七草(ななくさ)には、春と秋があります。
「春の七草」は、雑煮に入れて食し、無病息災を祝います。
「秋の七草」は、眺めて楽しみます。

万葉集に次の歌がありあります。

 秋の野に 咲きたる花を および折り  かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三七)

現代語に直訳すると「秋の野に咲いている花を指折り数えると七種類の花がありますな」となります。
ようやく過ごしやすくなった秋の風のなかで、花を愛でるやさしい心をうたいあげた憶良の歌です。
この歌には続きがあります。

 萩が花 尾花 葛花 撫子の花  女郎花 また藤袴 朝貌の花

(読み下し)
はぎが花、オバナ、クズ花、なでしこの花
おみなえし、また、ふじばかま、あさがおの花
(山上憶良 万葉集 巻八 一五三八)

これが「秋の七草」で、山上憶良は花を、ただ植物ととらえているのではなく、人とともにある「生きた友」としてそれぞれの花に呼びかけています。

花は「めでる」といいますが、漢字で書いたら「愛でる」です。
ただ音は「めでる」ですから「目で愛でる」、つまり眺めて楽しみ、「愛」は「おもひ、いとし」ですから、いとしく思う気持ちで、花をめでる。

そして秋の七草を、憶良は「野に咲く花」と詠んでいます。
つまり、自然の中で力強く咲き、生きている様々な花です。
いろいろな花がある。いろいろな人がいる。
そのひとつひとつが、そのひとりひとりが美しい。
そんな美しく花のひとりひとりをいつくしむ。
それが日本の国だ、大和の国だと詠んでいます。

ちなみに、この歌にある「朝貌(あさがお)」は、桔梗(キキョウ)を指しています。
私たち現代人にとってのアサガオは、夏の早朝に咲く朝顔ですが、この花は熱帯アジア産で、渡来したのは平安中期以降のことで、山上憶良の時代には、まだ日本にアサガオはなかったからです。 萩(はぎ)

「萩」は、万葉時代を代表する花です。
万葉集には、萩の花を詠んだ歌がなんと141首もあります。

「萩の花」はとっても美しいですが、ただ観賞されるだけでなく、根、茎、葉まで、まるで無駄なく活用される、私達日本人にとって欠かせないお友達です。
萩の「新芽」は萩茶になります。
「葉」は家畜の餌になります。
「茎」は屋根や炭俵や「ほうき」にされます。
「花」は染料に用いられます。
「根」は、干して薬用に用いられます。
そのすべてが、私達の生活に欠かせない花でもあるわけです。

その「萩」は、マメ科の植物です。
マメ科の植物は、根っこに「根粒菌」という細菌が繁殖します。
すると根に、根粒とよばれる瘤(こぶ)ができます。
この根粒は、病気ではなく、「萩」と「細菌」の共生作用によってできるものです。

根粒菌が根の中で繁殖するとどうなるかというと、菌が窒素を吸って、アンモニア、硝酸塩、二酸化窒素などに変換します。
変換に必要な栄養成分は「萩」が提供します。
そして根粒菌は、繁殖し、有機物を排泄します。
その菌の排泄物が萩の栄養分になります。

おかげで「萩」は、痩せた栄養分の少ない土地でも良く繁殖します。
こうした特性を利用して、日本人は古くから、「萩」を山や道の斜面に植えて、山崩れを防いだり、海岸などの砂が飛ばないように、砂防に用いたりしています。
これはいまでも、続くことです。
よく、高速道路の斜面一面に、秋になると薄紫の萩の花がついている風景を見かけることがありますが、それが萩の花です。

そして、中秋の名月は、旧暦の9月15日で、今年は新暦、つまりいまの暦ですと10月27日が中秋の名月の日になります。
この日は、昔の人たちは、「萩」と「ススキ」を、お団子といっしょにお供えして、お月見をしました。
そこで中空に浮かぶお月さまを眺めながら、親子でお団子を食べながら、
「お月さまにはうさぎさんがいてね、あそこで餅つきをやっているんだよ」なんて、子供たちに語って聞かせたりしていたものです。

