民主主義は本当に正義なのか?その出自や構造に潜む「対立と排除の論理」、そして暴走する“正義”。西洋と日本の文化の違いを通じて、日本が未来に示すべき“話し合い”の智慧について語ります。

◉ 民主主義は“正義”なのか?──その出自にある「対立」の構造

本動画では、まず「民主主義=正義」という通念に対して疑問を呈します。
そもそも民主主義の起源は古代ギリシャにありましたが、当時の制度は「市民(人口の1%)」のためのものにすぎず、残る99%は奴隷や非市民という構造でした。
つまり「デモクラシー」は万人のための制度ではなく、むしろ「ごく一部の者による支配構造」だったのです。

また、「議論(ディスカッション)」の語源はラテン語のdiscutere──“打ち砕く”という意味。つまり、西洋における議論とは、相手を論破して勝ち負けを決する“戦い”です。
そのような構造の上に立つ民主主義では、多数決が最終的に一人の意見しか残さず、他者の考えを切り捨てる仕組みになっています。

現代においてもこの「多数決による正義の決定」は、実際には強者の意見が通り、民意が十分に反映されていないのではないかという指摘があります。
選挙の不透明性、メディアによる世論誘導、さらにSNS時代の炎上文化は、民主主義が“悪を叩く快感”に堕している側面を映し出しています。

◉ 善悪を切り分ける時代の終焉──「正義の暴走」がもたらす分断

民主主義の限界は、実際の政治運営にも現れています。
議会では建設的な話し合いよりも、互いを否定し合う応酬ばかりが続き、議論は平行線。
結局は多数決により一方の意見が「正義」とされ、他方は無視されます。
この構造では、問題の本質に迫ることができず、改善のための“話し合い”が成立しません。

この「正義の暴走」は、現代の国際政治にも及んでいます。
イラク戦争やリビア内戦は、“民主化”の名の下に行われましたが、その結果は多くの命と秩序の崩壊を招きました。
つまり、「正義」を掲げて始まったはずの行動が、実際には破壊を引き起こしているのです。

また、リベラルという思想も、実際には“新たな同調圧力”となり、異なる意見を持つ人々への排除や攻撃を生んでいます。
SNS上の炎上や吊し上げも、その延長線上にあります。
これが果たして本当に「自由」や「民意」に基づくものなのでしょうか。

◉ 日本の選択──“和”の精神が未来のモデルになる

こうした現代の混乱に対し、日本が世界に示すことのできる価値観があります。
それは、「話し合い」と「和」による合意形成の文化です。

日本では、古来より「僉議」「評議」「寄合」など、話を合わせて方向性を整える文化がありました。
稲作を通じた助け合いの伝統が、日取りの調整や共同作業の習慣にまで影響し、
「意見が違って当たり前、だからこそ合わせていこう」という考え方が根付いてきました。

これは、正義を決めるために“戦う”民主主義とは異なり、
「異なる意見を尊重しつつ、よりよい折衷点を見つける」方法です。
そしてこの「和の精神」こそが、現代世界が求める調和のモデルとなり得るのです。

「令和」という元号も「美しく和する」という意味を持ち、こうした文化の本質を象徴しています。
絶対正義を掲げて相手を打ち砕くのではなく、互いの立場や事情を理解しながら、共によりよい社会をつくる――日本の知恵がいま、あらためて世界に必要とされているのです。

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