日本書紀のイザナキ(伊弉諾)、イザナミ(伊奘冉)の抄に、次の文があります。
伊弉諾尊 伊弉冉尊
立於天浮橋之上共計曰
「底下豈無國歟」
廼以天之瓊 (瓊玉也、此云努)
矛指下而探之是獲滄溟
(現代語訳)
イザナキとイザナミは、ともに次のようにはかられました。
「底の下に、豈国(あにくに)なけむや」
そしてアメノヌボコを、下にさしおろして、
混沌としたところを探(さぐ)りました。
こうして誕生したのがオノゴロジマであり、ニ神は、そのオノゴロジマに降臨されて国や神々をお生みになられます。
そして、ここに出てくるのが「豈無国歟(あにくになけむや)」という言葉です。
「あに〜や」という表現は、現代の古語教育では「下に打消の表現を伴なう反語」であるとされています。
たとえば「あによからんや」といえば「良いだろうか、いや決して良くはない」という意味になるし、「あにまさめやも」といえば「どうしてまさろうか、いや、まさりはしない」です。
その説に従えば、「あにくになけむや(豈無国歟)」は、「国があるだろうか、いやありはしない」となり、そういいながら、二神は底下に矛を差し入れて、オノゴロ島を作ったことになります。
ところがこれは神様の言葉です。
「ありはしない」と断定してから、「オノゴロ島を築いた」のです。
つまり、ここで作られたオノゴロ島は、他にないのですから、唯一無二の存在だということになります。
では、どのような点が唯一無二なのでしょうか。
日本書紀が書かれた時代というのは、大和言葉を漢字で表現することが様々に工夫された時代です。
もともと大和言葉は「一字一音一義」ですから、同様に漢字も一字ごとの意味が大切にされたと考えるのが論理的であり妥当です。
日本には、もともと万年の昔から伝わる大和言葉があるのです。
その大和言葉は、カナによって表記されます。
カナというのは、「神名」であって、一字ごとにそれぞれが神様を表します。
「あ」なら「あの神様」、「い」なら「いの神様」なのです。
もう少し具体的に云うと、
「あ」は偉大なる生命の神、「い」は伝わる力の神です。
この2つを組み合わせると「あい」となり、二つの神がひとつになって、命を生み出す力となります。
このように、大和言葉は、神の名である「神名(かな)」を組み合わせることで、多くの情報を伝えようとします。
50文字を二文字づつ組み合わせれば1200通り、三文字ずつくみあわせればさらに2万通りの言葉が生まれます。
日本語はそれらを「撞着語」といって、さらに「の」などの接続詞でつなぐことで、あらゆることを言葉にしていきます。
ところが、その場合、何々の何々で何々だから何々となり・・・と、社会が複雑になるに連れて、言葉がどんどんと長くなる事態を招きます。
そこで輸入されたのが漢字です。
漢字を用いれば、複雑なことを伝えようとすればするほど長くなる日本語を、短縮化できることに加え、大和言葉のカナに漢字を乗せることで、さらに複雑な意味を持たせることが可能になります。
これは現代人でもやっていることで、近年の顔文字や()文字などがこれにあたります。
「とても悲しいわ(笑)」
「めっちゃうれしい(●`ε´●)」
などなど、複雑な人間感情を表すのに、顔文字や()文字は意外と重宝します。
これと同様に、漢字もまた、大和言葉の語彙をふくらませる意味でとても重宝なのです。
大和言葉なら、「あに〜や」は、
「あ」偉大なる生命の神
「に」圧力の神
「や」飽和し満たす神
です。「くに」は
「く」引き寄せる神
「に」圧力の神
ですから、「あに、くに」は、「偉大な生命の神の力を圧縮し引き寄せて神々の力を満たすところ」といった意味になります。
そこで「偉大な生命の神の力を圧縮し引き寄せて神々の力を満たす」意味に近い漢字を探すわけです。
「豈」という漢字は、もともとが楽太鼓といって、神社などで祝の儀のときにだけ打ち鳴らすおめでたい太鼓の象形文字です。
「偉大な生命の神の力を圧縮し引き寄せて神々の力を満たす」のは、何のために行うのかと言えば、それはひとことでいえば「よろこびあふれる楽しい国」を築くためです。
そこで大和言葉の「あに、くに(偉大な生命の神の力を圧縮し引き寄せて神々の力を満たす)」に合致した文字として
「豈、国」が当てられることになるわけです。
「偉大な生命の神の力を圧縮し引き寄せて神々の力を満たす国」と言われても、多くの人にはピンとこないと思いますが、「豈」という字が、よろこびのときに鳴らす楽太鼓と知っていれば、簡単に言葉の意味として、
「よろこびあふれる楽しい国」
という意味を知ることができるわけです。
このことは、現代風に言うなら、言葉の「リノベーション(renovation)」です。
リノベーションは、たとえば建築物について、既存の建物を大規模に改装して用途変更や機能の高度化を図り、建築物に新しい価値を加えることに使われる用語です。
ちなみに日本書紀は、
「外国向けに漢文で書いた史書」といわれています。