もちろんお月様にウサギさんなんかはいないけれど、子供に「どうして月にうさぎさんがいるの?」と聞かれると、きまって出るのが、
「実はね、むかしむかし、イナバの白ウサギってのがいてね・・・」と神話の物語がはじまる。
そしてイナバの白ウサギの物語は、子供達に、嘘をついてはいけないこと、困っている人をたすけてあげることが良いことなのだと教えます。

そうやって人々は、親から子へ、子から孫へと、日本の心をつむいできました。
親子は、ただ血がつながっているというだけではなくて、こうした対話によって、子どもたちに大切なアイデンティティを伝えるものでもあったわけです。

その「萩」と一緒にお供えされたのが「ススキ」です。 ススキ

「ススキ」は「尾花(おばな)」とも呼ばれます。
「尾花」というのは、ススキのに花穂が出ているときの呼び名です。
ススキは、漢字では「芒」とか「薄」と書きます。
「カヤ」とか「オバナ」とも呼ばれます。

根がしっかりしているので、庭などに繁殖されると困ることもあるけれど、とにかく日本人とはとっても仲良しで、穂も茎も全部、人に利用されます。
未成熟な穂は昔は食用にされました。
ちなみに、もともとススキは、イネ科の植物です。
穂はそのまま家畜の飼料になります。
いまでも東京の雑司ヶ谷の鬼子母神では、ススキの穂で編んだミミズク細工が民芸品として売られています。とっても可愛いです。

昔の農家などには、茅葺屋根(かやぶきやね)が多く見られました。「茅(かや)」というのは、ススキのことです。
つまり、ススキの茎は屋根として使われたのです。
ちなみに、屋根を麦藁(ムギワラ)で葺(ふ)いたのがワラブキ屋根、草で葺いたらクサブキ屋根です。

屋根に使うススキの茎は、大量です。
ですから昔は、日本の集落の近くには、かならずと言っていいくらい、定期的にススキを刈り取るためのススキの繁殖地(狩り場)がありました。
それが「茅場(かやば)」です。

東京証券取引所がある東京の茅場町(かやばちょう)は、まさに昔、ススキの繁殖地だったところです。
ススキは、株が大きくなるのに時間がかかります。
けれど、次第にしっかりとした根(株)を張って群生します。
つまりみんなが集まるわけです。
そして家の屋根となり、人々の暮らしを守り支えます。

それだけじゃなくて、ススキが空き地を埋め尽くすようになって何年か経つと、地味が肥えてきて、そこにアカマツなどの先駆者的な樹木が生えてきます。
樹木なんて、ほっといたら生えてくるものなんじゃないの?なんて思ってた人は、ぜひ今日から認識をあらためてなきゃいけません。
たとえば、近所にある空き地です。
何年も前から空き地になっているところには、雑草が鬼のようにたくさん生えますが、木は生えません。
草が生えても、木はそうそう簡単には生えてくれないのです。

いろいろな草花が、生えては消え、生えては消えという世代交代を繰り返し、最後にススキが密生する。
ススキが密生することで、地味が肥え、ススキによる草影ができるようになります。
するとようやくそこに、アカマツやクロマツなどの針葉樹が生え始めるのです。

針葉樹は、葉がとんがっています。
そして背が高い。
その針葉樹が群生し、ぐんぐん伸びて木陰ができて、地面が湿り気を帯びるようになると(そうなるまでに百年以上かかります)、ようやくこんどはヒノキやサワラなどの、葉がシダのような形をした樹木が生えてきます。

それから数百年。
ヒノキ林がほどよく茂るようになると、ようやくそこに、カシ、シイ、クスなどの広葉樹が生えてくるようになります。
なぜ広葉樹なのかといえば、上空はヒノキやサワラ、松などが覆っているからです。
地表近くには、それだけ陽があたりにくい。
で、少ない太陽光のなかで、光合成をより効率よく実現するために、葉の面積が広い、広葉樹となるわけです。

