日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊があります。
この飛行隊は、NHKや、フジテレビ、テレビ東京などで、
「特攻を拒否したヒューマニズムあふれる航空隊」
として紹介されています。

なるほどこの芙蓉部隊は特攻攻撃をせず、終戦時まで戦力を蓄え、果敢に米軍への攻撃活動を継続しているのですが、その隊長であり、芙蓉部隊の創設者である美濃部正(みのべただし)海軍少佐は、次のように述べてヒューマニズム説を明確に否定しています。

「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。  それは戦いの勝ち負けを度外視した  戦後の迎合的統率理念にすぎません。  当時の軍籍に身を置いた者には  負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。  私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり  特攻またやむをえずと今でも考えています。  戦いのきびしさは、  ヒューマニズムで批判できるほど  生易しいものではありません。  ーーー美濃部正」

美濃部少佐は、戦後も生き残り、航空自衛隊に身を置かれて最終は空将として後進の指導に当たられました。

美濃部正少佐は、旧姓を太田といます。
昭和16(1941)年11月にご結婚され、姓が美濃部と変りました。
海軍兵学校は、第64期で、最初は水上偵察機のパイロットをされていたそうです。

昭和18年11月に、ソロモン諸島の水上機を装備した航空隊の飛行隊長に就任し、そこで水上偵察機を利用して、夜間策敵や敵基地の夜襲を行い、大戦果をあげています。
昭和19年1月には、水上機たった一機で敵の飛行場を爆撃し、大成功をしています。

このあたりのことについて、すこし解説が必要かと思いますので、ちょっとだけ脱線します。

大東亜戦争の転機となった時点について、戦後、多くの識者は、昭和17年6月の「ミッドウエー海戦」を掲げます。
ミッドウエーでは、たしかにそれまで連戦連勝だった帝国海軍が、初といっていい大敗北を喫しましたから、そう思われても仕方がない節があるかもしれません。
けれどミッドウエーで日本海軍が失ったのは、空母4隻と航空機285機にすぎません。
この時点で帝国海軍には、まだまだ十分な余力がありました。

それよりも日本が戦力を大幅に消耗したのは、実は、ミッドウエー海戦の後に行われた、ソロモン諸島の戦いです。

この戦いは、昭和17年8月から昭和18年11月まで、1年以上に渡って行われた戦いで、日本は8万人の将兵を戦死により失い、艦船50隻、航空機1500機を喪失しました。
もちろん米軍の側もたいへんな損害を出しており、米軍発表で戦死11000人、喪失した艦船40隻、航空機800を失っています。
要するに、日米両軍とも大消耗戦を戦い、最終的に日本がガダルカナル等の拠点を放棄して、戦線を縮小し、撤退したのです。

ではなぜソロモン諸島で、両軍がこれだけの大消耗戦を行ったのでしょうか。
理由は、ひとことでいえば米軍が「戦法を切り替えた」ことにあります。
それまでの米軍は、米海軍の機動部隊による日本統治領への進出を作戦の主体にしていました。
ところが黄色い猿と見下していた日本側があまりに強い。
米海軍は、空母やら艦船、あるいは航空機が次々と撃墜されたり沈没させられたりしていたのです。

そこで米軍が考えたのが、陸上の飛行場の建設です。
まず日本軍がやってこない後方に飛行場を建設する。
そこから飛行機を発進させ、日本軍の基地を叩く。
日本軍が防戦している間に、前線に米軍の飛行場を建設する。

空母ですと、強力な日本の航空隊に空母ごと沈められてしまうため、陸上に飛行場を建設しようというわけです。
南方の島々は、珊瑚の島だから、基本、土地が平坦です。
そこにブルドーザーを持ち込んで、一気に木々をなぎ倒し、鉄板を敷いて滑走路にしてしまう。

普通に私たちの現代の感覚から見ても、成田に飛行場をひとつつくるだけでも、膨大な期間を要する大工事が想像されます。
それを彼らは一夜のうちに実現しました。
当時の日本軍にしてみれば「まさか」の出来事であったわけです。

陸上の滑走路は、上に枯れ葉を敷き詰めたネットを敷くことで、簡単に偽装できました。
ですから日本軍からしてみれば、米軍の飛行機がどこから飛んでくるかわからない。
きわめて単純でわかりやすい戦法ですが、この単純な戦法で、日本は7000機を越える航空機と、7200人のパイロットを失っています。
ミッドウエーの比ではなかったのです。

