尋常小学修身書巻五から、加藤清正(かとう きよまさ)のお話をご紹介したいと思います。
いくつか、たいせつなポイントがあります。
これについては末尾に記載します。

 ***
「信義」

加藤清正は、豊臣秀吉と同じく尾張の人であります。
三歳のとき、父を失い、母の手で育てられていましたが、母が秀吉の母といとこの間柄でしたから、後ろには秀吉の家に引き取られて育てられました。
15歳のとき、一人前の武士として秀吉に仕え、たびたび軍功をたてて、次第に立派な武将となり、後には肥後(ひご)を領して秀吉の片腕となりました。

秀吉は、その頃乱れていた国内をしずめ、さらに明国を討つために、兵を朝鮮へ出しました。
清正は、一方の大将となって彼の地へ渡りました。

清正の親しい友だちに、浅野長政という人がありましたが、その子の幸長(よしなが)も、朝鮮に渡って勇ましく戦っていました。
ところがあるとき、幸長が蔚山(うるさん)の城を守っていたところへ明国の大兵(たいへい)が攻め寄せてきました。

城中には兵が少ない上に、敵が激しく攻め立てるので、城はたちまち危なくなりました。
そこで幸長は使いを清正のところへやって救いを求めました。

清正の手もとには、敵の大兵に当たる程の兵力がありませんでした。
けれども清正は、その知らせを聞くと、

「自分が本国を発つとき、  好長の父・長政が、  くれぐれも幸長のことを自分に頼み、  自分もまたその頼みを引き受けた。  いまもし幸長を早く救わなかったら、  自分は長政に対して面目が立たない」
と言って、身の危険をかえりみず、部下の五百騎を引き連れて、すぐに船で出発しました。

味方の船は、わずかに20艘ばかり。
清正は、銀の長帽子(ながぼうし)のかぶとをつけ、長槍をひっさげ、船の舳先(へさき)に突立って部下を
指揮し、手向かってくる数百艘の敵船を追い散らし、囲みを破って蔚山の城に入りました。
それから幸長とここに立て篭もり、力を合わせて明国の大兵を引受け、さんざんにこれを悩ましました。

そのうちに兵糧(ひょうろう)が尽き、飲み水もなくなって、非常に難儀をしましたが、とうとう敵を打ち破りました。

格言「義ヲ見テ為(せ)ザルハ勇ナキナリ」

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信義に厚かった清正のエピソードですが、日本男児として、清正の行動から学ぶべきものは多いと思います。

さて、一点目。
文中に「明国の大兵(たいへい)が攻め寄せた」という記述があります。
よく「秀吉の朝鮮征伐」と言いますが、これは戦いがあった場所が半島であったことを言っているのであって、秀吉の軍が戦ったのは、あくまで明国の将軍とその兵であったことを示します。
日本が戦ったのは、あくまで明国であって、李朝ではないのです。

そもそもこの時代、李氏朝鮮は、いわゆる国民国家ではありません。
李朝という王朝が半島の王を名乗っていましたが、当時の李朝の王というのは、いわば暴力団の組長のようなもので、半島内できちんとした行政を行っていたわけではありません。
李朝の王と貴族があり、それ以外の半島人は、名前もないただのケモノとして半島に生息していると同じように考えられていました。

ですから半島では国民国家としての国民教育も行われず、そこに住む半島人も、ですから自分たちが李朝の国民であるという意識も認識もありません。
そのような状況が半島では、およそ500年にわたって続いたのです。
恨むなら、日本ではなく、自国の歴史にしてもらいたいものです。

このような情況ですから、戦いが始まっても、半島人にとっては、外国人たちが自分たちの土地で勝手に戦っているという認識程度しかなかったし、まして国を守るなどという意識も認識も、まったくありません。
従って「秀吉の朝鮮征伐」という言葉は正確なものではなく、本来なら「秀吉の明国征伐」とすべきものです。

二点目。
加藤清正といえば、剛の武将として知られています。
強くて男らしくて勇ましくて人望がある。そのように見られていると思います。
そのとおりと思います。

けれど、もうひとつ大切なことがあります。
それは、信義に厚い武将であった、ということです。

およそ「強い」というなら、清正よりももっと強い武士はいたことでしょう。
男らしいという意味では、顔立ちや立ち振舞が、清正よりももっと男らしい人もいたことでしょう。
勇ましさというなら、清正以上に勇ましい人は、当時もいたものと思われます。
人望という意味でも、清正以上の人はきっといたことでしょう。

けれど、それらどんな人々よりも加藤清正が武将としていまに名を残しているのは、清正がなにより信義に厚い人であったということではないかと思います。
信義とは、信頼のために我が生命を羊のように神に捧げることを言います。
自分の命よりも、信義を大切にする。
そんな清正に接した人は、きっと魂が慄(ふる)えたことでしょう。
「この人の為なら命も要らぬ」、そう思えたことでしょう。

「武士は己を知るもののために死す」といいます。
それは、言葉を変えれば「信義に答える」という意味です。

上にご紹介した修身の教科書の記述のタイトルは「信義」です。
「信」とは、平たく言えば「約束を守ること」です。
言ったことは守る。時間を守る。約束したことはちゃんと果たす。
「義」とは、神に羊を捧げるように、我が生命を捧げることを言います。
つまり約束を守ることに、我が生命を捧げることが「信義」です。

もっと端的にいえば、「いまだけ、カネだけ、自分だけ」の思想上に信義は成立しません。
「いまだけ、カネだけ、自分だけ」は、いまこの瞬間に、幸運な一部の人にだけ巨額の富をもたらします。
けれど、富というものは、おなじひとつのパイの奪い合いです。
誰かが得をした分だけ、誰かが損をするのです。

けれど、みんなが豊かになる方法もあります。
それが「信義」です。
経済は、本来、約束を守ることによって成り立ちます。
約束を守り続ければ信用が増し、破れば信用が失われます。

江戸の昔、武士の借用書は、「もし期日に支払いなくば、人前でお笑いくだされても構いなく候」と記されていました。
約束を破ったら、ただ笑われる。
それだけの約束で、債務がきちんと履行されたのです。

そうした背景があったからこそ、明治のはじめに超貧国だった日本は、ものの20年で世界の5大国の仲間入りをするまでになれたのです。

逆に現代日本は30年経っても経済の成長がありません。
なぜかといえば、信用が常に破壊され続けているからです。
信用を守ること、期待に応えることといった日本古来の社会常識は、政治経済メディアに外国人が浸透するほどに、それらは「くさい」こととして失われ、信頼を踏みにじっても自己の利益ばかりを図ることが、あたかも社会常識でもあるかのようにもてはやされてきました。
それで経済や社会が良い方向に向かうなど、そもそもありえない話です。

一昔前まで、加藤清正がたいへんな人気を博したのは、多くの日本人が「信義」の大切さを自分の人生に重ねていたからにほかなりません。
一方、近年の日本で、加藤清正を知る人が減っている現実は、日本人が「信義」を失いつつあることの、ひとつの象徴であるように思います。

日本再生のために信義を尽くす。
それがいま、日本人に求められているひとつの課題といえるのではないでしょうか。

※この記事は2019年10月の記事のリニューアルです。

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