そして広葉樹には、落葉があります。
大量の葉が落ちる。
その落葉に、細菌がとりつき、分解して肥えた地味をつくります。
そうなると、こんどはケヤキ、ムク、イチョウなどが生育しはじめます。
ここまでくるのに、数千年です。

世界の古代文明発祥の地とされているところは、たいていいまは砂漠になっています。
これは人間が火を使い、森の木を伐り倒してしまったからです。
森に木がなくなれば、きれいな水もなくなり、貴重なタンパク源である木の実も、森の小動物もいなくなります。

すると、飲み水、食物がなくなることに加え、山の貯水能力がなくなりますから、雨が降ると平地は洪水になり、山は崩れて平になってしまいます。
そして人はいなくなり、古代遺跡は廃墟となり、土に埋もれます。

日本では3万年前の磨製石器が発掘され、1万6500年間の土器が出土していますが、エジプト文明や、メソポタミア文明(4〜5千年前)よりもはるかに古い遺跡を持ちながら、いまだに森が森でいるということは、日本には、古くから植林文化があったということの証拠です。

車でドライブしたり、電車に乗っていて窓の外に山の稜線が見えたら、是非、その稜線をよく見てみてください。
木々がみんな同じ高さで、同じ間隔で並んでいるのがわかります。
どういうことかというと、それは人間が植林した木々だからです。

さて、話が脱線してしまいましたが、そういう自然森になるまでに何千年もかかるような樹木の生育の、はじめの一歩となるのが、ススキであるということは、とっても大切なポイントであろうかと思います。

茎から葉まで、全部が人々の役に立つススキが、森を育み、人々の暮らしを守る。

明治のはじめ、江戸時代に日本橋付近の茅場だったところに、日本経済の柱となる「東京証券取引所」を開いた明治の施政者達の夢と心意気が、なんだかわかるような気がします。

ちなみに朝鮮半島では、約5千年間にわたって、人類の痕跡が絶えた時期があります。
それがなぜなのか。
そして何が起こったかは、実におもしろいお話なのですが、今日の記事からは本題をそれてしまいますので、ご興味のある方は拙ブログの
「世界に誇る縄文文化」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-802.html
をご参照なさってください。

というわけで、「ススキ」は、私たちの生活になくてはならない秋の植物です。

ちなみに、ススキの根は、古来「解熱」「利尿」良いとされ、生薬に用いられています。
お月見にススキを供えるのは、穂が、豊かな実りの秋を連想させることからきたものだとも言われています。 葛(クズ)

さて、次は「クズ」です。
「クズ」は、「葛(クズ)」とも書きます。
もともとは、大和国(奈良県)の国栖(くず)がクズ粉の産地だったことから、この名前が使われ出したといわれています。
東京の葛飾区は、もともとクズが大繁殖していた湿地帯だったところから、「クズ」に飾られたところ、という意味で、葛飾という地名になりました。

「クズ」の大繁殖と書きましたが、実は「クズ」は、ものすごく繁殖力が強い植物です。
野山のいたるところにはびこり、生命力が強く、ツルが草地を這い回ってあちこちで根を下ろします。
庭に「クズ」が生えてくると、駆除するのはほんとしんどいです。
除去は、不可能に近いとさえいわれています。

ちなみに欧米では、「クズ」は、「世界の侵略的外来種ワースト100」に分類されています。
分類を決めたのは、国際自然保護連合 (IUCN)です。
それだけ繁殖力が旺盛だ、ということです。

欧米では嫌われ者の「クズ」ですが、日本では、とっても人と仲良く暮らしています。
まず「クズ」の根っこです。
これは潰して水でさらしてデンプンを取ります。
できあがったデンプンが「葛粉(くずこ)」です。

葛粉は、葛切りや葛餅などの原料になります。
ちなみにボクは葛切りが大好物で、実は、すごくオイシイお店を知ってて・・・・って、話がまた脱線しそうなので、もとにもどします^^