米軍のこの作戦で、日本は1年半後には、この地域から残存空軍をすべて撤収することになりました。
昭和19(1944)年12月に内地に帰還した美濃部少佐は、米軍の行ったこの作戦を、日本本土を守るために逆用しようと考えます。

彼はまず、日本本土の後方に前線攻撃のための航空機基地を構築を進言し、これを実現しました。
本土防衛のための防空基地ではありません。
攻撃のための基地です。
場所は静岡県藤枝市、現在の航空自衛隊静浜基地です。

そして昭和19年12月から、翌昭和20年1月にかけて、まず優秀なパイロットをこの基地に集めました。
また、艦上爆撃機として生産されながら故障が多いからと放置されていた水冷式エンジン搭載の「彗星」を、この基地に集結させました。

日本海軍に、終戦時まで大活躍した「芙蓉部隊(ふようぶたい)」と呼ばれる飛行隊があります。
この飛行隊は、NHKや、フジテレビ、テレビ東京などで、
「特攻を拒否したヒューマニズムあふれる航空隊」
として紹介されています。

なるほどこの芙蓉部隊は特攻攻撃をせず、終戦時まで戦力を蓄え、果敢に米軍への攻撃活動を継続しているのですが、その隊長であり、芙蓉部隊の創設者である美濃部正(みのべただし)海軍少佐は、次のように述べてヒューマニズム説を明確に否定しています。

「戦後よく特攻戦法を批判する人があります。  それは戦いの勝ち負けを度外視した  戦後の迎合的統率理念にすぎません。  当時の軍籍に身を置いた者には  負けてよい戦法は論外と言わねばなりません。  私は不可能を可能とすべき代案なきかぎり  特攻またやむをえずと今でも考えています。  戦いのきびしさは、  ヒューマニズムで批判できるほど  生易しいものではありません。  ーーー美濃部正」

美濃部少佐は、戦後も生き残り、航空自衛隊に身を置かれて最終は空将として後進の指導に当たられました。

美濃部正少佐は、旧姓を太田といます。
昭和16(1941)年11月にご結婚され、姓が美濃部と変りました。
海軍兵学校は、第64期で、最初は水上偵察機のパイロットをされていたそうです。

昭和18年11月に、ソロモン諸島の水上機を装備した航空隊の飛行隊長に就任し、そこで水上偵察機を利用して、夜間策敵や敵基地の夜襲を行い、大戦果をあげています。
昭和19年1月には、水上機たった一機で敵の飛行場を爆撃し、大成功をしています。

このあたりのことについて、すこし解説が必要かと思いますので、ちょっとだけ脱線します。

大東亜戦争の転機となった時点について、戦後、多くの識者は、昭和17年6月の「ミッドウエー海戦」を掲げます。
ミッドウエーでは、たしかにそれまで連戦連勝だった帝国海軍が、初といっていい大敗北を喫しましたから、そう思われても仕方がない節があるかもしれません。
けれどミッドウエーで日本海軍が失ったのは、空母4隻と航空機285機にすぎません。
この時点で帝国海軍には、まだまだ十分な余力がありました。

それよりも日本が戦力を大幅に消耗したのは、実は、ミッドウエー海戦の後に行われた、ソロモン諸島の戦いです。

この戦いは、昭和17年8月から昭和18年11月まで、1年以上に渡って行われた戦いで、日本は8万人の将兵を戦死により失い、艦船50隻、航空機1500機を喪失しました。
もちろん米軍の側もたいへんな損害を出しており、米軍発表で戦死11000人、喪失した艦船40隻、航空機800を失っています。
要するに、日米両軍とも大消耗戦を戦い、最終的に日本がガダルカナル等の拠点を放棄して、戦線を縮小し、撤退したのです。

ではなぜソロモン諸島で、両軍がこれだけの大消耗戦を行ったのでしょうか。
理由は、ひとことでいえば米軍が「戦法を切り替えた」ことにあります。
それまでの米軍は、米海軍の機動部隊による日本統治領への進出を作戦の主体にしていました。
ところが黄色い猿と見下していた日本側があまりに強い。
米海軍は、空母やら艦船、あるいは航空機が次々と撃墜されたり沈没させられたりしていたのです。

そこで米軍が考えたのが、陸上の飛行場の建設です。
まず日本軍がやってこない後方に飛行場を建設する。
そこから飛行機を発進させ、日本軍の基地を叩く。
日本軍が防戦している間に、前線に米軍の飛行場を建設する。

