大東亜戦争で、たとえばパラオで激戦が行われましたが、日本はパラオの住民や軍と戦ったわけではありません。あるいはいまのベトナムやカンボジアのあたりは、当時はフランス領インドシナと呼ばれるフランス領のエリアでしたが、ここを占領するに際してわが国が戦ったのは、あくまでフランスであって、いまのベトナムやカンボジアと戦ったわけではありません。
同様に秀吉の明国征伐も、戦いが半島に限定して行われていただけで、戦った相手は明国軍であって、李氏朝鮮国軍ではありません。

秀吉の朝鮮征伐について、このブログで最初に書いたのは2012年10月のことでした。
その後『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人、第一巻』にも、このことを掲載しました。
先日、ある方々とお話をしていましたら、「ねずさん、秀吉の朝鮮征伐は、そもそもスペインの植民地支配に対するわが国の自立自存のための戦いであったのです」と仰っていただきました。
それだけだいぶ、この説が普及してきたということで、たいへんうれしく思いました。
たいせつなことは誰が言い出したかではなくて、誰が言い出したかさえもわからないくらい「常識化」することにあります。

私たちの戦いの本質がここにあります。
戦いというと闘争を思い浮かべて誰かと対立したり、誰かを非難したり、いがみあったりすることだと思っておいでの方が多いですが、
叩きあったりつぶし合ったりするだけの対立と闘争は、全体の幸福を破壊します。
我々が求めているのは、どこまでも全体の幸福であり、よろこびあふれる楽しい国です。

そもそも「秀吉の朝鮮征伐」という言葉自体に、トリックがあることを私達は知らなければなりません。
実際にはこの事件は「秀吉の明国征伐」であり、その戦いが半島に限定されたのは、秀吉がスペインの情勢を横目でにらみながら、意図して明国の直轄領に攻め込まないでいたからにほかなりません。

そもそも当時半島にあった李朝は、明国の一部です。

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1 世界史の視点から朝鮮出兵の真意を探る
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最近の韓国で、豊臣秀吉はもっとも嫌われている日本人のうちの一人なのだそうです。
文禄・慶長の役で朝鮮半島に攻め込んだというのが、その理由だそうです。
一方、この出兵に際し、日本と朝鮮半島の海峡で戦った李舜臣は、まさにヒーローとされているそうです。
彼らの言い分によると、李舜臣の活躍によって、日本は海上を封鎖され、朝鮮半島への補給路を断たれたために、半島からの撤退を余儀なくされたからなのだそうです。
韓国人にとって歴史はファンタジーですから、そう「思い込みたい」気持ちも分からないでもありません。
けれど、事実関係はまるで異なります。

李舜臣についていえば、なるほど朝鮮の海将として文禄元年8月29日(1592年)に釜山港を占領していた日本軍に戦いを挑んでいますが、あえなく敗退しています。
また、慶長3年11月18日(1598年)の露梁海戦ですが、これは、停戦協定が結ばれたあと半島から引あき揚げる途中の日本の軍船に追い打ちをかけた卑劣な戦いでした。
しかも李舜臣は、この海戦で返り討ちにあって戦死しています。
李舜臣によって、海上補給路を断たれたという事実は、どこにもないのです。

そもそも、秀吉の朝鮮出兵については、誤解と偏見がまかりとおっています。
戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行われたか」について、きちんと踏み込んで書いているものは大変少ないのが実情です。
おおかた秀吉の朝鮮出兵は、次のような理由によるものとされています。

・秀吉がもうろくしていたために起こした。
・秀吉の成長主義が引き起こした身勝手な戦いであった。
・戦いを好む戦国武士団を朝鮮、中国に追い払い、殺して数を減らすためだった。

いずれも「木を見て森を見ず」です。
仮に秀吉がもうろくしていたとしても、当時の日本は、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
もうろくジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

秀吉の成長主義が招いたという話にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強く、それぞれの大名は領地が増えなくても、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずという言葉がありますが、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行い、世の大名たちも、これに追従したのでしょうか。
この問題を考えるには、日本国内だけに目を向けていては答えは出てきません。
秀吉が朝鮮出兵をするに至った背景には、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。

そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、十六世紀における東アジアでの最大の戦いです。
文禄の役だけでも、日本は約十六万人の軍勢を朝鮮半島に送り込み、朝鮮と明国の連合軍は二十五万人の大軍でこれを迎え撃ちます。慶長の役では、日本は再び約十四万人を動員します。
天下分け目の関ヶ原の戦いにしても、東軍七万、西軍八万ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかが分かります。

