「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」
子供の頃、年号の暗記で、このように記憶した方は多いかと思います。
鎌倉幕府の成立といえば、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年がそのはじまり、と私たちは学校で教わりました。ところが最近の歴史教科書では、鎌倉幕府の成立は1185年、つまり源平合戦で壇ノ浦の戦いが行われた年が鎌倉幕府の成立だと教えるものがあるのだそうです。たいへん残念なことですが、これは、まったく日本の歴史をわかっていない者の歴史認識ということができます。

なるほど1185年に壇ノ浦で平家を滅ぼした源氏は、この時代にあって国内最大の武力を持つ集団となりました。その武力をもってすれば、朝廷そのものを打倒して、日本にまったく新たな政権を築くことさえも可能な情況でした。ところが源氏の棟梁である源頼朝は、意図して天皇の部下である征夷大将軍となる道を選択しています。また幕府というのは「出征中の将軍の府署」のことをいいます。将軍は、王でも皇帝でもありません。王や皇帝の部下です。つまり王や皇帝の御在所が別にあるから、将軍の出先が幕府となります。

頼朝の後、700年ほど続く武家政治のすべてが、この幕府という方針を継承しています。つまり1192年に頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉が幕府となったことで、「日本の民は天皇のおおみたから」という国家の根幹となる柱が継承され、それが今日まで続く日本の姿となっています。

ここに疑問が2つ出てきます。
ひとつは、頼朝がなぜ征夷大将軍という立場を選んだのかという疑問です。
もうひとつは、その幕府を、なぜ頼朝は鎌倉に置いたのかという疑問です。
そこで、この2つについて、述べてみたいと思います。

◆頼朝はなぜ征夷大将軍という立場を選んだのか

頼朝がなぜ征夷大将軍という立場を選んだのかについては、新しい歴史授業作りを提唱しておいでになる齊藤武夫先生のご著書の『授業つくりJAPAN 日本が好きになる歴史全授業』が、中学生向けにおもしろい授業を展開しておいでですので、これをご紹介したいと思います。

斎藤武夫先生の授業は、まず次の二択からはじまります。

(質問)みなさんが頼朝だったら、次のどちらを選びますか?
(答え)
 A 朝廷(天皇)を滅ぼし、新しい武士の政府をつくる。
 B 朝廷(天皇)から認めてもらって、新しい武士の政府をつくる。

Aは、実力で国を新しくつくりかえてしまうやり方です。古い政権が武力によって打倒され、新しい政権が始まるのは、中国の方式(易姓革命)であり、世界のあらゆる国の歴史にみられるやり方です。
Bは、天皇に「政治を行って良い」と認めれもらったうえで、朝廷とは別に武士の新しい政府を作るという考え方です。天皇中心という国の形は変えないやり方です。

齋藤先生の授業では、ここでは単に生徒にAかBかで手を挙げさせるのではなくて、子どもたちに5分ほど時間を与えてノートに理由も書かせ、生徒同士で話し合わせます。なぜそのようなことをするのかといえば、大化の改新と同様、鎌倉幕府誕生のこの授業こそが、日本のアイデンティティである「天皇中心の国」を学ぶ授業になるからです。

子供たちの討論のあとプリントが配布されます。それは「政治の天才源頼朝のアイデア」というプリントです。
引用します。

 *

【政治の天才源頼朝のアイデア】
源頼朝は「B 朝廷(天皇)から認めてもらって、新しい武士の政府をつくる」を選びました。頼朝は、当時の朝廷のリーダーだった後白河法皇にこんな手紙を書いています。
「私たちは朝廷をお守りするために平氏を滅ぼしました。
 法皇のご命令に背くようなことはいたしません」
そして頼朝は1192年に朝廷から征夷大将軍という位に任命されました。それは「武士のかしらとして政治を行なうことを許すぞ」という意味でした。頼朝は、朝廷を武力で滅ぼして自分が日本の王になる実力を持っていましたが、聖徳太子がつくった「天皇中心の国のかたち」を壊さないようにしたのです。
日本国のまとまりの中心は、あくまで天皇です。「武士はそのご命令で、これから日本の政治を進めていくのだ」というのが頼朝の考えでした。
こうして頼朝は1192年に鎌倉幕府という新しい政府をつくり、武士による武士のための政治を始めたのです。武士の政府のことを幕府といいます。そしてそのトップが征夷大将軍です。幕府のあった場所は鎌倉、いまの神奈川県鎌倉市です。この鎌倉に幕府があった時代を「鎌倉時代」と言います。
この頼朝のアイデアによって、天皇は國民のために祈り、武士が実際の政治を進めるというカタチが生まれました。天皇は、日本という国のまとまりの中心であり、実際の政治は武士の幕府がすすめるようになります。世界の歴史では、武力で勝る者が、古い支配者を滅ぼして新しい国をつくるのが普通です。我が国の武士たちは、「国の中心は天皇である」という考え方を変えなかったのです。
政治の天才頼朝のアイデアのおかげで、その後の室町幕府や江戸幕府においても、大昔から続いてきた「天皇を中心とする日本」が守られたのでした。このカタチは、いまも変っていません。国民は選挙で内閣総理大臣の政党を選びますが、彼は天皇に親任されなければ、内閣総理大臣にはなれません。