空母ですと、強力な日本の航空隊に空母ごと沈められてしまうため、陸上に飛行場を建設しようというわけです。
南方の島々は、珊瑚の島だから、基本、土地が平坦です。
そこにブルドーザーを持ち込んで、一気に木々をなぎ倒し、鉄板を敷いて滑走路にしてしまう。

普通に私たちの現代の感覚から見ても、成田に飛行場をひとつつくるだけでも、膨大な期間を要する大工事が想像されます。
それを彼らは一夜のうちに実現しました。
当時の日本軍にしてみれば「まさか」の出来事であったわけです。

陸上の滑走路は、上に枯れ葉を敷き詰めたネットを敷くことで、簡単に偽装できました。
ですから日本軍からしてみれば、米軍の飛行機がどこから飛んでくるかわからない。
きわめて単純でわかりやすい戦法ですが、この単純な戦法で、日本は7000機を越える航空機と、7200人のパイロットを失っています。
ミッドウエーの比ではなかったのです。

米軍のこの作戦で、日本は1年半後には、この地域から残存空軍をすべて撤収することになりました。
昭和19(1944)年12月に内地に帰還した美濃部少佐は、米軍の行ったこの作戦を、日本本土を守るために逆用しようと考えます。

彼はまず、日本本土の後方に前線攻撃のための航空機基地を構築を進言し、これを実現しました。
本土防衛のための防空基地ではありません。
攻撃のための基地です。
場所は静岡県藤枝市、現在の航空自衛隊静浜基地です。

そして昭和19年12月から、翌昭和20年1月にかけて、まず優秀なパイロットをこの基地に集めました。
また、艦上爆撃機として生産されながら故障が多いからと放置されていた水冷式エンジン搭載の「彗星」を、この基地に集結させました。 彗星

そして1月には、正式に3個飛行隊を擁する芙蓉部隊を創設し、ここを拠点に猛烈な急降下爆撃の訓練を実施しています。
その年(昭和20年)3月、沖縄戦が始まりました。
美濃部少佐は、芙蓉部隊の前線基地を、鹿児島県曽於市岩川町に進出させます。

沖縄に集結した米軍機動部隊は、千機以上の航空機をもって、九州一帯から瀬戸内海方面まで、日本軍の航空戦力に爆撃を敢行し、大打撃を与えようとしました。
日本側は、米艦隊に向けて特攻攻撃を仕掛けるとともに、新型戦闘機の「紫電改」による精鋭部隊で米軍航空隊を迎撃しました。

特攻機は、昭和20年3月19日には、米軍大型空母フランクリン、同ワスプを急襲し、フランクリンを大破させ、戦死832人の戦果をあげ、ワスプも大破して戦死302人の大戦果をあげています。
さらに5月11日には、米軍の誇る大型空母バンカー・ヒルも大破させました。

この間の芙蓉部隊の戦果もめざましいものがあります。

芙蓉部隊の進出した岩川飛行場では、まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設小屋や立木を置いて偽装し、滑走路に家畜を引き入れて牧場風にしただけでなく、飛行機も木の枝などで徹底的に隠し、また到着した飛行機からはガソリンを全部抜き取って火災による損傷を最小限に抑えました。
そして、特攻機が飛び立つと、特攻機が米軍によってレーダー補足されないよう、特攻機の進撃方向とは全然別な空域に金属片を散布して偽装し、特攻攻撃を成功に導きました。
さらにロケット弾や、空中で爆発して爆片をまきちらす新型爆弾などを積極的に導入しました。

こうして、
4月6日には、嘉手納海岸周辺の米軍巡洋艦を撃沈。
同12日には、米軍が占領した嘉手納基地を急襲して爆撃。
同16日には、同じく嘉手納基地、読谷基地を急襲して爆弾を投下。
同20日から26日にかけて、策敵行動をし、敵機を迎撃し、
同27日には、北飛行場を爆撃し、中飛行場、伊江島飛行場の米軍を爆撃、慶良間で米艦隊を銃撃し、係留してあった飛行機を撃破。
同30日には、敵夜戦機をおびき出し、燃料切れまでひっぱり回した上で、飛行場を襲撃し、敵空母を大破。

こうして芙蓉部隊は、8月15日の終戦の前日まで、述べ630機を出撃させて莫大な戦果をあげました。
戦果に対する損害は、わずか47機です。
しかも終戦時点でなお50機の残存戦力を持っていました。
芙蓉部隊は、あの物資の欠乏し、戦局厳しくなった戦争末期に、あえて特攻は行わず、人知の限りを尽くした戦法による爆撃や迎撃で、最後まで戦い抜いたのです。

