「いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府」
子供の頃、年号の暗記で、このように記憶した方は多いかと思います。
鎌倉幕府の成立といえば、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年がそのはじまり、と私たちは学校で教わりました。
ところが近年の学校の教科書では、鎌倉幕府の成立を1185年、つまり源平合戦で壇ノ浦の戦いが行われた年が鎌倉幕府の成立だと教えているのだそうです。
どこぞの在日系の学者が、彼ら特有のファンタジー史観で「歴史を書き換えた」ものの一環ですが、まったく日本の歴史をわかっていない馬鹿者の行いと断じさせていただきます。
なるほど源頼朝は、平氏のように朝廷に拠らず、鎌倉幕府という新しい武家政権を樹立しまし、この時代における国内最強の武士団を保持していましたが、朝廷そのものの打倒などは露ほども思わず、天皇から、天皇の部下である征夷大将軍に任命していただき、またそうすることで天皇によって政権の正統性を承認してもらっています。
このことは頼朝が、天皇を国の中心とした聖徳太子の国作りの大方針を継承したということです。
そしてこの後、700年ほど続く武士の政治が、すべてこの方針を継承したことによって、日本は世界に類例のない国家の姿を今日まで伝えています。
そしてこのことは、我が国が武力による革命で、新しい王朝や国家を樹立したChinaや西洋のやり方を完全否定したことを意味します。
つまり頼朝の行動は、武家政権の樹立を、よその国々のような新国家樹立のうような形をとらず、あくまで政権交代の枠組みを保持したというところに、大きな意味があるのです。
つまり、鎌倉幕府の誕生は、実は、日本の国のカタチを学ぶ上で、とても重要な意味を持つものです。
武士は、もともとは平安時代の新田の開墾百姓が始まりです。
しかし新田を一生懸命に開墾しても、その土地を誰かに取られてしまうのは、さみしいことです。
そこで新田の開梱百姓たちは、公家出身者を棟梁にあおぐことで、自分たちの耕した土地の私有を守ろうとしたのです。
ただし、その私有も、現代日本における所有権の絶対性とは実は意味が違います。
なるほど新田は私有地ですが、その私有地にある土地も作物もすべては神々から与えられたものと考えてきたのが日本人です。
だから感謝する。
だから、食べるときには「いただきます」と両手を合わせるのです。
その神々と直接つながるお役目が、神官の中の大神官である天皇のお役目です。
だから天皇のことを「天子様」と言いました。
そしてこの世のすべてのものは、草木一本にいたるまで、神様のものです。
人は、それを生きるために使わせていただいている。
ということは、家も土地も、そもそもの所有者は神々であり、神々の直系の子である天皇が現世における所有者です。
つまり国土国民のすべては、天皇のものです。
そしてその天皇が、民百姓を「おほみたから」とされている。
だから民百姓は、権力者の隷民ではないのです。
もちろん権力者の私有物でもない。
大名や豪族たちの私物でもない。
だから百姓なのです。
昨今、この百姓という言葉を「差別用語だから農民と読み替えなさい」などと、これまたわかったような馬鹿を言っている先生がたがおいでになります。
こういうのを屁理屈といいます。
そもそも日本人というのは、差別をして悦に入るようなどこぞの姑息な民族とはわけが違うのです。
百姓というのは、「百の姓」です。
百というのは文武百官の「百」と同じで、「たくさんの、数多くの」を意味します。
そして民衆が持つ姓は、天皇から与えられた栄えある姓なのです。
鈴木さんにせよ、佐藤さんにせよ、天皇から与えられた姓が、その大元になっています。
胸に大きな誇りがあるのです。
「そんじょそこらのポッと出の
わけのわからん連中とは違うんだ。
俺っちは大昔に天皇様から姓をいただいた
由緒ある家柄だ。
奉行だの国司だの地頭だの、何するものぞ!」
というわけで、みんなで力を合わせてひとつになることを「一揆」といいますが、みんながひとつになって代官所の押しかけデモをした。それが百姓一揆です。
いまでも街宣デモに参加される方がおいでになると思いますが、その中の誰一人として、自分が奴隷のような目に遭っているからデモに参加しているという人はいないと思います。
そこが諸外国と日本の事情の違うところです。
冒頭に、壇ノ浦の戦いによって鎌倉政権が誕生したと記している教科書を、「歴史をわかっていない馬鹿者」と呼ばせていただきました。
馬鹿だと呼ばれても仕方がないことだと言わせていただきます。
そもそも我が国に、鎌倉政権なる歴史用語はありません。
あるのは「鎌倉幕府」です。
そして「幕府」というのは、そもそも「出征中の将軍の府署」のことです。
将軍は、王ではないし、まして皇帝でもありません。
将軍は、王や皇帝の部下です。
王や皇帝の御在所が別にあるから、出先が幕府となるのです。
なるほど壇ノ浦の戦いで源氏は平氏に勝ちましたが、これはただ勝ったというだけです。
いまで言ったら、選挙で源氏党が勝って、政権与党の座を奪い取ったようなものです。
その与党第一党の党首は、天皇に親任されて、はじめて内閣総理大臣となります。
いまの憲法の是非はともかくとして、GHQによって与えられた憲法ですら、天皇によって親任を受けて、はじめて総理も他の大臣も、その権限を行使することができる、としているのです。
このことは、会社の人事発令と同じです。
いくら部長や課長の内示を受けたとしても、正式に人事から「◯月◯日を以て◯◯部長に任ず」という辞令を発表しない限り、その人は、当該部長、あるいは課長等としての権限の行使はできません。
与党第一党の党首は首班使命を受けますが、総理大臣として、その権限を行使できるのは、天皇の親任が行われてからのことです。
総理と天皇とどちらが上かというのなら、明らかに天皇が上です。
鎌倉幕府もこれと同じです。
源頼朝は、天皇から征夷大将軍に任じられて、そこではじめて全国の武士に号令する権限を得たのです。
全国には、様々な豪族集団があり、それぞれに武士団を形成していました。
けれどその武士団は、日本の武士団である限り、そのひとりひとりは天皇の「おほみたから」です。
従って、全国の「おほみたから」に号令する権限は、天皇から武家の頂点としての征夷大将軍に任じられて、はじめて、それが可能になるのです。
日本に住みながら、日本人でない人たちには、この理屈がわかりません。
わからないというより、自身が権力者となりたい欲望が強すぎて、見えなくなっているのかもしれません。
いずれにしても、日本の歴史を理解しない、それは曲学阿世の徒というべきであろうと思います。
※この記事は2017年10月の記事のねずブロ記事のリニューアル再掲です。