葛粉は、食品として用いられるだけでなく、そのままお湯にといて飲むと、体を温め血行をよくしてくれます。
そこで、風邪引きや胃腸不良の民間治療薬としてできたのが、「葛根湯」です。
読んで字のごとく、まさに「葛(クズ)」の「根」のお湯です。

最近では、葛根湯には、女性ホルモンに近い成分のイソフラポンが大量に含まれていることが発見され、更年期障害や骨粗鬆症、糖尿病、乳癌、子宮癌や男性の前立腺癌の治療にも効果があるとされています。

さらにクズの根は、葛粉に加工しなくても、そのままでも食べられます。
ただ、かなり苦みがある。
ただし繁殖力が強いので、古来クズの根は、非常食として用いられたりしています。

ちなみに「クズ」を「世界の侵略的外来種ワースト100」という悪者にしたてあげた国際自然保護連合ですが、このワースト100の中味を見ると、そこで対象とされている「侵略的外来種」には、豚やヤギ、ハツカネズミ、ヒキガエルにアマガエル、魚の鯉やニジマス、海岸のワカメなども指定されています。
どういう基準で「侵略的外来種」と認定しているのか、よくわかりません(笑)

「侵略的外来種」という極めて否定的な扱いを受けた「クズ」ですが、最近では日本の努力によって、土壌保全植物として世界各地で砂漠緑化や堤防決壊防止に利用されるようになっています。
砂漠に、葛(くず)を植えるのです。
葛は、繁殖力が強いから、痩せた土地でもどんどん育ちます。

葛は、「葉」の大きな植物で、しかも密生しますから、地面が日陰になります。
そして葉が枯れて、地面に落ちます。
上には、まだ元気のいい葛の葉が茂っていますから、枯れ葉が地表にたまりはじめると、地表は、湿り気を貯えるようになります。
湿ってジメジメするから、そこにバクテリアが繁殖して、葉が腐食します。
するとそれが腐葉土となります。
つまり、土が肥えるのです。

土地が肥えてくると、そこには、穀物も栽培できるようになります。
つまり、砂漠に緑が戻り、農作物も生育できるようになるのです。

これが日本式なのだろうと思います。
欧米では「侵略的外来植物」として排除しようとしたけれど、日本ではそんなクズの強靭さと共存し、むしろ人々に役立つ仲良しになります。
こういうところに自然と対立的な西洋と、自然との調和や共生を重んじる日本人の考え方の違いがよく現されているような気がします。 撫子(ナデシコ)

ナデシコは、繊細なピンクの花を咲かせます。
その小さくてつつましく控え目で可憐な花の姿に、日本女性の美しさを重ねた言葉が、「大和撫子(やまとなでしこ)」です。

「万葉集」では26種詠まれています。

 なでしこが その花にもが 朝な朝な  手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ
        (大伴家持)

(通解)あなたが撫子(なでしこ)の花だったなら、私は毎朝、手に取ってあなたを愛でることでしょう。

 秋さらば 見つつ偲へと妹が植ゑし  やどのなでしこ 咲きにけるかも

これも大伴家持の歌です。
この歌は、天平11年の作ですが、この年の6月に家持は、奥さんを亡くしています。

その奥さんが、生前、「秋になったら、いっしょに眺めましょうね」と言って、なでしこを、庭に植えた。
秋になって、その撫子が、家の敷石のかたわらに咲いている。

「おまえが、そばにいてくれらなら」
そう思う家持の悲しみが、胸を打つ名作です。

なでしこは、女性の美しさと、手の中に入れて愛でたいと思わせるほどの可憐さを象徴しています。
そんな美しい愛する妻の、こぼれるような笑顔。
そして緑の中に咲く、ピンクの花。
文字は白黒だけれど、歌は、美しい色彩に彩られています。