戦争が終わり、GHQによる日本人洗脳計画がスタートし、日本国内では、メディアや左翼系有識者らがこれに悪のりすることで、戦争を起こしたのは全部軍部のせいだ、特攻などは、軍部が人命軽視をしていたなによりの証拠だ、などといった論調が形成されていきました。

(注)というより、そうした論を持つエセ学者を積極的にメディアに登場させ、出版本をベストセラーに仕立て、世論操作を行ったわけです。その間、まともなことをいう学者や論者の意見は、まるごと封殺されました。こうした上辺だけの宣伝工作は、いまでもわが国に強く影響を残しており、その結果、いまこの瞬間に世間からたかく評価されている意見(いわば流行意見)は、5年もするとことごとくメッキが剥がれて、嘘だと言われるようになりました。たった5年でメッキが剥がれるということは、少し考えたら誰にでも嘘だとわかるということです。それがわからなくなるのは、日本人が思考停止におちいり、洞察力を失ったからです。

こうなると、俄然、注目を浴びるのが、最後まで特攻攻撃ではなく、通常攻撃にこだわって大いなる戦果をあげた芙蓉部隊の存在であり、美濃部少佐の存在です。
メディアや左翼系学識者らは、なんとかして美濃部少佐を引っ張りだして、彼を戦時中、「人命軽視」の特攻攻撃に逆らったヒーローに仕立て上げようとしました。

ところが、美濃部少佐は、こうした世論の流行に、いっさい妥協しませんでした。
いくら世論だからといっても、彼は帝国軍人として育った自らの信念を曲げることをしなかったのです。

こうして美濃部少佐は、航空自衛隊が組織されると、これに入り、最後は空将にまで登り詰めました。
彼は次のように述べています。

「戦前の海軍兵学校の人間教育
 及び卒後の人間関係は、
 戦後のどんな教育機関や組織より
 優れていたよ」

美濃部空将は、日本が生んだ天才空将といえる人です。
その彼は、自身の活躍をメディア等で語ることもなく、また何ら自慢することもなく、そして左翼の学識者や偏向メディアに踊らされることもなく、黙って後輩のパイロットを育て続けて、お亡くなりになりました。

戦後世代の私たちは、「言わなければわからない」世代になったといわれています。
戦後の私たちの時代の日本人は、
「ちゃんと説明しなければわからない」
「わからないのは、ちゃんと説明しない方が悪い」
などと考えている風潮があります。

黙っていたら誤解を生むだけ。
言わなきゃわからない。
会社の仕事もマニュアルを見なきゃわからない。
自分はマニュアル通りにやっているのだから、それで失敗しても、それはマニュアルのせいであって、自分のせいではない・・・・。

けれど、もともと日本にある文化は、そうではありません。
「言わなくてもわかる」
「見ている人は見ている」
「言わなくてもわかるものがわからないなら、そのわからない方が、勉強が足りない」
そう考えるのが、昔の日本人でした。

我々の世代は、
「そんなことは日本人にだけ通用する理屈であって、
 国際化社会では通用しない」
といわれて育った世代です。
ですからこのことは、世代の常識です。

けれどほんとうにそうでしょうか。

国宝である正倉院には、頑丈な鍵はついていません。
そこにあるのは、紙の封印だけです。
鍵が、ただの紙です。

ただ紙が貼ってあるだけで、そこで誰も盗みに入ろうとしない。
マニュアルなんてなくても、注意事項書や、警告文などなくても、良い社会は築けるのです。

「言われなくても、そんなのはあたりまえ」
それが日本社会だったのではないかと思うのです。
それこそ、人類の理想といえる社会といえはしないでしょうか。

美濃部空将は、死ぬまで自らの手柄を誇るようなことはされませんでした。
自分が行った通常攻撃は、特攻とともに勝つための作戦として行ったにすぎないと、謙虚でした。
その偉業を、一部の学者が特攻批判、軍隊批判の道具に利用しようとしたけれど、美濃部空将は、そんなものまるで相手にしようとしませんでした。

そうとうストレスはあったようです。
ですから晩年の美濃部空将は、何度か胃の潰瘍手術をしています。
けれど、それでも「わかる人にはわかる」と、彼は弁解も説明もしていません。

人間、我慢の分だけ、晩年、良い顔になるといいます。
晩年の美濃部空将は、とても良いお顔です。何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。そんなふうに思えます。

