拉孟(らもう)の戦いは、昭和19年の6月から9月まで、ビルマとChinaの国境付近で行われた壮絶な戦いです。
守備隊は最後の一兵までこの地を守り抜き、120日間という長期戦を戦い抜いて玉砕しました。
守備隊1千280名のうち、300名はほとんど体の動かない傷病兵でした。
なかに15名の女性もいました。

遅いかかった敵は5万の大軍です。
是が非でも援蒋ルートを確保したい蒋介石が、国民党最強といわれる雲南遠征軍を拉孟に差し向けたのです。
それは米国のジョセフ・スティルウェル陸軍大将が直接訓練を施した、米軍式の最新鋭装備の軍でした。

戦いの末期、守備隊に飛行機で拉孟に物資を届けた小林中尉の手記があります。
「松山陣地から兵隊が飛び出してきた。
 上半身裸体の皮膚は赤土色。
 スコールのあとで、
 泥にベタベタになって
 T型布板の設置に懸命の姿を見て、
 私は手を合わせ拝みたい気持ちに駆られた。
 印象に深く残ったものに、
 モンペ姿の女性が混じって
 白い布を振っている姿があった。
 慰安婦としてここに来た者であろうか、
 やりきれない哀しさが胸を塞いだ」

上空からみた拉孟を死守する我が軍の周囲が全部、敵の陣地と敵兵によって埋め尽くされていました。
小林機は、低空から2個の弾薬包を投下しました。
これに応えて守備隊の兵や女性たちが、手をちぎれるほど振りました。

小林中尉はこの何分か何十分後かに戦死しているかもしれない彼たち、彼女たちの顔を心に刻み込もうと、飛行機から身を乗り出すようにしました。
けれど溢れる涙で眼がかすみ、前が見えなくなったといいます。

熱い思いに駆られた小林中尉は、弾薬包を投下したあと、直ちに離脱すべしとの命令だったのですが、敵の弾幕をくぐって急降下し、あらんかぎりの銃弾を敵陣に叩き込んだそうです。
愛機を敵弾が貫きました。
体を弾がかすめました。
それでも弾倉が空になるまで、撃ち続けたのです。
痛いほど気持ちがわかる気がします。

守備隊に混じっていた女性たちは、軍人ではありません。
軍とともに移動してきた慰安婦たちでした。
慰安婦と言えば聞こえはいいですけれど、要するに売春婦です。

現代の倫理では理解できないと思うけれども、売春は人類の社会史始まって以来の女性の職業でした。
東西の文学にも、パリのオルセー美術館の名作にすら、それは登場しています。
まして健康な青年の集団です。
何処の国の軍隊にもそれは付随しました。
無いのは自衛隊くらいではないでしょうか。

それは決して陰惨な存在ではなく、前線近い日本の兵隊が如何に彼女たちを大切にし、彼女たちも誠心それに応えたかは、歴戦の下士官であった伊藤桂一氏の著作に屡々活写されています。
彼女たちは戦いが始まるずっと前に、
「ここは戦場になる。
 危ないから帰れ」と、勧められていました。
けれど彼女たちは帰りませんでした。

拉孟にいたら生きて帰ることはできないかも知れません。
しかし彼女たちは兵士たちと家族のように親しくしていました。
男と女の情が通っていたのです。
そこを離れるということは、彼女たちにとって、肉体が生きていても、心が死ぬことを意味しました。
だから無理に帰そうとすれば、女たちは薄情だと怨みます。
彼女たちは、自分たちも守備隊の一員と考えていたのです。
こうして20名いた女たちのうち、朝鮮人女性5名だけが先に拉孟を離れ、日本人の15名は戦場に残っていました。

戸山という伍長がいました。
戸山伍長は戦いが始まる前、折に触れては女たちの中の、あきこという女性に辛く当たっていました。
あきこさんは美人でした。
そのあきこさんに、戸山伍長は、
「おまえは道具じゃないか」と罵ったのです。
腹をたてたあきこさんは、以後、戸山伍長がいくら金を払うと言っても、一切そばへも寄せ付けませんでした。