どういうわけか、なでしこは、西洋の花言葉でも「長く続く愛情」とされています。
そういう不思議なイメージを抱かせるきれいな花です。

また、なでしこには、英語名で「ピンク pink」の名前があり、また、「輝く目」のという意味もあります。
ピンク色の語源も、なでしこの花からきています。

もうひとつ、なでしこを歌った、こんどは俳句です。
小林一茶の作です。

  御地蔵や   花なでしこの      真ん中に

きれいな秋の夕焼け空に赤とんぼが舞い、稲刈りを終えた田んぼは、黄色く色づいています。
道ばたにふとみると、緑の葉に彩られて、ピンクのなでしこの花が咲いている。
その真ん中には、ちいさなお地蔵さんが、赤い前掛けをつけて、そっと立っている。
そんな情景が目に浮かびます。

和歌、短歌、俳句に限らず、日本画や文学などにおいても、日本文学などでは、こうしてものすごく簡素化し、簡略化した中に、くっきりと浮かび上がる色彩豊かな情景や、背景などを連想させるものが、秀作とされます。

欧米文学のように、すべてを説明するのではなく、連想によって、イメージを広がらせる。
それが日本の古典の特徴です。

そうそう。
なでしこといえば、知覧の特攻隊基地で、特攻隊員達に奉仕した勤労奉仕女学生たちは、自分たちのことを「なでしこ部隊」と呼んでいました。
その中のおひとりだった前田笙子さんは、昭和54年に「群青-知覧特攻機地より」という本を出されています。
その本の前書きには、笙子さん本人の文として次の一文があります。

~~~~~~~
本書に収録しました特攻隊員の遺稿も、私たちの手記も、戦争一色にぬりつぶされた当時の心のうずきをそのまま書きとめたものですから、今の時代とはずいぶんかけ離れていると思います。 しかし、それもまた、いつわらぬ事実なのですから、明らかな誤記だけを訂正して掲載しました。 数ある太平洋戦争の大河の流れの一しずくとして、心ある方がもし拾いあげてくださるならば、これにこした喜びはございません。
~~~~~~~

空と海をあらわす群青。
プロペラの音。
去って行く飛行機。
二度と帰らぬ旅。
地上に咲くピンクの可憐ななでしこの花。
心のうずき。
忘れてはならない日々。

なでしこは、いまも昔とかわらない、美しい花をさかせています。
花だけではなく、私達自身が、その美しい心を、いまこそとりもどさなけれなならないような気がします。 女郎花(おみなえし)

ピンクの花のなでしこの次は、黄色の「オミナエシ(女郎花)」です。

オミナエシの花の黄色は、実にやさしい色合いの黄色です。
毒々しいセイタカアワダチソウとは、ちょいとワケが違う。

これも古くから日本にある花です。
原産地は日本です。

おみなえしは、茎や根がちょっとなまぐさいので、観賞用の茶花としてはあまり好まれなかったようです。
そのニオイのあるところから、同じ女性でも、可憐な乙女や清楚な妻をイメージさせるなでしこと異なり、いわゆる玄人の女性に例えられることが多い花です。

万葉集には14種詠まれています。
詠み人知らずですが、私は次の歌が好きです。

 我が里に 今咲く花の をみなへし  堪(あ)へぬ心に なほ恋ひにけり

(通解)
故郷には、いまごろおみなえしが咲いているだろうなあ。
きっとあの娘は、おみなえしのようにいまも美しく可憐でいるのだろうなあ。
遠く離れて逢えないから、耐えられないほど恋しいよ。

万葉の昔も、現代の日本も、人の心なんて、そうそう違うものではありません。
人を好きになること。
恋すること。
遠く離れていても、変わらず愛する心。
日本人は、いまも昔も、日本人です。

そしてさらにこの歌の凄味は、その女性をおみなえしに例えている点です。
つまり、商売女、玄人の女性だ、ということです。
玄人の女性ということは、売春婦、娼婦である、ということです。
そして、そんな娼婦の女性であっても、「なほ恋にけり」とうたっている。