人は、良いときには、ちやほやされます。
けれど、ひとたび落ち目になると、ボロカスに言われる。
かつての帝国軍人さん達がそうでした。

けれど、そうした批判や中傷、あるいは利用しようとする悪徳識者らの誘いに、美濃部空将は一切応じようとせず、「わかる人にはわかる」と、自らの使命をまっとうして、お亡くなりになりました。

戦後世代が否定してきた昔の日本の文化が、実は、もしかしたら、ほんとうの意味で世界が必要としている普遍性を持った文化だったのかもしれません。
本当にただしい道を最期の瞬間まで、ひとえに追求していく。
自分をみがいていく。
これこそが、日本人の生きざまというものであり、いまもっとも必要とされていることではないかと思います。

※この記事は2011年10月の記事のリニューアルです。

  彗星


そして1月には、正式に3個飛行隊を擁する芙蓉部隊を創設し、ここを拠点に猛烈な急降下爆撃の訓練を実施しています。
その年(昭和20年)3月、沖縄戦が始まりました。
美濃部少佐は、芙蓉部隊の前線基地を、鹿児島県曽於市岩川町に進出させます。

沖縄に集結した米軍機動部隊は、千機以上の航空機をもって、九州一帯から瀬戸内海方面まで、日本軍の航空戦力に爆撃を敢行し、大打撃を与えようとしました。
日本側は、米艦隊に向けて特攻攻撃を仕掛けるとともに、新型戦闘機の「紫電改」による精鋭部隊で米軍航空隊を迎撃しました。

特攻機は、昭和20年3月19日には、米軍大型空母フランクリン、同ワスプを急襲し、フランクリンを大破させ、戦死832人の戦果をあげ、ワスプも大破して戦死302人の大戦果をあげています。
さらに5月11日には、米軍の誇る大型空母バンカー・ヒルも大破させました。

この間の芙蓉部隊の戦果もめざましいものがあります。

芙蓉部隊の進出した岩川飛行場では、まず飛行場への空襲を回避するため、使用中以外は滑走路に仮設小屋や立木を置いて偽装し、滑走路に家畜を引き入れて牧場風にしただけでなく、飛行機も木の枝などで徹底的に隠し、また到着した飛行機からはガソリンを全部抜き取って火災による損傷を最小限に抑えました。
そして、特攻機が飛び立つと、特攻機が米軍によってレーダー補足されないよう、特攻機の進撃方向とは全然別な空域に金属片を散布して偽装し、特攻攻撃を成功に導きました。
さらにロケット弾や、空中で爆発して爆片をまきちらす新型爆弾などを積極的に導入しました。

こうして、
4月6日には、嘉手納海岸周辺の米軍巡洋艦を撃沈。
同12日には、米軍が占領した嘉手納基地を急襲して爆撃。
同16日には、同じく嘉手納基地、読谷基地を急襲して爆弾を投下。
同20日から26日にかけて、策敵行動をし、敵機を迎撃し、
同27日には、北飛行場を爆撃し、中飛行場、伊江島飛行場の米軍を爆撃、慶良間で米艦隊を銃撃し、係留してあった飛行機を撃破。
同30日には、敵夜戦機をおびき出し、燃料切れまでひっぱり回した上で、飛行場を襲撃し、敵空母を大破。

こうして芙蓉部隊は、8月15日の終戦の前日まで、述べ630機を出撃させて莫大な戦果をあげました。
戦果に対する損害は、わずか47機です。
しかも終戦時点でなお50機の残存戦力を持っていました。
芙蓉部隊は、あの物資の欠乏し、戦局厳しくなった戦争末期に、あえて特攻は行わず、人知の限りを尽くした戦法による爆撃や迎撃で、最後まで戦い抜いたのです。

戦争が終わり、GHQによる日本人洗脳計画がスタートし、日本国内では、メディアや左翼系有識者らがこれに悪のりすることで、戦争を起こしたのは全部軍部のせいだ、特攻などは、軍部が人命軽視をしていたなによりの証拠だ、などといった論調が形成されていきました。

(注)というより、そうした論を持つエセ学者を積極的にメディアに登場させ、出版本をベストセラーに仕立て、世論操作を行ったわけです。その間、まともなことをいう学者や論者の意見は、まるごと封殺されました。こうした上辺だけの宣伝工作は、いまでもわが国に強く影響を残しており、その結果、いまこの瞬間に世間からたかく評価されている意見(いわば流行意見)は、5年もするとことごとくメッキが剥がれて、嘘だと言われるようになりました。たった5年でメッキが剥がれるということは、少し考えたら誰にでも嘘だとわかるということです。それがわからなくなるのは、日本人が思考停止におちいり、洞察力を失ったからです。

