造化三神だけではありません。
天之御中主神
高御産巣日神
神産巣日神
に続いて、
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
が登場します。
都合、七柱です。
そして、これらの神々について、『古事記』は繰り返し「隠身」と記しています。
短い創世の記述のなかに、同じ「隠身」という表現が何度も置かれているのです。
少なくとも、これを単なる付け足しとして読み飛ばしてよいとは、私には思えません。
ではなぜ、『古事記』は繰り返し「隠身」と書いたのか。
ここには何か、大切なことが置かれているのではないか。
そんな問いが生まれます。
現代物理学には、私たちが日常的に認識する空間と時間より多くの次元を仮定する理論があります。
たとえば超弦理論やM理論では、私たちが直接認識できない余剰次元を含むモデルが研究されてきました。
もちろん、古事記の七柱の神々と現代物理学の次元論を直接結びつける学術的根拠があるわけではありません。
けれど、「私たちが見ている世界だけが、世界のすべてではない」という観測点に立ってみると、古代の人々が残した世界観と、現代科学が問いかけている世界像とが、どこかで響き合って見えることがあります。
それもまた、古典を読む楽しみなのだと思います。
さて・・・。
もし「隠身」を、世界が神々の身の内側に抱かれたと読んだら、さらにおもしろいことが見えてきます。
私たちの世界は、七柱の創世神によって、幾重にも抱かれていることになります。
つまり私たちは、
神々の外側にいるのではない。
神々の「いのち」の内側にいる。
という世界像です。
ここで、人間の身体を考えてみます。
私たちの身体は、膨大な数の細胞からできています。
ひとつひとつの細胞には、それぞれの働きがあります。
筋肉の細胞は筋肉として働き、
神経の細胞は情報を伝え、
血液の細胞は酸素や栄養を運ぶ。
どの細胞も、身体全体との関係のなかで働いています。
つまり細胞は、
「自分だけ」では存在していない。
全体とのRelationのなかで、自分の役割を果たしているのです。
ところが、そのなかのひとつの細胞が、
「そんなもの知ったことか」と言い出したらどうなるでしょう。
「オイラはオイラだけ増えればいい」
「周りのことなんて関係ない」
「栄養は全部こっちへよこせ」
そうして身体全体との関係を失い、自分だけを増殖させはじめる。
そのような細胞のことを、私たちは何と呼ぶのでしょうか。
そう。ガン細胞です。
ここに、とても大きな問いがあります。
もし私たち一人ひとりが、この世界という大きな「いのち」の内側にある存在なのだとしたら。
人だけが、
「いまだけ、カネだけ、自分だけ」で生きることは、本当に自由と呼べるものなのでしょうか。
自分だけ豊かになればいい。
自分の会社だけ儲かればいい。
自分の国だけよければいい。
自分の世代だけ楽しければいい。
未来のことなど知らない。
そういう生き方は、一見すると「自立」のように見えるかもしれません。
けれど、それは本当に自立なのでしょうか。
身体全体とのRelationを失い、自分だけの増殖を始めた細胞は、最後には、その身体そのものを傷つけます。
そして身体が失われれば、その細胞自身も生きてはいけません。
だから私は、『古事記』の「隠身」という二文字から、こんな問いを受け取るのです。
「私の命は、本当に「私だけのもの」なのだろうか。」
私たちは、ひとりで生まれてきたわけではありません。
空気を吸い、水を飲み、大地から生まれたものを食べ、
誰かに育てられ、誰かがつくった家に住み、誰かがつくった道を歩き、
先人たちが残した言葉や文化を受け取りながら生きています。
そして私たち自身もまた、何かを次の世代へ渡していきます。
そう考えれば、「私」という存在は、決して世界から切り離された点ではありません。
無数のRelationのなかに置かれた、ひとつの命です。
そして、そのRelationをさらに大きく、大きくたどっていった先に、
世界そのものを、その身に抱いている大きな「いのち」があるのだとしたら・・・。
私たちが誰かを大切にすること。
自然を大切にすること。
未来の人々のことを考えること。
自分に与えられた役割を果たすこと。
それらはすべて、別々の話ではなくなります。
大きな「いのち」の内側で、
いのちが、いのちを大切にしている。
ということになるからです。
『古事記』は、答えを押しつけてくる本ではありません。
二文字だけ置いて、
「隠身」
と書く。
そして千三百年後の私たちに問いかけてくるのです。
「神々は、どこへ隠れたのでしょうか?」
もしかすると、神々はどこにも行っていないのかもしれません。
私たちが、その内側にいるから、見えないだけなのかもしれない。
もしこの読みが許されるなら、「隠身」は「神様がいなくなった」という話ではなくて、
むしろ逆に、最初から最後まで、ずっと私たちは抱かれている。
しかも一重じゃなくて、幾重にも。
その中で、私たちは生まれ、誰かと出会い、
笑ったり、間違えたり、苦しんだり、誰かを助けたりしながら、やがて死んでいきます。
それはまるで、細胞のひとつの一生みたいです。
でも、細胞が死んだからといって、その細胞が生きていたことが無意味になるわけではありません。
その働きがあったから、全体の「いのち」が次へつながっていきます。
そう考えると、
「私の命は、本当に『私だけのもの』なのだろうか。」
という今日のひとことの「問い」が、急にものすごく深くなるように思えるのです。
『古事記』はその冒頭で私たちに、
「自分を犠牲にしなさい」とは言っていない。
「役に立つ人間になりなさい」とも言っていない。
むしろ、
「君たちが今日ここに生きていること自体が、
すでに大きな「いのち」の営みの一部なんだよ」
と教えてくれているように思えるのです。
だとしたら――。
今日という一日を生きる、私の命も、
決して「私だけのもの」じゃない。
大きな「いのち」から預かって、誰かと結ばれ、未来へと手渡していく、
かけがえのない「いのち」です。
ーー今日もよい一日を♪
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