ハリウッドでは、もう何年も前から、
「世界的ヒットを飛ばしたいなら、日本の文化に学べ」
が合言葉になっているのだそうです。
日本的テイストを映画に取り込むと、その映画は必ず世界的なヒットに結びつくというのです。

近年なら『アベンジャーズ・シリーズ』もそのひとつです。
もともとは登場するヒーローたちは、それぞれ独立したヒーローです。
ところが『アベンジャーズ』では、その独立したヒーローたちが勢揃いして力を合わせて強大な敵に立ち向かいました。

ヒーロー個人が何もかも持っているのではなくて、それぞれに特別な才能がありながらも欠点だらけのヒーローたちが、互いに力を出し合い、協力しあう。
そうすることでより強大な敵と戦い、たとえ一度や二度敗れても、そこからまたはいあがって、敵を倒していきます。
『ジャスティス・リーグ』も同じです。
『トランスフォーマー』も同じです。

何年か前に大ヒットした『アバター』も、そこに描かれた世界観は、日本神話の世界であったとされています。
『アリータ・バトルエンジェル』も、日本の漫画をそのまま映像化したものです。
Disnyの『モアナと伝説の海』で描かれた古代の姿もまた、日本の縄文時代がモチーフといわれています。

一方、そうした日本文化に学び、日本文化のテイストを入れると、世界的大ヒット映画になるという謳い文句から、ハリウッドには日本人のような顔をしていて日本人のふりをする、日本国籍を持っているけれども日本人でない人たちもずいぶん入り込んで、ハリウッドの人たちが騙されるケースもあります。

『フォーティーセブン・ローニン』は、赤穂浪士をモチーフにしましたが、途中で怪獣まででてきます。
日本の怪獣とサムライを合体させ、日本人が赤穂浪士が好きだからと、これもまた合体させ、日本人のような顔をしていて日本人のふりをする、日本国籍を持っているけれども日本人でない人たちが「これが日本文化です!」とやったわけです。
近年にない駄作と呼ばれる作品となりました。

『移動都市モータル・エンジン』という映画もあります。
こちらは「ハウルの動く城」がモチーフで、序盤に「千と千尋」のカオナシまで登場するという作品でした。
映画自体はあまりヒットしなかったという話もありますが、この映画では「整形していないコリアン女性」が出演し、たいへんな高評価となりました。

整形ずくめで、まるでお人形さんのようになったコリアン女性より、細工は少々残念でも、生(き)のままで生きようとする勇敢な女性像に、観客は人としてのつよさを見出したのだといわれ、高評価となりました。

また、日本文化の人気にヤキモチを焼いた中共資本が、米国人のチャイニーズ嫌いを払拭しようと、近年ハリウッドに政治的に入り込み、やたらに映画製作にカネをばらまいては、チャイナを称えるように条件をつけて映画をつくったりもしています。

たとえば『MEG ザ・モンスター』という映画は、ジョーズの強化版の映画ですが、チャイナが東シナ海に海洋施設を平和利用のために造り、日本人が深海で死ぬという設定になっています。
この映画ではなんと、マリアナ海溝が、いつの間にか中共領として描かれています。
なんでもそうですが、コリアやチャイナが介入すると、毎度、話がややこしくなります。

一方、日本的なテイストを加味した映画は、チャイナマネー漬けになった映画評論家たちの酷評をよそに、世界中で確実にロングランです。
ありがたいことです。

要するに何を言いたいのかというと、世界の人々は、
「日本的な価値観に人類普遍の何かを感じ取っている」ということです。

そしてその何かとは、間違いなく、日本が持つ、人が人を所有しない文化、人と人とが助け合う文化、上下と支配ではなく、人と人とが対等に生きる文化、ひとりひとりが身分の上下ではなく人として尊厳が認められる文化です。
これを古い日本語で「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。

ひとりひとりが大切にされるといわれると、
「日本だってそんなことはない」
と反発する意見が出てきそうですが、それは日本しか見ていないからそう思えるのです。
日本のすぐ近くにある自称大国、自称準大国では、上下関係が絶対のものとして機能します。
上に立つものは、下の人のすべてを奪います。
下になれば、人としての尊厳どころか、人としてのいっさいが否定されます。

あまり語られませんが、学校教育が男女共学になって以降のヨーロッパでは、つい最近までは、生徒がなにか悪さをすると、男子は他の生徒が見ている前で顔を殴られましたが、女児は下着を脱がされて裸のお尻を鞭で打たれました。
信じられないような話ですが、それがあたりまえの常識であったのだそうです。

人類社会は、大昔は村落共同体でしたが、それがいつしか王国支配体制へと向かいました。
王政が議会制民主主義に変わっていったのは、いまからほんの300年前のことです。
しかしその民主主義さえも、崩壊に向かっていることは、いまの米国やEUの様子を見たらわかります。

どうしてそのようになってしまうのかといえば、国家最高の存在が「国家最高権力者」だからです。
国家の最高の存在が「国家最高権力者」なら、その権力者は、よその国に原子爆弾をニ発も落として何十万もの民間人を殺傷しても、何の責任もとりません。
あたりまえです。
責任を追求してくる人がいたら、その者を逮捕すれば良いだけのことだからです。

つまり世襲制の国王であれ、選挙によって選ばれた代表であれ、国家最高権力者は責任を取らない。
もっといえば、責任がない。
ということは、「国家最高権力者」は、「国家最高責任者」であると同時に「国家最高の無責任者」だということです。

どんな社会組織であっても、権力と責任は等しい関係にあります。
それが権力だけがあって、責任を負わないという体制なら、権力者は自己のために好き放題のことをします。
するとそのツケは、民衆が払わせられることになります。