こうなると、俄然、注目を浴びるのが、最後まで特攻攻撃ではなく、通常攻撃にこだわって大いなる戦果をあげた芙蓉部隊の存在であり、美濃部少佐の存在です。
メディアや左翼系学識者らは、なんとかして美濃部少佐を引っ張りだして、彼を戦時中、「人命軽視」の特攻攻撃に逆らったヒーローに仕立て上げようとしました。

ところが、美濃部少佐は、こうした世論の流行に、いっさい妥協しませんでした。
いくら世論だからといっても、彼は帝国軍人として育った自らの信念を曲げることをしなかったのです。

こうして美濃部少佐は、航空自衛隊が組織されると、これに入り、最後は空将にまで登り詰めました。
彼は次のように述べています。

「戦前の海軍兵学校の人間教育
 及び卒後の人間関係は、
 戦後のどんな教育機関や組織より
 優れていたよ」

美濃部空将は、日本が生んだ天才空将といえる人です。
その彼は、自身の活躍をメディア等で語ることもなく、また何ら自慢することもなく、そして左翼の学識者や偏向メディアに踊らされることもなく、黙って後輩のパイロットを育て続けて、お亡くなりになりました。

戦後世代の私たちは、「言わなければわからない」世代になったといわれています。
戦後の私たちの時代の日本人は、
「ちゃんと説明しなければわからない」
「わからないのは、ちゃんと説明しない方が悪い」
などと考えている風潮があります。

黙っていたら誤解を生むだけ。
言わなきゃわからない。
会社の仕事もマニュアルを見なきゃわからない。
自分はマニュアル通りにやっているのだから、それで失敗しても、それはマニュアルのせいであって、自分のせいではない・・・・。

けれど、もともと日本にある文化は、そうではありません。
「言わなくてもわかる」
「見ている人は見ている」
「言わなくてもわかるものがわからないなら、そのわからない方が、勉強が足りない」
そう考えるのが、昔の日本人でした。

我々の世代は、
「そんなことは日本人にだけ通用する理屈であって、
 国際化社会では通用しない」
といわれて育った世代です。
ですからこのことは、世代の常識です。

けれどほんとうにそうでしょうか。

国宝である正倉院には、頑丈な鍵はついていません。
そこにあるのは、紙の封印だけです。
鍵が、ただの紙です。

ただ紙が貼ってあるだけで、そこで誰も盗みに入ろうとしない。
マニュアルなんてなくても、注意事項書や、警告文などなくても、良い社会は築けるのです。

「言われなくても、そんなのはあたりまえ」
それが日本社会だったのではないかと思うのです。
それこそ、人類の理想といえる社会といえはしないでしょうか。

美濃部空将は、死ぬまで自らの手柄を誇るようなことはされませんでした。
自分が行った通常攻撃は、特攻とともに勝つための作戦として行ったにすぎないと、謙虚でした。
その偉業を、一部の学者が特攻批判、軍隊批判の道具に利用しようとしたけれど、美濃部空将は、そんなものまるで相手にしようとしませんでした。

そうとうストレスはあったようです。
ですから晩年の美濃部空将は、何度か胃の潰瘍手術をしています。
けれど、それでも「わかる人にはわかる」と、彼は弁解も説明もしていません。

人間、我慢の分だけ、晩年、良い顔になるといいます。
晩年の美濃部空将は、とても良いお顔です。何を言われても我慢し、「わかる人にはわかる」と耐え抜いた先に、この美濃部空将の、まるで神様のような良いお顔立ちがある。そんなふうに思えます。

人は、良いときには、ちやほやされます。
けれど、ひとたび落ち目になると、ボロカスに言われる。
かつての帝国軍人さん達がそうでした。

けれど、そうした批判や中傷、あるいは利用しようとする悪徳識者らの誘いに、美濃部空将は一切応じようとせず、「わかる人にはわかる」と、自らの使命をまっとうして、お亡くなりになりました。

戦後世代が否定してきた昔の日本の文化が、実は、もしかしたら、ほんとうの意味で世界が必要としている普遍性を持った文化だったのかもしれません。
本当にただしい道を最期の瞬間まで、ひとえに追求していく。
自分をみがいていく。
これこそが、日本人の生きざまというものであり、いまもっとも必要とされていることではないかと思います。

※この記事は2011年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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