そしてこの時代、世界全体を見渡せば、世界中に植民地を獲得した「スペイン帝国」が、植民地からもたらされた莫大な富によって覇権を握っていました。
太陽の沈まない国と形容され、黄金の世紀を謳歌していたのです。
そのスペインは、東アジア地域の戦略統合本郡である総督府を、ルソン(いまのフィリピン)に置いていました。
そして、東アジア植民地の拡大を着々と進めていたのです。

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2 遅れてしまった日本占領計画
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スペイン人が日本に最初にやって来たのは、天文十八年(1549年)のことです。
宣教師、フランシスコ・ザビエルの来日がそれです。
当時の宣教師の仕事は、表向きはキリスト教の伝道ですが、本当の仕事は、将来その地を植民地とするために情報を収集することや、さまざまな懐柔工作です。

実際にキリスト教を伝道しながら、ありとあらゆる手段を使い、多くの人を改宗させます。
そして、それらの人々を味方につけ、頃合いを見計らって軍隊を送り込み、抵抗する者を殺戮し、その地を植民地占領していくのです。

内乱に明け暮れていた戦国大名たちは、そんな宣教師の目的を知りません。
最初は西洋からやって来た宣教師たちを、快く受け入れていました。
実際、ザビエルはあちこちの大名に招かれ、なかにはキリスト教の信者になった者もいました。
宣教師たちの仕事は順調に進んでいるかに思われました。

ところが唯一、日本がほかの国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、またた日本人は瞬く間にコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、なんと日本は、鉄砲保有数で世界一になってしまいました。
その数、当時の世界の鉄砲数の半分にあたる約50万丁。
もっともこれは、最盛期の数ですが、鉄砲は戦国時代の日本に、ものすごい勢いで広がっていったのです。

これには宣教師たちも驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書には、次のような記述があります。

「スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向けるしかありません。」

人口なら、日本より南米やインドのほうがはるかに数が多いわけで、城だって日本は平城が主流ですから、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、「鉄砲の数が圧倒的で、軍事力で日本には敵わない」とは、国王宛ての上書に書けないからです。

そして、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に喜んで臣事するように仕向ける」ように進言しているのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に注力していきます。

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。お隣の明国もスペインは植民地化を狙っています。
こちらは鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ国土は広く、その調略には手間がかかります。

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。

スペインは明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に「一緒に明国を奪わないか」と持ちかけています。
ところが日本は、まるでそんなことに関心がありません。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は、比叡山や本願寺まで攻めたため、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、信長の戦いの目的は、「一日も早く戦乱の世を終わらせる」ことに尽きたのです。だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第に明らかになってきています。

これは秀吉も同様です。
しかも、農民の出だから農民の気持ちが分かるのです。
戦乱によって農地が荒らされることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんと分かっていたからこそ、秀吉は人気があったのです。

要するに、当時の信長、秀吉にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、お隣の明国になどかかわっていられなかったのです。

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3 朝鮮出兵は安全保障上の理由から
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ところが、秀吉が日本を統一すると、次第に明国への対策が大きな政治課題となって浮上してきました。
どういうことかというと、これにスペインが関係しているのです。

スペインが日本を攻めようとしても、遠路の航海を余儀なくされますから、世界の覇権国とはいえ大軍を差し向けることは不可能です。
仮にスペインが海を渡って攻めてきたとしても、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本のほうが圧倒的に優位です。
したがってスペインとの直接対決ならば、日本が負ける心配はありません。

ところが、スペインが明国を植民地として支配下に収めると状況が変わってきます。
スペインに支配された明国兵が、数の力にモノをいわせて日本に攻め込んできたら、日本は数多くの鉄砲を持っているとはいえ、これは大変なことになります。
まさに、元寇の再来。大きな脅威です。

この脅威を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかありません。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明国の緩衝地帯として置くことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができるのです。
このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行った政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

さらにいえば秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊がイギリスに敗れ、スペインが海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性はまずありません。

一方、国内で秀吉は、長く続く戦乱の世を終わらせようと、全国で刀狩りを実施します。
刀狩りそのものは、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時に庶民から武器を奪うことは日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。
もし日本が他国侵逼の難にあったときは、大きな痛手となるでしょう。

ならば、武力がまだ豊富なうちに余剰戦力を用いて朝鮮出兵を行い、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なことであったわけです。

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4 スペインに強硬な態度で臨んだ秀吉
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こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593年)、慶長の役(1597~1598年)と二度にわたる朝鮮出兵を行うのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行っています。
何をしたかというと、スペインに対し、「臣下の礼をとれ」と迫ったのです。
最初にこれを行ったのが、文禄の役に先立つ一年前、天正18年9月(1591年)のことです。

秀吉は東亜地域の拠点、ルソンにあるスペイン総督府に、原田孫七郎を派遣し、
「スペイン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。

