神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代仲哀天皇の皇后です。
仲哀天皇は、ヤマトタケルの子です。
その神功皇后について、戦前の尋常小学読本でご一緒に学んでみたいと思います。
原文は漢字とカタカナによる文語体ですので、いつものようにねず式で現代語訳します。

****

尋常小学読本(国定読本第1期) 第18 神功皇后

神武天皇よりすこしあとの仲哀天皇の時代、わが国のうちの西の方に悪者どもがいて、たいそう我がままをしていました。
天皇はその皇后の神功皇后と申す御方と、それを攻めにおいでになりました。

ところが戦いのさなかに、敵の矢を受けておかくれになりました。
神功皇后は、
「この悪者どもが
 わがままをしておるのは
 外国の者が扶(たす)けているからだ。
 だからその外国を攻めたら
 この悪者どもは
 わがままをやめるであろう」
とお思いになりました。

そこで神功皇后は、男装して海を渡り、その外国を攻めにおいでになりました。

すると向かう国では、たいそう畏(おそ)れて、戦(いくさ)もせずに、降参してしまいました。
そして毎年、宝物をさしあげますと約束しました。
皇后は、それを許して、お帰りになりました。

それから西の方の悪者どもは、わがままをしないようになりました。
またわが国の強いことが、前よりもよく外国に知れるようになりました。

****

文中の「西の方の悪者ども」というのは、仲哀天皇による熊襲征伐のことで、仲哀天皇8年、おそらく西暦200年頃の出来事であるとされています。
そしてこの仲哀天皇の熊襲征伐によって、大和朝廷の全国制覇が完了したともいわれています。

仲哀天皇が崩御されたとき、神功皇后のお腹には赤ちゃんがいました。
その赤ちゃんが、後の応神天皇となられるのは、また後の話。
神功皇后は、妊娠したまま、男装し、筑紫から玄界灘を渡って朝鮮半島に出兵して、新羅を攻めました。
その勢いは「船が山に登らんばかりであった」といいます。

新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は、
「吾聞く、
 東に日本という神国有り。
 また天皇という聖王あり」
と言って戦わずして降参し、朝貢を誓って金・銀・絹を献上しました。
そして王子の微叱己知(みしこち)を人質に差し出しました。

実はこのことが、我が国における公式記録にある朝貢と人質の習慣のはじまりです。
朝貢は毎年行われて恭順を誓い、また王子を人質として都に送り、都で王子を育てる。
万一、国王が裏切れば、王子が殺されるので、国王には跡継ぎがいなくなって、国が滅びる、という仕組みです。
この神功皇后のときにはじめられた仕組が、後に、源氏の制度に採り入れられ、そのままこれがモンゴルの元の大帝国による世界の支配の基幹システムになっています。

また、このとき高句麗と百済も、倭国への朝貢を約束しています。
これにより、高句麗、新羅、百済の三国が、倭国の属国となったことから、これを
「神功皇后の三韓征伐」といいます。

皇后の出征が10月、そして同じ年の12月には皇后は筑紫に凱旋され、そこで応神天皇を出産されています。
出産した場所のことを「生み」から転じて「宇美」と書き、これがいまの福岡市宇美町(うみまち)の名の由来になっています。

また、
1 いざというときに敵の準備が整う前に破竹の勢いで進撃(疾風迅雷)すること、
2 これにより戦わずして勝つこと、
3 目の前の敵ではなく、その背後にある根っこを即時叩くこと、
4 日頃から十分な戦力を養い、強いことを内外に知らしめることによって、戦いそのものをなくすこと、
といった、国家としての重要な武の大原則を建てられたのも、神功皇后の功績です。

そしてなにより重要なことは、この武の発動の功績が、わが国において皇后という女性のパワーによって成し遂げられたということにあります。
基本的に女性の力は、パワーではなく、慈愛です。
けれどもその「慈愛こそがパワーの最重要要素なのだ」と、神功皇后はお示しされたのです。

ちなみに戦前の学校では、この神功皇后の故事を元に、テストや自習問題として、次の問題が出題されたのだそうです。

(1) 神功皇后が新羅を討ち給ひし次第を語れ。
 (神功皇后はどうして新羅を討ったのか、その理由を述べよ)

(2) 三韓が皇威に服せしことにつき言へ。
 (三韓はどうして日本の属国となる道を選んだのですか。その理由を述べよ)

(3) 神功皇后の御功績を數(数)へあげよ。
 (神功皇后のご功績は、何だったと思いますか。主なものを3つ挙げよ)

みなさんなら、どのようにお答えになられますか?
上の三問とも、小学五年生への設問です。
レベルの高さに驚くばかりです。
みなさんなら、どのようにお答えになられますか?

