和気広虫(わけのひろむし)は、光仁天皇が
「人の短を言わず、
 己の長を誇らざるは
 広虫ひとりなり」
と褒められた女性です。

備前国の藤野郡の生まれで、後に京の都を開いた和気清麻呂(わけのきよまろ)の姉です。
長じて従五位下の葛井戸主(ふじのへぬし)に嫁ぎました。
広く漢学や仏教に通じて、貞淑のほまれたかい婦人です。

孝謙天皇は、深く広虫を信愛され、正六位下に叙せられました。
その孝謙天皇が落飾(らくしょく・髪をおとして仏門にはいること)されたとき、広虫もまた剃髪(ていはつ)して法弟子となりました。
このとき上皇から和気広虫が賜ったのが「法均(ほうきん)」という法名で、さらに仏教界からは進守太夫(しんしゅたゆう)という高い位の尼位(にゐ)を授けられています。

天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱がありました。
このとき数百人が反徒として捕らえられて斬に処せられようとしたのですが、法均尼が彼らの命乞いを天皇に上奏し、これによって375人が死を減ぜられて流刑に処せらました。

さらに法均尼は、こうした凶事によって生じた孤児たち80余人を自宅に収容し、自らこれを一手に救養し、ことごとく養子にしてねんごろに撫育(ぶいく)しています。
天皇は、深くその徳行を嘉(よみ)とされ、法均尼に、姓として葛木首(かつらぎのおびと)と賜われました。
葛木首というのは、葛木氏の首(ドン)といった意味です。
そして法均尼は、神護景雲2年(768)には、従四位の封戸(ふこ)と、位禄、位田を賜っています。

さてこの頃のことです。
僧道鏡(どうきょう)は、君寵(くんちょう)を恃(たの)んで、出入りに警蹕(けいひつ・天皇の出入に際して、先払いが掛け声を掛けること)して、天皇と同じ輿(こし)を真似し、法王を自称してついに天皇の位を伺おうとしていました。

天皇は、法均尼を宇佐八幡宮に遣(つか)わす神夢を得られるのですが、女性の身で遠路は耐え難いであろうと案じられ、弟の和気清麻呂を姉に代えて宇佐に遣わすことになりました。
出立に先立ち、法均尼は弟の清麻呂に
「身を以て皇位を護り奉るべし」
激励しています。

清麻呂は敢然(かんぜん)と立って宇佐に至り、
「わが国家は、
 開闢(かいびゃく)よりこのかた
 君臣が定まっている。
 臣をもって君と為すこと、
 いまだ之(これ)有らざるなり。
 天津日嗣(あまつひつぎ)は
 必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。
 無道の人はよろしく早く
 掃除(はらいのぞ)くべし」
との御神託を授かります。

清麻呂は奈良の都に馳(は)せ帰り、銅鏡のいる前で神託のままに奏上しました。
道鏡はおおいに怒り、清麻呂の本官を解いて因幡員外助(いなばいんげのすけ)に降格し、姓も奪って名をあらためて、別部穢麻呂(わけべのけがれまろ)とし、法均尼も強制的に還俗(げんぞく)させて別部狭虫(わけべのさむし)と名乗らせました。
そして清麻呂を大隅国に、法均を備後に流しました。

配所にある間、藤原百川(ふじわらのももかは)は、法均姉弟の忠烈(ちゅうれつ)をあわれみ、備後の封郷(ほうきょう)を割いて資を送って慰めたりしました。

宝亀元年(770)8月、光仁天皇(こうにんてんのう)が即位されました。
光仁天皇は、道鏡を下野に貶(おと)し、清麻呂と法均尼を赦(ゆる)して京に迎え、姓として和気朝臣(わけのあそん)を賜(たまわ)って、本名に復(ふく)され給い、後に広虫を典蔵(くらのすけ)に任じ、出納を掌(つかさど)るようお命じになられました。

桓武天皇の延暦13年(794)の平安遷都の際、第宅(だいたく・邸宅のこと)を新都に移すにあたって、広虫は正四位上に叙せられ、また典侍(ないしのすけ)に任じられました。
弟の清麻呂もまた摂津職となりました。
姉と弟の仲は睦(むつ)まじく、財物もひとつにして分かたず、栄辱(えいじょく)を共にしました。