戦いがはじまりました。
戸山伍長は爆風で両目を失ってしまいました。
看護をしたのは、あきこさんでした。

二人は結婚を約束しました。
戸山伍長は、ほんとうはあきこさんのことが好きだったので辛く当たっていたことを、女の直感でちゃんと彼女も知っていたし、男っ気の強い戸山伍長に惚れていたのである。

二人は、戦いの中で仲間たちに祝福されて三三九度をかわしました。
そこは戦場です。
結婚したところで幸せな家庭も、可愛い赤ちゃんも、望むべくもありません。
「けれど」と二人は言いました。
「もし来世があるのなら、
 その来世で心も体も真実の夫婦となりたい」

婚儀の数日後、戦場に戸山伍長と、そばに寄り添う妻あきこさんの姿がありました。
あきこさんは、全盲の戸山伍長の眼になって、手榴弾投擲の方向と距離を目測し、伝えていました。

その日の第三波の敵が来襲しました。
敵の甲高い喚声を聞いた戸山伍長は、
「少年兵?」と昭子さんに聞きました。
そして手榴弾の信管を抜こうとした手を一瞬止めました。

砲弾が唸る中、あきこさんは、
「十五、六の少年兵ですよ」と叫びました。
敵兵とはいえ、相手は年端もいかぬ子供です。
あきこさんも躊躇しました。

そのとき敵の少年兵が投げた手榴弾が夫婦の足元に転がってきて、轟音とともに炸裂しました。
戸山伍長とあきこ夫妻はともに壮烈な戦死を遂げました。
戦場で死を待つばかりで子を持つことも叶わない二人は、たとえ敵兵といえども、少年を殺すことがはばかられたのでしょう。

最後の突撃の日、先頭にはその時点で指揮官となっていた真鍋大尉が立ち、その後ろに聯隊旗手として黒川中尉、そのまた後ろを、かろうじて動ける兵たちが、一塊になりました。
突撃の前に、自力で歩けない兵たちは、互いに刺し違えました。
意識のない兵、手も足も動かせぬ重傷兵は、戦友がとどめを刺しました。

生き残っていた女性たちは、先立ったあきこさんを除く14名でした。
彼女たちは、何より大切にしていた晴着の和服に着替えました。
戦場のススで汚れた顔に口紅をひき、次々に青酸カリをあおりました。
この日まで、喜びも悲しみも辛さも苦しさも分け合ってきた男たちの運命に殉じ、彼女たちは、
「共に戦死した」
のです。

この物語には、後日談があります。
玉砕の当日、報告行の命令を受けた木下中尉が、奇跡としか言いようのない生還を果たしました。
木下中尉は、辛うじて第56師団の前線に辿り着いて戦闘の様相を克明に報告しました。

重傷の兵が片手片足で野戦病院を這い出して第一線につく有りさま。
空中投下された手榴弾に手を合わせ、必中の威力を祈願する場面。
尽きた武器弾薬を敵陣に盗みに行く者。
そして15名の慰安婦たちが臨時の看護婦となって、弾運びに、傷病兵の看護に、または炊事にと健気に働いた姿など、語る木下中尉も、報告を受けた56師団の面々も、涙あるばかりだったといいます。

この戦いの中、蒋介石が次のような督戦状を発しました。
「騰越(とうえつ)および拉孟において、
 日本軍はなお孤塁を死守している。
  (中略)ミートキーナ・拉孟・騰越を
 死守している日本の軍人精神は、
 東洋民族の誇りであることを学び、
 これを範として我が国軍の名誉を失墜させるべからず」

この督戦状は蒋介石が、自軍の督戦のために出したものですが、逆に日本陸軍の優秀さ、強さを讃える内容になっていることから、後に「蒋介石の逆感状」と呼ばれています。

拉孟ばかりではありませんが、遠く離れた異国の地で、最後まで死力を尽くした男たちがいました。女たちがいました。
過酷な戦場の中に咲いた一輪の花のような恋もありました。
今生では子は望めないと覚悟した二人が、敵とはいえ少年の命をかばって自らの命を失いました。
こうした一つ一つが、決して忘れてはいけない私たち日本人の心であり、日本の歴史なのだと思います。

※この記事は2017年10月のねずブロ記事の再掲です。

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