天明3(1782)年3月12日、青森県弘前市にある岩木山が爆発しました。
次いで同じ年の7月6日、長野県軽井沢の浅間山が大噴火しました。
二つの大噴火は北日本を中心に大量の火山灰を降らせ、これによって東日本を中心に深刻な冷害が発生しました。
そして農作物に壊滅的な大凶作をもたらしました。

これが「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」です。
江戸四大飢饉のひとつであり、我が国の近世以降における、最大の飢饉です。

このときの幕府の老中が、有名な田沼意次(たぬまおきつぐ)です。
この人は積極的な財政出動によって重商主義をとり、江戸の貨幣経済化を一気に加速して、世の中に空前の好景気をもたらしました。

貨幣経済は、二次産業、三次産業といった都市部での町人経済を活性化させます。
しかしその一方で農村部の貧困化を招きます。

これは実に簡単な理屈です。
商業は、できるだけ安く仕入れて、できるだけ高く売ろうとします。
当然、一次生産を行う農家は、常に買い叩かれる立場になります。

好景気で力を得た商家は、作付け前に農産物の買い付けをします。
世の中はインフレ経済です。
物価は上がる一方ですから、先に買っておけば、その分、安く仕入れることができます。
農作物ができる頃には、作物の値段は上がっていますから、商人はボロ儲けとなります。
その分、農家は貧しくなります。
どういうことかというと、農産物の作付け前に、たとえば大根1本100円で買うわけです。
この時点での大根の市場価格が110円であったとすると、商人の利益は10円ですが、インフレが進むと畑の大根を収穫して納品する頃には、大根1本が120円になっているわけです。

一方、大根の作付け前の時点での農家の一ヶ月の生活費が1000円であったとしても、納品する頃には、1200円なければ生活できないのです。
ところが、収入は1000円しかないのですから、当然、その分、生活が苦しくなります。
そういうところに、火山の大爆発と、これに伴う大凶作が襲ったのです。

作物の量が少ないわけですから、農産物の価格相場は青天井で高騰します。
けれど、先に代金をもらっている農家には、作付け前の所得しかない。
結果、農家の生活は一段と厳しいものになってしまいます。
生活が成り立たなくなるのです。

当時の様子について、杉田玄白が著書の『後見草』に、
「東北地方の農村を中心に、全国で約2万人が餓死した」と書いています。
ただし、江戸封建体制というのは、これがややこしくて、この数字は諸藩が、藩政失政の責任で改易などの咎(とが)を恐れながら被害の深刻さを表沙汰にした、いわば表向きの数字です。

ですから実際には被害はもっと深刻で、たとえば弘前藩では、餓死者が8万~13万人も出たとも伝えられています。
逃散まで起こって藩の人口の半数近くがいなくなっています。

飢饉というのは、単に景気が悪くなるだけとか、食べ物が不足するだけといったものではありません。
食べ物が不足して庶民の栄養状況が悪くなると、追い打ちをかけるように疫病が襲うのです。

東北の雄藩といえば、伊達政宗で有名な、仙台の伊達家62万石です。
伊達家は、全国の諸藩のうち第三位の石高とされましたが、実際には藩をあげての新田開発などの努力をした結果、江戸中期には、実際の石高がなんと250万石に達していました。
要するに、きわめて豊かな藩だったのです。
そんな豊かな藩でさえ、この飢饉のときは、「仙北諸郡一揆」と呼ばれる大規模な一揆が起きています。

寛政9(1797)年4月、追い詰められた伊達藩田村領13ヵ村の農民たち1300名余りが結集しました。
彼らは、18カ条におよぶ「峠村惣御百姓共口上書(とうげむらそうおひゃくしょうどもこうじょうしょ)」を掲げて、同年4月23日と、5月17日の二回にわたって一関(いちのせき)方面に押しかけました。

ここで少し説明が必要です。
江戸時代の一揆というと、むしろ旗を立てた農民たちが、奉行所や商家などを襲って「打ちこわし」と呼ばれる乱暴狼藉を働き、お蔵の米などを奪ったといった点ばかりが強調されますが、江戸260年を通じて、そのような乱暴な一揆が起こったというのは、ほとんどありません。
まれに大阪で蔵米を大量に買い占めた商家が襲われたといった事件もありましたが、それなどはほとんど例外的なものでしかありません。

一揆の「揆」という字は、東西南北から人が集まることを意味する漢字です。
ですから「一揆」は、集まった人々が心をひとつにして集団で何事かを訴え出る意味の用語です。
いまでも国会周辺などで、年中デモがありますが、江戸時代にはデモという外来語はありません。
要するに、現代用語の「デモ」代りに使われた言葉が「一揆」だったのであって、現代でデモがあれば、必ず同時に略奪が横行することが日本ではまったくないといえるのと同様、江戸時代においても、一揆があったからといって、それが暴動になることは、まず滅多になかったのです。