また、この設問には、3つとも「答えがない」ことにも注目が必要です。
よく「文系の学問には答えがなく、理系には答えがある」といいます。
ほとんど慣用句のようになっているので、多くの日本人が、その言葉を額面通りに受け止めていますが、考えてみると、文系であっても、戦後のテストの問題には、必ず正解があったのではないでしょうか。
「文中の『それ』は何を指しますか?」
「平城京ができた年は西暦何年ですか?」
しかし、そのような設問のテストで良い点を取ったからと言って、それが人生に何のやくにたつのでしょう。

これに対し、上にある三問には、いずれも本当に答えがありません。
答えがないのに設問になっているのは、生徒たちが「自分の頭で考える」ことが文系教育の、そして歴史教育の柱になっていた、ということです。
授業で、「いつ何があったのか」を覚えることは、それなりに大切です。
けれど、それ以上に、「なぜそうなったのか」を自分の頭で考えることは、もっと重要です。
大人になれば、人生に答えなんかないのです。
自分で考え、一生かけて自分で答えを見つけていくのが人生です。
だから戦前戦中の教育では、自分の頭で考えることが重視されたのです。

さて、チャイナには神功皇后の時代よりもはるか昔に、秦や漢などの大帝国がありました。
けれどそんな大帝国が崩壊し、その後チャイナは隋の登場まで、長く内乱状態になります。

内乱が続くと、その敗残兵が周辺諸国に散って悪さを行いますし、また戦乱を逃れたチャイナの難民が、やはり周辺国へとなだれ込みます。
それが真っ当な紳士淑女であれば、それは歓迎すべきことですし、難民なら、かわいそうな人たちなのだからと、助けてあげたくなるのが人の持つ人情です。

ところがここに不思議なことがあります。
例えばチャイナの北方遊牧民の元には、歴史を通じてチャイナ難民が大量にやってきていますが、その難民たちを北方遊牧民たちが保護したり、庇護したりしたという歴史が、とんと見当たりません。
北方遊牧民とチャイナの歴史は、チャイナの内乱によって難民が北方に押し寄せ、これが迷惑だからと北方遊牧民がチャイナ王朝を襲撃して激しい戦いとなってきた・・・という歴史です。
まったく保護の対象になっていません。

このことは北方だけではありません。
チャイナ奥地の中央アジア諸国、チャイナ南方の越の国(ベトナムのこと)やシャムなど、チャイナの周辺諸国の全てが、チャイニーズの越境を、歴史を通じて断固拒否しています。

国や民族が異なるから拒否されたのだろうと単純に考えないでください。
ブラジルには、多数の日系移民や、白系ロシア人など、スパニッシュ系以外の移民が多数存在します。
けれど彼らがブラジル政府によって拒否られたという話はまったく聞きません。
武力でブラジルに介入した?
まったくそのようなことはありません。
とりわけ日本人は、そもそも一般人の移民で武力など持たずに移民していますし、白系ロシア人の移民は元々ロシア革命後に満洲に逃れていた旧ロシア王国の貴族たちが、満洲崩壊によって日本陸軍に助け出されて、日本海軍の力でブラジルへと向かった人たちです。

現代でもそうですけれど、移民には、
 歓迎される移民 と
 歓迎されない移民
の二種類があるのです。

そして歴史を通じてチャイニーズは、どんな時代においても、どこの国からも歓迎されていません。
理由はなぜでしょう。
このことは是非皆さん、ご自身で考えていただきたいと思います。

神功皇后の時代のあと、内乱状態にあったチャイナからは、大量の移民が朝鮮半島に押し寄せることになりました。
この時代も、その後の時代も、朝鮮半島側に、このチャイナの人口圧力に耐える力はありません。

それが神功皇后によって半島が倭国の領土の一部になったことによって、半島は独立を守ることができるようになりました。
理由は、ある意味簡単なことです。
倭国には鉄の武器があったからです。
これは刀槍の時代に鉄砲が圧倒的な力を持ったのと同じで、青銅器の武器や防具に対して、鉄製の武器や防具は圧倒的な力を持ちます。
要するに半島は、神功皇后の功績によって、国を、そして民族を保持できることになったのです。

このことは日本も同じです。
いくら鉄の武器を持っているとは言っても、チャイナの人口圧力の前には、大変な国難が待ち受けることになります。
そしてさらに、のちの時代に隋や唐といった強大な軍事超大国がチャイナに成立したとき、チャイナは昔から「遠交近攻」です。
半島が隋や唐の一部なら、その隣国は日本です。
日本は、攻略の対象になるのです。

ところが隋や唐にとっての半島の隣国は、いまの北朝鮮にあたる高句麗です。
そしてこれが隣国であれば、遠交近攻戦略に従って、その向こうの国が調略の対象となります。
ところがそこに、百済と新羅という二カ国があったのです。
すると、新羅を調略すれば、新羅は百済に警戒されるし、百済は高句麗と結んで新羅を叩く。
百済と結べば、新羅が黙ってないといった具合に、そこ2国が存在していることが、遠交近攻戦略にとって、実は大変大きな障害になります。

倭国は、さらにその先にある国です。

こういう一連の流れの形成の中に、神功皇后による朝鮮征伐があります。
そして日本は、歴史の最良のタイミングで神功皇后の朝鮮征伐が行われ、それにより、たった一度のモンゴルの大帝国による元寇以外は、日本はずっと対外戦争から平和を保ち続けることができてきたのです。
神功皇后のご功績は、偉大なのです。

そして、そのことの意味をしっかりと教育することこそ、日本の教育再生といえるのではないでしょうか。

※この記事は2019年10月のねずブロ記事のリニューアルです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。