「娼婦を恋しい」とうたっている歌でありながら、万葉集に、このようにちゃんと掲載しているという点は、実に注目に値することだと思います。

たとえ相手が娼婦であろうと、人として大切に思い、接する。
それが日本という国だし、日本人だ、ということです。

戦時中、日本は、売春婦を「慰安婦」と呼びました。
慰安婦と娼婦では、語感がまるで違います。
娼婦はただのセックスの道具ですが、慰安は、なぐさめ、安心させる女性という意味の言葉です。
つまり、道具としての性器ではなく、ちゃんと人格を持った人間の女性として、性の奉仕をする女性たちを扱った、ということです。

朝鮮半島では、もともとの李氏朝鮮の時代には、女性は、名を名乗ることさえ許されませんでした。
つまり、セックスの、あるいは子を産むための道具としての地位しか、女性には与えられていなかったということです。

そんな朝鮮人女性の、しかも玄人の娼婦に対し、私達日本人は「人格をもって慰安する女性」という称号を与えたわけです。
しかも、その報酬たるや、お客となる兵隊さん達の10〜20倍もありました。
それは、慰安してくれたことへのお礼の心でもあったのではないかと思います。

万葉の昔から、をみなえしを、恋しいとうたう、日本人のやさしさが、こういうところにも出ている。
それをいまさら性奴隷などと、わかったようなデタラメを並べならば、では昔の李氏朝鮮時代の性の道具としての地位の方が、朝鮮人女性達にはお望みなのか?と聞いてみたくなります。

古今集にも、右大臣の藤原時平が詠んだ歌があります。

 をみなへし 秋の野風に うちなびき  心ひとつを たれによすらむ

(通解)
秋の野を吹き過ぎる風になびくおみなえしは、
いったい誰に恋心を寄せているのだろうか。

これは昌泰元(898)年の作で、宇多上皇が主催した、おみなえしの花合わせに出詠した歌です。
おみなえしの花合わせというのは、ときの貴族たちがおみなえしの花と歌とを持ち寄って勝負を競った遊戯です。

おもなえしは、それだけ当時の人々に愛された花であったということですし、女郎(娼婦)であっても、「誰に恋をしているのだろうか」と詠んでいる。
つまり、相手を人格をもった人としてみている。

つまり、そこには、売春婦だからといって「差蔑」するという姿勢が、日本人の社会には根本的にない、ということをあらわしてもいるのです。

なお、おみなえしは、古来、利尿、排膿の生薬として、多くの人に親しまれてもきました。
やはり下半身ではあるけれど、大切なお薬でもあったわけです。

そもそも職業売春を差蔑することのほうが、私にはむしろ人格差別であるように思えるし、そういう差蔑するという心は、そもそも日本社会には、ほとんどなかったものに他なりません。
むしろ、こうした概念こそ、侵略的外来性思考ともよぶべきもので、あらゆる身分や職業を、階級闘争として捉える、共産主義思想の弊害ではないかと私には思えます。

すくなくとも、おみなえしの美しい花は、そんなつまらない差蔑意識など、消し飛ばせるものをもっているように思います。 藤袴(フジバカマ)

実はこの項でフジバカマのことを書くのは、ちょっとつらいです。

フジバカマは、万葉の昔から日本人に親しまれてきた花で、かつては日本全国どこでも、河原などに行けば群生していた花です。

乾燥すると桜餅のような甘い香りをはなち、お風呂の湯に入れて香りを愉しんだり、すりつぶして飲むと利尿作用があるといわれていました。

「源氏物語」には、「藤袴の巻」で、美しい夕霧が、大宮の喪に服している玉鬘(たまかずら)に、フジバカマを差し出して、

 おなじ野の   露にやつるゝ藤袴    あはれはかけよ     かことばかりも

と詠いかけるシーンがあります。
今差し上げた藤袴の薄紫を愛でるように私の思いもわかってくださいな、と、喪の最中にあっても、女心をやさしく包んだ夕霧の歌です。
フジバカマの淡い紫色の花と相まって、決して低俗ではない上品な想いが歌の心になっています。
こうして、平安の昔から人々に親しまれたフジバカマですが、近年では、その数を減らし、いまや環境庁の準絶滅危惧種にさえ指定されています。

