議論は左右の対決によって深まるといわれています。
ですから近世以降の国会には与野党があるし、米国などはそのために二大政党制を敷いています。
日本の国会にも衆参両院があり、米国にも上院下院があります。
要するに多様な意見を、最終的に賛成と反対、実行するしないなど、2つの意見に集約し、これを取りまとめて最後に採決をして、意思決定するというのが議会制民主主義です。
こうした現代の政治体制から過去の日本を連想し、日本の社会のすべてをChina譲りの「陰陽二択社会」と定義されている研究者の先生もおいでになります。
この影響は戦前の古事記の解釈などにも影響していて、たとえば古事記の創生の神である、
・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
・神産巣日神 (かみむすひのかみ)
の三神は、
「チャイナの陰陽二元論が元であり、
もともとは高御産巣日神と神産巣日神の二神だったものを、
あとから道教の影響を受けて天之御中主神が追加され、
造化三神とされたのだ」
という解釈を述べている本もあります。
しかしその解釈は間違っていると思います。
なぜなら根本的に、日本文明はチャイナ渡来ではないからです。
日本文明は、中華文明の派生文明や、中華文明を太陽とする衛生文明でもありません。
世界には、そのような派生文明、衛生文明を持つ国が多々あることは事実ですが、日本はその範疇に入りません。
日本は独自の日本文明を持ち、その日本文明の土台の上に、チャイナや天竺(インドのこと)など、世界中の様々な国や民族が持つ素晴らしい文明文化を取り入れ、工夫を凝らすことにより、より民衆を大切に育む文明を高めてきたのです。
日本の文化は、もともと一字一音一義の文化です。
日本語は50音によって構成されていますが、その50音のことを、我々は「かな」と呼びます。
「か」というのは、最強の力のことを意味します。
「な」は、核となる重要なものです。
ですからこれを漢字で書けば「かな」は「神名(かな)」となります。
一音ごとに神が宿るのです。
最初の創生の神様は、何もない空間に登場された神様です。
これは、何もないところにその「身」が現れたということです。
我が国の数詞は「ひ、ふ、み」です。
何もないということは、すべてがあるということと同義で、これを「霊(ひ)」と言います。
その「霊(ひ)」から生まれることを「生(ふ)」と言います。
そして生まれたものが「身(み)」です。
ですから神々がそのご存在を表せられたなら、その身(み)は三つなければならないのです。
だから最初の神様が三神なのです。
そしてものごとは、三つが一組になることで安定します。
一では独裁。
ニでは対立。
三ではじめてバランスが取れるのです。
じゃんけんと同じです。
グーとパーだけなら、勝った負けたの議論にしかならないのです。
しかしそこにチョキが加わることで、補完関係が生まれます。
ですから日本古来の政治体制は、必ず三者体制となっています。
、二者の対立闘争ではなく、じゃんけんぽんと同じ三者関係で対立や闘争がないような社会を営んできたし、そのような関係を大切にしてきたのです。
つまり三者関係です。
政治は意思決定が必要な分野です。
当然そこでは、採用するかしないかの二者択一が求められます。
しかしニ者だけでは対立関係になってしまいます。
そこで左右のバランスをとる仲介者が必要になります。
たとえば我が国の古代律令体制では、天皇直下に「太政官、神祇官、弾正台」という三つの役所が置かれています。
「太政官」は、政治の中央意思決定機関です。
「神祇官」は、全国の神社のネットワークを利用して、中央の意思決定事項を全国に示達し、また全国の意見を吸い上げて天皇に上奏する機関です。
「弾正台」は、太政官、神祇官に不正や私欲があるかをチェックする機関です。もしあれば問答無用で政府高官を斬り殺す権限が与えられていました。
この機構は、現代の三権分立とは異なります。
現代の三権分立は19世紀に西洋で生まれたもので、国家権力を立法、行政、司法の三つでチェックしようというものです。
国には国家最高権力者としての国王もしくは大統領があり、その権限を立法行政司法の三権で制限しようとしたのです。
戦後日本の三権分立もこれを裏返したもので、日本の統治を占領軍であるGHQが行うに際して、日本側の受け皿として作られたものが立法行政司法の三権です。
ですから、もともと戦後日本の三権は、上に最高意思決定機関であるGHQを頂くことが前提の機構であって、逆に言えば、GHQが無くなれば、何もできない仕組みです。
戦後の日本は、GHQの補助を得て、軍事大国から経済大国へと舵を切っていますが、これが高度成長経済に至ったのは、GHQがいなくなって政治の三権が何もできなくなったからです。
政治の三権が、何もしない、何もできなかったから、民間が成長したのです。
実に簡単な歴史です。
戦前は、1ドルが1円でした。
当時は、1円は100銭でしたから、わかりやすくいうなら、戦前は1ドル100円だったということです。
これをGHQは、強制的に1ドル360円としました。
つまりアメリカ人は、日本では、1ドルで360円分の買い物ができたわけです。
もっと噛み砕いて言うと、日本で360円で売られている商品が、海を渡ったアメリカでは100円で買うことができたのです。
いま、新型プリウスが360万円くらい(型式による)ですが、日本で360万円で売られているプリウスが、アメリカでなら100万円で変えたのです。
これで輸出産業が伸びなかったら、逆におかしいです。