広虫は、延暦17年(798)正月19日、70歳でこの世を去りました。
翌年2月21日、弟の清麻呂も67歳で薨去(こうきょ)しました。

広虫と清麻呂は、生前の功績によって、共に正三位を追贈されました。
のちに畏(かしこ)くも孝明天皇は清麻呂に護王大明神の神号を賜われました。
さらに明治天皇は護王神社を別格官弊社に列され、
大正天皇は、御即位の礼の大典のときに、広虫を護王神社に併(あわ)せ祀られました。

藤田東湖は次の詩を詠んでいます。

妖僧窺神器  妖僧(ようそう)、神器(じんき)を伺(うかが)う
居然臨百官  居然(きょぜん)として百官に臨(のぞ)むは
壮哉清麻呂  壮(さかん)なる清麻呂(きよまろ)
孤忠挽頽瀾  孤忠(こちゅう)に頽瀾(たいらん)を挽(ひ)き
赫々神明統  赫々(かくかく)として神明(しんみょう)を統(とう)す
不容邪気奸  邪気(じゃき)の奸(かん)を容(い)れず
碩学顔何厚  碩学の顔なんぞ厚き
黙黙袖手看  もくもくと袖手(しゅうしゅ)して看(み)る

(現代語訳)
妖(あや)しげな僧侶が、皇位をうかがったとき
いずまいただして百官に相対したのは
壮(さかん)なる和気清麻呂であった。
清麻呂は、波頭が崩れ落ちようとする中(頽瀾)にあってひとり忠義を立て
赤赤と照り輝やいて神明を通し
邪気の奸(かん)いっさい容認せず
深い学問によって厚顔とし
黙々と懐に腕を入れて、一切を見通したのだ。

現代語に訳すと、だいぶ軽くなってしまいますね。
やはり漢詩は漢詩でお愉しみいただくのが良いのかも。

この物語は、以前にもご紹介したことのある昭和13年に大阪府が発行した『女子鑑』の24ページ〜を現代語に訳したものです。

皇統を護るということは、世の中が有らぬ方向に向かったときには、必ず和気清麻呂と広虫の姉弟のように、権力からの迫害を受けることになります。
これを昆虫に例えると、イマジナル・セル(成虫の細胞)となります。
イモムシのときに、俺は本当はチョウチョなんだ!と気がつく細胞がいるのです。
けれどそんなイマジナル・セルたちを、イモムシの免疫システムが攻撃し破壊します。
それでも次から次へと生まれるイマジナル・セルは、ついには横に連携を始め、コミュを形成していきます。
するとティッピング・ポイントと言って、イモムシの免疫システムが、成虫細胞側にある日突然寝返るのです。
そうなるとイモムシは、もはやイモムシの体を維持できず、サナギになります。
そしてサナギの中で、イモムシ細胞は溶かされて成虫細胞の餌になります。
こうして誕生するのがチョウチョです。

日本は不思議な国です。
世の中が妖しい方向に向かうとき、これではいけないと、イマジナル・セルたちが次々と目覚めていくのです。
そして必ず、正しい方向に世の中が向かいます。

このことは実はとても重大です。
なぜならもし仮に、このとき和気広虫と清麻呂の姉弟が、道鏡の側に付いたのなら、その後の日本の歴史は、おそらくは半島と同じ運命をたどっていたであろうからです。

ちなみにこの物語で、天皇が次々と代わられていますが、これにも実は理由があります。
天皇は国家最高権威であり、天皇のお言葉は神の声です。
従って、天皇によって親任された政治権力者もまた、神によって選ばれた人ということになります。
神によって選ばれたのですから、途中解任はありえないことです。

けれど、人のかなしさで、権力を得ると人が変わってしまうことが多々あるのです。
しかし天皇がひとたび親任された以上、途中解任はありえません。
そこでどうするかというと、天皇が交替するのです。
このとき、政治権力者もまた、新たな天皇によって親任されます。
もし、これまでの権力者が、すでに不適任となっていたのなら、このタイミングで、更迭が可能となるのです。
これは、実によくできた仕組みです。

実は明治以降の我が国の最大の問題点が、天皇を終身制にしたことです。
この制度は天皇がお作りになられたのではなく、民間でそのようにしたのです。
これはご不敬というものです。
ご皇室のことは、ご皇室もしくはご皇族内で決めるのが、本来の姿です。

日本人の多くがこのことに気付きはじめています。
日本は一気に変わります。
けれどそのことは、愚痴や文句ではいけないことを、和気広虫は教えてくれています。
どこまでも真面目。
どこまでも誠実。
そしてとてつもなく勁(つよ)い。
そこにこそ、世界中どの国も真似のできない日本の強さがあるのではないでしょうか。

※この記事は2019年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

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