そして「フジバカマのことを書くのは、ちょっとつらい」と書いたの理由は、実は、フジバカマは、かつての満洲国の国章でもあったからです。
満州地方というのは、大清帝国の発祥の地です。
同時に、延々と土色の荒野が広がる荒涼とした大地でした。

日本は、満洲で、地域の人々と一緒になってこの地を開墾し、満洲一帯を、世界屈指の大豆の名産地にしています。
旧満州鉄道が、満洲の隅々にまで鉄道網を拡げたのは、要するに荒れ地を開墾し、そこで大豆が生産されるようになり、その出荷のために鉄道網を伸ばす必要があったからです。

わずかな日本統治の間に、荒涼とした荒れ地だった満洲の大地は、緑豊かな大穀倉地帯へと変貌し、都市部には、そうした農産物の輸出入を推進するための物流や倉庫機能、商社機能や金融機能が集中し、都市部も大いに繁栄しました。

そうして日本は、満洲に経済力がつくと、ここに清国の末裔の愛心覚羅家を招き、同家を皇室とする一大国家「満洲国」を建国しました。

満洲国は、日本軍部の傀儡政権だという人がいるけれど、それはウソです。
満洲は、満洲人が統治し、その満人の長は、日本のご皇室と縁続きになられています。
満洲国皇帝と、日本のご皇室は、親戚関係になられていたのです。

その満洲国も、大東亜戦争の終戦とともに、滅んでしまいました。
そして満洲国の国章にまでされたフジバカマも、いまの日本で、もはや絶滅種にならんとしています。
私は、フジバカマを、絶対に絶やしてはいけないと思います。 桔梗(キキョウ)  

キキョウといえば、桔梗紋が、明智光秀の家紋であったことでもよくしられている秋の花です。

透き通った青紫の花を咲かせますが、まれに白花をつける種類もあります。
花の形が良いので、古来観賞用として親しまれる他、切り花としても多く利用されました。

キキョウの花が咲くのは6月下旬頃のことです。
つまり、秋ではない。

ではなぜキキョウが「秋の七草」に入ったかというと、実は、キキョウの根に理由があります。

キキョウの花の季節が終わり、地上部が枯れた秋から冬にかけて、掘って根を取りだします。
根は細い部分を取り除き、外皮をむいて、よく水洗し、日光で乾燥させる。

こうしてできる生薬が、桔梗根(ききょうこん)です。
桔梗根の粉末は、去痰、鎮咳、鎮痛、鎮静、解熱によく効く生薬となります。

つまりキキョウは、冬の風邪の治療に欠かせない植物だったのです。

また、キキョウの葉や茎から出る白乳液が、漆(うるし)のかぶれに、よく効く。
漆(うるし)は、初夏から秋にかけて漆の木から採取されますから、ここでもキキョウは大活躍してくれたのです。

かぶれにキキョウ、風邪にキキョウ。
その両方の季節が合わさった時期が、まさに秋。
そこで、キキョウは秋の七草の一員となったわけです。

さて、秋の七草のなかで、ススキとクズとハギ以外、つまり、

なでしこ ききょう おみなえし ふじばかま

の4種類は、いまや次第に野山から姿を消しつつあります。
絶滅危惧品種となっているのです。
それはまるで、日本古来の文化が絶滅危機に瀕しているいまどきの世相をみるかのようです。

日本を守るためには、もちろん大上段に構えた大運動への参画も大切です。
しかし同時にほんのちょっぴり、ベランダのプランターになでしこやおみなえしを植えて育てるだけでも、立派な日本の文化を守る行動だと思います。

なぜならそれは、人と草木がとっても仲良しだった日本人の心の姿だからです。

※この記事は2010年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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