 *

この時代、田畑の所有者は、もともと古い時代に開梱されて、天皇や貴族たちの領地である、いわば「貴族荘園」、神社やお寺が保有している「寺社荘園」、新田の開墾百姓たちが保有している「新田」がありました。
貴族の荘園は、当然の事ながら、歴史も古いし貴族たちによって守られています。貴族は特に武装していたわけではありませんが、これらの田畑は歴史が古く、土地登記もされているもので、誰も文句を言えないし、紛争の種にもなることはありません。

お寺も、田畑を持っていました。これは主に信者からの寄進によるものですが、かなりの規模の田畑があり、大きなお寺の場合、土地争いから土地を護るために、武装した兵(僧兵)を多数抱えていました。神社も、大きなところは、領有地を持っていたところがあります。いまでも、たとえば伊勢神宮などは、宮司さんたちが食べるお米から野菜に至るまで、すべて境内内で自給自足です。ここは古くからの神聖な土地であり、武装などしなくても、国中の人々から守られた土地です。

そして、もうひとつ。貴族にも、寺社にもくみしない、まったく新たに開梱した新田がありました。これが「新田」です。新田は、貴族にも寺社にも所属していませんから、誰も守ってくれる人はいません。つまり自分たちで自衛する以外、土地を守ることができません。そしてその土地は、土地の境界や利水権や相続などで、それこそ今も昔も紛争の種になりやすいものです。けれどどこにも所属していないということは、紛争が起こったときにこれを調停してくれる者もいないということです。だからこそ開墾百姓たちは武装した自警団をつくり、それが後年、武士に育って行きました。

つまり鎌倉時代のはじめ頃の国内は、
1 公家たちの領地領民
2 寺社の領地領民
3 公家にも寺社にも所属しない令外の民(武士団)
という三層構造になっていたということができます。

そして化外の民である新田の開墾百姓たちは、土地や身を護るために、新たな統治機構を必要としたのです。そこに源氏や平家の誕生の理由があるし、頼朝の幕府開設の意味もあったわけです。そして頼朝が偉かったのは、武士たちが全体として(つまり国内の武士全部が)、頼朝が進んで朝廷の下にはいることによって、国を割らずに、むしろ国内を一体化するという選択をしたことです。そうすることによって、無益な戦によって世を荒らすことなく、新たな武士のための政権を無理なく樹立したわけです。

ですから鎌倉幕府ができたからといって、貴族たちの荘園や寺社の荘園は、何ら影響を受けていません。そこはあくまで貴族や寺社のものであって、鎌倉幕府の関知外のものであったのです。この状態は江戸時代までずっと続きました。国内の土地や民が、ひとつの政府のもとに一元化したのは、実は明治政府ができてからのことです。藩籍奉還によって、大名たちが天皇にすべての土地も領民もお返ししたのです。この選択があって、はじめて、日本国内の土地と民が一元化されているわけです。

そして、国内が公家所有、寺社所有、武家所有と三つに分かれていながら、鎌倉時代から江戸時代までの約700年間不都合が起きなかったのは、ひとえに、それらすべては天皇の土地であり民であり、天皇のおおみたからである、という認識が広く定着していたことによります。