ある人と話をしているときに、
「西洋の映画ではヒーローは壮年の男性と若い女性だけれど、
 日本のヒーローやヒロインは、ほとんどが10代の子供だ。
 それはどうしてだろう?」
という話になりました。

当然です。
上にある人の理不尽によって、常に嫌な思いをさせられ続けている社会では、そんな社会を力づくでぶっ壊すおっさんがヒーローになります。
そのオヤジが、若い娘さんの尊敬を得るなら、さらに理想です。

けれど現実には、おっさんがいろいろなものをぶっ壊せば、それはただの社会不適格な犯罪者となるし、目の前で人をあやめたり、ものをぶっ壊せば、若い女性は恐怖のために悲鳴をあげてその場を逃げ出します。
つまり、力づくでものをぶっ壊すおっさんと、そんなおっさんを若くて美しい女性が尊敬する社会など、現実には絶対に有り得ません。
だから映画になる。だからアニメになるのです。

これに対し日本のヒーローやヒロインは10代の子供です。
まだ未成熟だから、当然、失敗もする。
それでも凹まずに、頑張って行きていく姿が、人々の共感を生みます。
なぜかといえば、そうやって生きていけば、日本社会は失敗があっても、やり直しを認めてくれるから。
その暖かさがあるから。

日本では、神話に登場する神様も、さまざまな失敗をします。
それも何度も、形を変えながら失敗します。
妻を愛したイザナギは、その妻を迎えに黄泉の国まで出かけていきながら、見るなと言われた妻の姿を見てしまうという失態を演じています。
おかげで、恐ろしい黄泉軍団に追いかけれられて、ホウホウの体で逃げ帰っています。

神様だって失敗するのです。
まして人間なら、なおのことです。
生きている間に、どれだけの数の失敗や失態を繰り返すのか。
どんなに一生懸命生きていても、その一生懸命さがアダとなって失敗することだってあるわけです。

だから日本では、だいたい結婚するときは、日本男児は新妻に「ウチは亭主関白でいくから」と宣言します。
けれどそれが通用するのは、せいぜい新婚当時くらいなもので、何年かすれば、次々と旦那の失敗が明らかになり、気がつく頃には旦那は女房殿に頭があがらなくなっている。

けれどそれはとても良いことなのです。
なぜなら、それは旦那が妻を、妻が旦那を互いに尊重しているということだからです。
尊重しているから腹も立つのです。
関係ない人なら、腹もたちません(笑)。

ひとりひとりが尊重される社会だから、いくらでも失敗をすることがある未完成な若者が、日本ではヒーローやヒロインになります。
その年代なら、失敗が、まだ成長の過程だからと、笑って済ませることが可能だからです。

そしてその年代のとき、自分もまた、その時点で自分で「すべて」と思えることに全力だった。
だからそんな子供の姿に、大人たちが感情移入できるのです。
トトロのさつきちゃんやメイちゃんがそうです。
千と千尋がそうです。
ワンピースのルフィがそうだし、キングダムの李信がそうです。

明治11年に日本を旅した英国人女性のイザベラ・バードは、その著書の『日本奥地紀行』のなかで、日本の子供たちの様子を次のように書いています。

「私はこれほど自分の子どもを
 かわいがる人々を見たことがない。
 子どもを抱いたり背負ったり、
 歩くときには手をとり、
 子どもの遊戯をじっと見ていたり、
 参加したり、
 いつも新しい玩具をくれてやり、
 遠足や祭りに連れて行き、
 子どもがいないといつもつまらなそうである。」

子どもをたいせつし、可愛がることができる社会というのは、人類にとっての理想社会といえるのではないでしょうか。
赤ちゃんの鳴き声を聞いて、「うるさい」と騒音に感じる社会と、「かわいい」と思う社会。
注射器を前に必死で泣いている子どもの姿を、あらあらたいへんねえ、と笑顔で見守ることができる社会。
私達が求める社会の姿は、果たしてそのどちらなのでしょうか。

日本には、日本の歴史伝統文化があります。
いまわたしたちに必要なことは、私達の父祖が築いてくれた日本の姿を、あらためて見直し、その良さや素晴らしさを取り戻すことにあるのではないでしょうか。

この何十年の間に、世界は大きく変わりました。
身近なところでも、ほんの30年前にはなかったスマホが、いまでは誰の手の中にもある時代です。
けれど、これからの時代は、AIの普及によって、世界の様子がもっと大きく変わっていきます。

定型的な仕事はロボットが代行するし、判断を伴う仕事はAIが代行します。
世界中のさまざまな言語で発信されるYoutubeの動画は、これからはまるで声優さんによる映画の吹き替えのように、その国の言語の音声で視聴することができるようになります。
日本語で制作した動画は、世界中でその国の言語で再生できるようになっていきます。

これまで人が行っていた機械的作業の一切がコンピューターで代行できるようになるとどうなるか。
新たなコミュニティとか、食などのサービス分野に多くの雇用が生まれるようになります。
これまでは、コンピューター化によって人を減らすことが企業にとって利益を上げる要素であったものが、これからは、人をより多く雇用できる、大勢が参加できる、あるいは大勢がそこで生活できるコミュニティが、社会的な価値を持つようになります。

これから世界は大きく変わるのです。

このことは、既得権益にしがみつく人たちにとっては、世界の終わりを意味します。
けれど、圧倒的多数の人々にとっては、新しい世界の幕開けです。

いつの時代にも問題は山積みです。
けれどそれを乗り越えた先に、まったく新しい素晴らしい希望があるのです。

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