日本は、こうして戦後、輸出産業が急成長したし、それによって外貨を稼ぎ、食材から住宅資材まで、それまで国内でまかなっていた様々なものを海外から買うことができるようになっていきました。
よく、日本の高度成長経済は、池田勇人内閣の所得倍増計画に依ると言われますが、日本経済の成長は日本政府の主導で行われものではありません。
GHQの1ドル360円という固定相場のもとで発展したものです。
これが昭和46年のニクソンショックで、1ドル240円になると、我が国のそれまでの基幹産業であった造船、鉄鋼、繊維産業はいきなり大打撃を受けて沈没。
さらに昭和60年のプラザ合意で1ドルが200円になると、家電産業が沈没しています。
つまり戦後の日本政府が果たした役割は、ひとことでいうなら、民間が稼いだ富を、まるごと外国に売り渡してきただけのものでしかない、と言っても過言ではありません。
なぜそうなるのかの答えも、実にシンプルです。
戦後の日本政府は三権分立といいながら、その実、三すくみ政府であって、政府だけでは何もできない。
結果、いまはもうないGHQの役割をアメリカに頼むしかなく、そのアメリカが好景気で成長している間は良かったけれど、アメリカが不況になれば、いまの日本はアメリカ政府の、単なるATM(現金自動引出機)になっているだけというのが実態です。
要するにいまの日本では、政治の三権が、何もしない、何もできないときには民間経済が成長するけれど、政治が何かしようとした途端、外国の影響を受けて、日本経済が大打撃を受ける。
そういう仕組になっているわけです。
どうしてそうなるかといえば、そもそも三権分立で、リーダー(つまり王や大統領)不在だからです。
これに対し、我が国の古代の律令体制は、成立が645年の大化の改新で、廃止が明治18年です。
なんと1240年も続いた政治体制です。
これは世界最長記録です。
もちろん律令体制の中身は、貴族政治の時代から武家政治の時代へと変遷しましたが、武家政治といっても、将軍はそもそも左大臣か右大臣です。
秀吉に至っては関白太政大臣です。
要するに律令体制は維持されていたのです。
ちなみに律令体制というと、これまた唐の国の制度に倣(なら)った、つまり唐の制度を模倣したと言われますが、それも違います。
当時の唐は、我が国から見たとき、強大な軍事大国であり、その軍事圧力は周辺国に及んでいました。
つまり我が国は、自存自衛のために、唐の軍事力に対抗できる体制を気づく必要に迫られていたわけです。
それまでの日本は、全国の豪族たちのゆるやかな結合体です。
その豪族たちは、もともとのルーツをたどれば、全部、親戚関係にあります。
つまりそれまでの日本は、親戚どうして仲良くやっているだけの国であったわけです。
けれど、戦いに備えなければならない。
そこで平等で対等な親戚同士という関係から、中央集権型の国家体制にしなければならないという事態となり、各国の制度をいろいろと研究して構築されたのが、古代律令体制であったわけです。
日本における律令体制が、唐の国の律令体制をただ模倣しただけではないということは、当時の唐の体制をみたらわかります。
唐で、皇帝直下に置かれた役所は、中書省、門下省、尚書省で、これを三省といいます。
中書省は、国政の発案
門下省は、発案された国政の審議
尚書省は、審議された結果の国政の実行を担う機関です。
そしてその三つの機関は、すべて皇帝の権力のために存在します。
唐の体制
これに対し我が国の律令体制は、
天皇が民衆を「おほみたから」とする。
その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように、天皇直下に太政官、神祇官、弾正台を置くという体制です。
つまり唐の体制とは、ぜんぜん別な仕組みです。
そのどこがどう「唐の体制を模倣した」ことになるのか、実に不思議です。
太政官、神祇官、弾正台の仕分けは、
太政官は、政策の企画、審議、管理を担います。
神祇官は、その政策の全国への示達を行います。
弾正台は、そこに不正がないことをチェックします。
つまり、唐の体制とは全然異なります。
太政官の中が唐の体制と似ているのではないかと思う方がおいでかもしれませんが、これまた全然違う構造です。
太政官のトップは太政大臣です。
その下に左大臣、右大臣がいます。
この三人の下に、大納言と少納言がいます。
そして大納言の下に、左弁官、右弁官があり、それぞれの省庁がその下に置かれています。(トップの図)
図を見たらわかりますが、
唐の国の体制は、すべて皇帝の独裁のための組織です。
これに対し、
我が国の体制は、すべて天皇の「おほみたから」である民衆のための組織です。
だから唐は289年で滅んだけれど、日本の律令体制は1240年も続いたのです。
日本は4万年前の磨製石器の時代からの神語りを語り継ぎ、1万7千年前には縄文文明を築き、7千年前には縄文文明が世界に影響を与え、3千年前には農耕に鉄器を用いるようになった国です。
日本における律令体制は7世紀に成立しますが、その後およそ1400年、日本はその基本体制を保持しています。このことは掛け値なしに世界最古です。
これだけ長期間生き延びた体制というのは、もっと研究され、尊重され、学び直されて良いものです。民主主義や共産主義などは、世界に広がったとはいえ、まだたった300年にも満たないのです。
我々日本人は、いつまでも戦後体制の呪縛に縛られるのではなく、こうした歴史の事実を踏まえて、まったく新しい日本式の政治体制を構築すべきであると思います。
その意味で憲法議論もまた、日本の原点を踏まえて、ゼロベースで考えていかなければならないものであると思います。