◆なぜ頼朝は幕府を鎌倉に置いたのか

次に頼朝がなぜ鎌倉に幕府を置いたのかです。
源頼朝が幕府を、京の都から遠く離れた鎌倉に置いたことはみなさまよくご存知のことと思います。公家政治から武家政治へと、国家の政治組織の大改革を実現しようとするとき、その経営組織の要員をまるごと入れ替えることができるのなら、場所は京の都でも良かったはずです。けれど天皇を中心とした世の中という本質(国体)を崩すことなく、政治体制(政体)を改めようとするなら、政治の中心となる場所そのものを移動させる、その必要があったからこそ頼朝は幕府を鎌倉に開いています。

こうしたことがなぜ行われたのかを考えるには、まず日本神話が常識として共有されていなければなりません。
日本神話では、もともと大国主神が葦原の中つ国を治めていたとあります。ところがその統治の在り方が、必ずしも高天原の意向に沿うものでなかった、つまりウシハク統治となり、その結果、狭いところに蝿がブンブンと飛び回るような騒々しさと、まるで悪鬼悪紳がはびこったような享楽社会に陥っていたわけです。そのために天照大御神は、高天原と同じ統治が中つ国でもなされることを希望され、天孫を中つ国に派遣することを決断されます。これが「天孫降臨」です。

「天孫降臨」は、いまでは話がものすごく単純化されていて、「天照大御神によって邇邇芸命(ににぎのみこと)が中つ国に降臨した」とだけしか理解されなくなってしまっていますが、実はもっと深い意味があります。

まず天孫降臨をご決断されたのは、もちろん勅令は天照大御神のお名前によって発せられていますが、その政治的決断をしたのは、天照大御神を輔弼(ほひつ)された高木神と、八百万の神々との共同作業です。このことは、今風にいうなら、高木総理と閣僚たちが国会の承認を得て天孫降臨を決め、天照大御神の御名において、その命を下した、ということになります。そういうことが明確に区別されるように古事記には書かれています。

そして天孫として、新たな統治者となるべく中つ国に降臨した邇邇芸命は、おひとりで降臨されたのではなくて、五伴緒(いつとものおのかみ)といって、5柱の神々を降臨に際して同行させています。この五伴緒というのは、「伴」が技術集団、「緒」はその長(おさ)を意味します。つまり五伴緒とは、「五組の技術集団の長」という意味です。

では、どのような長を同行させたのかというと、
 天児屋命 「天児屋」は、天の小屋、つまり大工さん。
 布刀玉命 「布刀玉」は、布(織物)や玉や刀等を製造する職人さん。
 天宇受売命「天宇受」は、天の声を受ける巫女さん。
 伊斯許理度売命 石(いし)の鋳型を用いて鏡を鋳造する職人さん。
 玉祖命  勾玉などの宝玉を加工する職人さん。

つまり五伴緒のうち、天宇受売を除く4柱が全員「ものつくり」をする神様であり、その天宇受売は神々の命(みこと)を授かる神様です。巫女さんが同行するのは、万物は創世の神々がつくられたものであり、我々はその神々がお作りになったものを、利用し活用させていただいているという考え方に基づきます。すべては創世の神々のものなのですから、私たちはそれらを加工するにあたり、常に神々への感謝が必要になります。だからこそ天宇受売命が、4柱の職業神とともに同行しています。

こうして「モノつくり国家」としての日本のカタチが、まさに邇邇芸命の天孫降臨のときに、その第一歩が記されました。これはそれ以前にあった、社会体制とはまるで別なものです。どういうことかというと、それまでの大国主神の国家では、人々が自己の欲望を満たすことを優先する社会が営まれていたわけです。民衆がそれぞれに自己の欲望を満たすために努力する社会ですから、経済は発展します。水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。ところが、人々が個々の欲望を満たすために生きるということは、互いに欲と欲がぶつかり合い、相手よりも少しでも優位に立とうとして、互いに競い合う社会となります。人の欲望を満たせばカネになるわけですから、人々の欲望があおられ、より欲の深い者が自己の欲望を満たすために人を支配し、収奪します。結果、交易圏は広がるものの、誰もが少しでも利得を得ようと騒ぎ立てていますから、世の中は騒々しくなるわけです。そして騙し騙されの欲望や私心といった悪鬼悪神がはびこる世の中となり、その結果、世の景気が成長する一方で、圧倒的大多数の民衆は飢えと貧困下に置かれるわけです。