ただ現代日本と違うところは、民に不満があって、それが農民デモに発展したとき、現代日本なら、ただそこでデモが行われたということだけにすぎませんが、江戸時代には、そのことが管轄の奉行や知行をしている武士の責任問題になった、という点です。

およそ奉行や知行取りの武士の最大の職務は、「天子様のおほみたから」である民が、豊かに安全に安心して暮らせるようにすることです。
その民に不満があるから一揆が起こるわけです。
ということは、一揆はその地を管轄している奉行もしくは知行武士の責任です。
民が一揆など起こさなくても、豊かに安全に安心して暮らせるようにすることが奉行や知行者の仕事なのです。
それができていないから一揆になる。
そうであれば、それが誰の責任かは、あまりにも明白です。
従って、一揆はないことが好ましいと武士が考えるのは当然のことで、ですから全国どこでも、基本的に一揆は御法度、つまり禁止事項です。

この「仙北諸郡一揆」は、それまで一揆のなかった伊達藩にしてはめずらしく大規模なものでしたが、何年も続いた飢饉の影響で、大規模な一揆になりました。

鎮圧に赴いた伊達藩の奉行は、一揆の代表者から、口上書を受取りました。
受け取ったということは、その訴状の内容について、しっかりと対応する、ということです。
ただし、「一揆のために藩が折れた」となれば、藩が力負けしたことになります。
これでは藩の秩序が乱れます。
なぜなら、暴れれば意見が通るという、まずい先例を作ることになるからです。

伊達藩の奉行は、峠村(とうげむら)の総訴人代表の組頭千葉惣左エ門(35歳)と、蛭沢の組頭藤十郎(42歳)を逮捕しました。
そして一揆に、解散を命じました。

翌、寛政10(1798)年の冬、百姓一揆の統頭人である千葉惣左エ門は落首の御仕置になりました。
藤十郎は女川沖の江ノ島に遠島となりました。

惣左エ門の家は、親子三代が一つ屋根の下で暮らす旧家でした。
一揆を起こした自分が咎めを受けるのは仕方がないけれど、家族の命が犠牲になることは、とても心配なことです。

事件は藩公も関与して、最終的な判決が決められました。
そしてこのときの伊達藩の裁きは、首謀者の惣左エ門、ただひとりを死罪、親類縁者にお咎めなしというものでした。

「家族が無事だった。」
判決を聞いた惣左エ門は、あまりの温情判決に、涙を浮かべました。
奉行が千葉惣左エ門に直接、語りかけました。

「惣左エ門。
 其方(そのほう)の命を無駄にはせぬぞ。
 訴状の事しかと報いるによって、
 心おきなく旅立てよ」

これを聞いた惣左エ門と藤十郎は、
「有り難き御裁き。
 心残り無く参られます」
と涙にむせびました。

温かい裁きもさりながら、藩政改革に努め、農民たちの願い、農民たちのための政治を約束してくれた。
死罪は惣左エ門ただ一人です。
思い残すことはない。

藤十郎は遠島ですが、遠島なら、いつの日にか再び故郷の土を踏むことができます。
惣左エ門は、藤十郎が死罪を免れた事を心から喜びました。
年上の藤十郎は「済まぬ」と、惣左エ門の手を握って離しませんでした。

裁きの日から二日後、藩から、
「種籾の給付が裁可され、
 何とかみんなの作付けが
 間に合いそうだ」
という話が、牢内の惣左エ門にもたらされました。

「よかった。
 これでみんなが救われる。」

5月10日、刑場に曳かれた惣左エ門は、斬首の刑に処せられ、莞爾として旅立ちました。

冒頭の写真のお地蔵さんは、惣左エ門を「義民」としてたたえ、その霊にたいする供養と感謝の意味を込めて当時の人たちが建立したものです。
このお地蔵さん、建立されたころは、首がなかったのだそうです。
なので、いつの頃からか「首切り地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

頭部は昭和4(1929)年につくられて、現在の姿になっています。
地元の人々は、建立から200年以上経った今でも、お地蔵様となった千葉惣左エ門をねんごろにご供養しているのです。

このお地蔵さんは、千葉惣左エ門の生家近くの県道藤沢線沿いの割山の頂上付近においでになります。

日本人は、歴史を忘れないのです。
そしてそのDNAは、現代日本人にもしっかりと息づいています。

※この記事は2018年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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