対するスペイン総督府にしてみれば、これはきわめて腹立たしいことです。
しかし、隣国であるイギリスの国力が増し、自国の防衛を優先させなければならない当時のスペインの現状にあっては、日本に対して報復的処置をとるだけの力はありません。
悔しいけれど放置するしかありません。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

驚いたのはスペイン総督府です。
日本が明国を征すれば、その国力たるや東アジア最大となり、スペインにとって政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。
しかも、海を渡って朝鮮出兵をするということは、兵員を海上輸送する能力があるということですから、いつ、ルソン島に日本が攻めて来てもおかしくありません。

慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年七月にドミニコ会士、フアン・コーボを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈り物も持参しています。
いかにスペインが日本を脅威に感じたかということです。

けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
「スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、ルソンにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ」というものです。
そして、
「それが嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ。このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ」というのです。

ところが秀吉の書簡を受け取ったフアン・コーボは、帰路、遭難してしまいます。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が百パーセント、スペイン国王の怒りを買うことが分かって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらく、これは後者ではないかと私は見ています。

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5 秀吉の世界戦略
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さて、フアン・コーボの遭難のおかげで、秀吉の書簡はスペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。

秀吉は10月には原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2年4月(1592年)、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラの中国人約二千人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。

スペイン兵は応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、瞬く間に中国兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

けれどゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは困り果ててしまいます。

そして、翌文禄3年4月(1594年)に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを特使に任命し、日本へ派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返すことで、少しでも時間稼ぎをしようとしたのです。

名護屋(現、佐賀県唐津市)で秀吉と会見したペドロは、スペインがいまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。
けれど秀吉は聞く耳を持ちません。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作を行います。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。
ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。これしかなかったのです。

いくさ第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
武力で日本を統一したあとは、「刀狩り」を行い、内乱の芽をつんで太平の世を実現しようとしています。

けれど、刀狩りをして庶民から武器を奪うことは、一方において日本を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を、日本からできる限り遠ざける必要があったのです。

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6 スペインの戦略とサン・フェリペ号事件
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名護屋における秀吉とペドロとの会見が物別れになると、スペインのゴメス総督は、日本への軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。
そして後任の総督としてやって来たのが、ルイス・ダスマリニャスです。

ルイスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の
戦力を冷静に分析します。
そして、ゴメスの分析どおり、もし日本とスペインが東アジアで正面から衝突すれば、スペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは秀吉との直接交渉は避け、一人また一人と、宣教師を日本に派遣するという戦略をとりました。つまり時間を稼ぎ、その間に当初の戦略どおり、日本に布教をしていこうとしたのです。

文禄3年(1594年)には、ルイス総督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士四人が日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
秀吉もこれは認めています。

ところが慶長元年(1596年)のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べました。
そこで驚くべき事実が明らかになります。
なんとサン・フェリペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、次のような証言をしてしまったのです。

「スペイン国王はまず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると次は軍隊を送り、信者に内応させてその伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26名を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送り、「キリシタンを続けたいなら外国へ出て行け。日本に残りたいなら改宗しろ」と迫りました。
迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。

イエズス会の腹はこうです。
26名の信者をイエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、信仰による団結心をたかめる。
まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、次の機会に詳しく書くことにします。

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7 民族の気宇と誇り
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要するに秀吉の朝鮮出兵は、統一国家をやっと形成した日本が、スペインによる東洋の支配から国を守るために下した決断であった、ということです。
このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ていてもまったく分かりません。
当時の世界情勢、東アジア諸国の情勢を視野に入れなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが理解できません。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアに変わったほかはきわめて似ています。
同じことが歴史上、繰り返されたということなのです。

もし、秀吉が朝鮮出兵を行わず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたことでしょう。
明国がスペインの植民地になっていた可能性は非常に高いのです。
当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの植民地となることは、どういう意味を持つのか。
そのことは、いまの南米諸国が、見事に教えてくれています。

現在、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人との混血種だけです。

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完璧に抹殺されてしまいました。
いまこの地域に住んでいるのは、ほぼ白人種です。
ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が先住民族と白人との混血です。
純血種はいません。

日本も中国も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
南米のようなことにならなかったのは、秀吉と配下の戦国武将たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を示したためです。

ちなみに、秀吉の死去にともなって、日本は朝鮮半島から撤収し、慶長の役は終わりました。
「だから朝鮮出兵は秀吉の気まぐれで起きた戦争だ」というのは、大きな間違いです。
半島に出兵した武将たちは、自ら進んで真剣に戦ったのです。

私たちは、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

そして「秀吉の朝鮮征伐」は、秀吉が「明国と《朝鮮半島で》戦った」事件という意味の言葉であることを、私たちはあらためて理解する必要があるものと思います。

※この記事は2020年10月のねずブロ記事の再掲です。

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