このことは近現代でも同じです。都市部の経済が活性化すると、農村部の生活は苦しくなります。人は食べなければ生きていけないのですから、食の生産はとっても大切なことですし、全体人口からすれば、都市部の人口よりも農村部の人口の方が圧倒的多数になります。
「そんなことはない。いまの日本では農業人口は少ない」と思われるかもしれませんが、いまの日本は鎖国国家ではありませんから、食料補給を海外からの輸入に頼っています。これは、いわゆる先進諸国も同じです。その結果、現在の世界の人口の70%以上がいまも電話を使ったことがなく、世界で3人に1人は戦時下に暮らしており、タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料が一日当たり5万5000ドルで、その帽子を作る工場労働者の年収の38年分という世界になっているわけです。つまり富がごく一部の人や地域に集中し、それ以外の圧倒的多数は貧困にあえぐようになってしまうわけです。

そうした社会は、もちろん高天原の希望するものではありません。だからこそ高天原は邇邇芸命を地上に降臨させるわけです。
その邇邇芸命は、五伴緒を連れて地上に降臨されました。
そして、都をそれまでの出雲から、宮崎の高千穂に移しました。
まったく別なところに都を置いて、そこでこれまでとはまったく違った国つくりをはじめられたのです。

その邇邇芸命は、高天原を出るに際して、地上を「高天原と同じ統治にしなさい」と言われています。
高天原は、神々の国です。
そこに奴隷はいません。すべてが、全員が神様だからです。
つまり邇邇芸命は、地上にいる民全員が八百万の神々と同じように尊厳を与えられた存在となるように、地上の統治を開始したのです。

そしてそのために必要なことは、誰もが豊かになることです。
そのためには、できあがった作物を奪う社会ではなく、「つくること」そのものが大切にされる社会への変革が必要です。これが西暦何年ごろのことかは、わかりません。天孫降臨の時期は、おそらくは出雲大社のご創建と同じ時期であろうと思われますが、その出雲大社自体、ご創建が古すぎて、いったいいつ頃ご創建となったのか、皆目わかりません。つまり、わからないくらい古い時代から、日本はモノ作り国家を志向してきたのです。

欲望社会は自分のために「奪う」社会です。
ものつくり社会は、人のために「つくる」社会です。
そして欲望社会における政治は、ウシハク者の収奪のための政治です。
ものつくり社会における政治は、つくるためにひとりひとりが大切にされるシラス社会です。
そこでは政治は庶民の生活をサポートするものが政治、という位置関係です。

だからこそ天孫降臨に際して、モノ作りの神様が五伴緒として同行し、政治の中心地も、それまでの出雲ではなく、新たに日向の高千穂に、都が設けられているわけです。
鎌倉幕府も、これとまったく同じことをしています。

鎌倉幕府は武家幕府ですが、当時の鎌倉御家人たちは、ほぼ全員農耕主です。わかりやすく言えば、貴族政治を、農民政治にあらためようとしたのが鎌倉幕府ということができます。その農村の地主さんが御家人と呼ばれたわけです。モノ作りではない点は、邇邇芸命と異なりますが、すでにこの時代には、政体に関わらずモノ作りは日本に完全に定着していたわけで、だからこそ、あらためて農耕を根底とした政権を、頼朝は誕生させています。しかもその政治の中心地は、大国主神のいた出雲ではなく宮崎の高千穂に天孫降臨したのと同様、それまでの政治の中心地であった京の都を離れて、鎌倉に幕府が開かれています。つまり源頼朝の鎌倉幕府の設立は、その原型が神話の世にすでにあったことを、あらためて再現したものなのです。

いまの時代、頼朝が鎌倉幕府を開いたということは学校で教わっても、なぜ鎌倉に幕府を開いたのかについてを教わることはありません。もちろんそれは諸説あることです。どれが正しいとはいえないことであることも事実です。けれど「どれが正しいかわからないから教えずに、そこは避けて通る」ということでは、教育の名に値しないと思います。そうではなくて、「なぜそうした選択をしたのか」を考えながら、自分なりの答えを見出していくことこそ、新時代を切り開く知恵と勇気を与えることになるのだと思います。

日本は、天皇を中心とし、天皇によってすべての民衆が「おおみたから」とされるという根底があります。これが日本の国の根幹のカタチで、これを「国体」と言います。そして政治体制、つまり「政体」は、その国体の中にあります。ですから、政体が変わっても、国体は変わりません。むしろ国体を維持するために、ドラスティックに政体をアップデートすることが可能な組織が、日本という国家の特徴なのです。

※この記事は2022年10月のねずブロ記事の再掲です。

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