間違っていると思います。
たとえば日本書紀に有名な「和をもって貴しとなす」という言葉があります。
日本書紀では「以和為貴」と記述されています。
ところが中国語で「和」というのは、足し算の記号である「+」と同じ意味です。
また「貴」は、お金があって身分の高い人のことです。
すると「以和為貴」は、「金持ちのために足し算を以て」という意味になります。
まあ、わからないではありませんが、日本語の意味と全然違ったものになります。
果たしてそのようなものを、外国向けの史書にするでしょうか。
つまり日本書紀は中国語で書いたのではなく、
「漢字を用いて日本語を表現したもの」なのです。
「そのようなことは誰も言っていない」と思われる人もおいでかと思います。
けれど、このように考える以外に「以和為貴」の合理的説明ができないなら、それが真実というものです。
過去に誰も言っていないなら、それは過去に誰も到達することができなかった真理だということです。
古代の日本人は、漢字が複数の象形文字を組み合わせて一定の意味を持たせた表意文字であることに注目し、その意味と大和言葉の意味を重ね合わせながら漢字を大和言葉の記述のために導入したのです。
つまり、漢字一文字一文字の持つ意味を大切にあつかいながら、日本書紀を記述しのです。
万葉集や古事記、日本書紀が編纂された7世紀の日本は、隋や唐という強大な軍事大国の脅威の前に、是が非でも日本を中央集権的な統一国家にしていかなければならない時代です。
ところがそこに、実に日本的な困難がありました。
チャイナやコリアであれば、外来王朝ですから、気に入らない反対勢力は、ただコロスだけです。
皆殺しにして、その親族まで殺害して、その一族の血を完全に絶やしてしまう。
ですからチャイナでは、王朝が替わるたびに、人口が3分の1に減少しています。
しかしこの方法が、日本では使えないのです。
なぜなら、地方豪族たちは、もとをたどせば、全部、親戚です。
同じ日本列島の中で、何千年も暮らしてきたのです。
日本全国津々浦々、全部の人が血の繋がりのある、共通のご祖先を持つ、同じ日本人です。
親族の恨みほど、恐ろしいものはありません。
これは昔から、世の中で怖いものは二つ。
「女の恨みと男の嫉妬」
と言われるくらいで、恨みというのは、何十年経っても何百年経っても消えません。
男の嫉妬もしつこいですが、女の恨みほど、世の中に恐ろしいものはないのです。
これと同じで、親族の恨みもまた、何十年も何百年もあとをひきます。
つまり「気に入らない相手はコロス」という、外来王朝や植民地支配に見られる方式は、わが国を統一国家にしていくうえでは、用いることができないのです。
そこで統一国家を形成するための方法のひとつとして進められたことが、中央に高い文化を形成するというものでした。
もともと大和言葉は、一字一音一義です。
五十音の組み合わせで、様々なことを表現します。
ところが漢字は、わが国の一字一音一義の神代文字を組み合わせて一字とする会意文字です。
会意文字というのは、意味を会わせた文字という意味です。
たとえば、心を亡くした状態が「忙しい」です。
さらに、用字がたくさんありすぎて忙しいなら、多忙です。
つまり一字一音一義の大和言葉に、さらに漢字を加えることで、もっと複雑な事柄を表現できるようになるのです。
そしてこのことは、当時においては新たな文化の創造でした。
つまり外国の脅威がどうのこうの、古来の風習がどうのこうのと言うだけでなく、新たな文化の創造によって、日本を古くて新しい国として希望を持って再生していったのです。
それが我が国の7世紀の出来事です。
この中心となったのが第41代持統天皇です。
日本を代表する偉大な天皇です。
実はこのことを出口光先生にお話ししたとき、出口先生が「豈」という字を見て、
「これはヤマトだね」とおっしゃいました。
衝撃でした。
「豈」という字は、「山」と「豆」で出来ています。
そして「豆」の訓読みは「と」です。
「やま(山)」に「と(豆)」で、「ヤマト」です。
ヤマトの語源論は別として、古代の日本人が、私たちの国を「ヤマト」と呼び、そのヤマトが希求した国の形が、私たちみんなにとっての「よろこびあふれる楽しい国」であったといういことは、まさに目からウロコが剥がれ落ちる事実で、それはとっても誇るべきことであると思います。
誰か一人の贅沢な暮らしのために、周囲のみんなが奴隷として使役される社会ではなく、末端のみんなが主役となって、みんなにとって、社会がよろこびあふれる楽しい国であること。
そのことを実現するために築かれたのが、天皇という権威を国家最高権力の上に置くというシラス統治の形です。
残念ながらこういうことが、戦後教育の「あに〜や」は反語表現であるという固定概念に固まってしまうと、たいせつな意味を見失ってしまいます。
こだわりから思考停止に至ることは、とても残念なことです。
※この記事は今年6月の記事のリニューアルです。