戦前の日本では、日本列島の歴史はせいぜいさかのぼっても3〜4千年であって、それ以前の日本列島には、まだ人が住んでいなかったと考えられていました。
ようやく昭和6年に旧石器時代の人骨の骨盤とみられる化石が発見されて明石原人と名付けられたりしていますが、発見者が29歳のアマチュア考古学者(後に本物の学者になる)であったことから、学会では相手にされず、しかもその化石も戦争で焼けてしまっていて、現物が存在していません。
(この化石は、標本の写真からの解析で、戦後にはこの明石原人は縄文時代の人骨であったのではないかとされています。要するに、おそらく1万年前頃の人骨であったというわけですが、このためいまでは、明石原人という記述も、教科書から消えています。)

要するに戦前戦中までは、日本の始まりはせいぜい3千年前くらい前で、その頃無人島だった日本列島に、人々が海を渡ってやってきた、と考えられていたわけです。
このような思考は、実は戦後も続いていて、いまでも「海を渡ってやってきた日本人」といった用語が普通に使われていたりします。
それがいわゆる「歴史認識」と呼ばれるものです。

ところが考古学というものは、それまでの歴史認識を、たったひとつの発見ですべてくつがえしてしまうというインパクトとおもしろさを持ちます。
たったひとつでさえ、そうなのです。
にも関わらず、戦後の日本では、そうした発見が次々と発表されています。

これにはひとつ理由があって、実は明治以降に、縄文式土器とか、弥生式土器は発見されていたのです。
けれどそれらは、あくまで土器の区分であって、いまのような時代区分とはされていません。
その理由は、戦前戦中までの教育が、いわゆる「皇国史観」に基づくものであったからです。

「皇国史観」では、初代神武天皇以前の時代を「神々の時代」とします。
神様というのは、姿かたちが見えないご存在であり、時間もない世界のご存在です。
天照大御神が、ご実在されていたのが仮に1万年前であっても、今も天照大御神さまはご実在されているし、1万年後もご実在あそばされます。つまり神は、時間軸を超越されているから神でもあるわです。

ですからそのような神々が、たとえば縄文式土器を使っていたとすると、論理矛盾が生じます。
なぜなら時間軸がないのですから、神々は現代に使われている最先端の調理具や食器を用いられることも可能なわけです。
そうなると縄文式土器や弥生式土器の説明がつきません。

そこで縄文式土器の時代のはじまりは、せいぜいいまから3千年前、弥生式土器の時代が、2世紀ころくらいからなのではないか、などといわれていたのです。

ところが終戦後に日本にやってきたGHQは、そうした歴史認識を全否定してぶち壊しました。
GHQの意図は、日本人が歴史を持たない民族にしたかった、といったものであったとされるのですが、ところがこれによって「皇国史観」が否定されると、にわかに活気づいたのが考古学であったのです。

それも、教授が左傾化学者に入れ替えられた大学ではなく、民間の趣味の考古学研究家たちによって、新たな発見が続出していきました。

その最初の起爆剤となったのが、昭和24年の市井の研究家・相沢忠洋氏によって発掘された「槍先形尖頭器」です。
赤城山の麓で発見されたこの「槍先形尖頭器」は、長さ約7cm、幅約3cmで、薄緑色に透き通る黒曜石で出来ていて、中心部には白雲のようなすじが入っている、実に神秘的な美しさを持つ石器です。

そしてこの石器は、いまから約3万年前のものと判明しました。
そしてこの石器は、人の手によって磨きがかけられた石器としては、これが「世界最古」の石器であることがわかりました。
つまりこの石器は、「人の手による加工技術の産物」として「世界最古の道具」となったのです。

日本以外では、こうした石器は、オーストリアのヴォレンドルフ遺跡出土の石器が、約2万5000年前のものとされています。
日本の磨製石器は、それよりも5千年も古い。

それ以外の石器となると、ロシアのコスチョンキ(約1万4000年前)、アフォントヴァゴラ(約2万年前)、オーストラリアのナワモイン(約2万1500年前)、マランガンガー(約2万9000年前)などがありますが、いずれも人が石を削って作ったものではなく、その形の自然石を利用したものになります。

日本の加工技術は、なんと3万年の歴史があるなんて、なんだかすごいです。
技術大国日本の象徴のような気がします。
とっても感動的です。

このことがきっかけとなり、にわかに活気づいた考古学会は、その後、日本列島に人が住み始めたのは、なんと12万年前にまでさかのぼる石器(砂原遺跡・島根県)を発見しました。
12万年前というのは、実はものすごいことです。
一般に現生人類(新人類)は、およそ4万年前に誕生して現代に至ったのだといわれています。
それ以前はネアンデルタール種のような旧人類の時代です。
その新人類が、旧人類を滅ぼして現代に至ったのだというわけです。

しかしそもそも新人類というのは、クロマニョン人の別名です。
これは19世紀に南フランスのクロマニョン洞窟で発見された5体の人骨から、その後同種の特徴を持った人骨がヨーロッパ各地で発見されることになりました。
その説を唱えたのは、フランスの古生物学者のルイ・ラルテですが、要するにクロマニョン種というのは、ヨーロパの白人種を意味するわけです。

言い換えれば、白人種は4万年さかのぼることができるというだけのことで、人類には他に黄色、黒色の人種がいますから、それらを含めた人類の祖先となると、旧人類を含めて考察しなければなりません。
そのため現代では、世界の趨勢として、旧人も含めて人類史を考えなければならないとされるようになりましたが、なぜか日本では、相変わらず日本人もクロマニョン人の子孫のように思い込んでいる人が大勢いるようです。

しかし砂原遺跡の人骨は、それらクロマニョン人始祖説を、完全否定しています。
つまり日本人は、旧人類の末裔だとしなければ、理屈が立たなくなるのです。
そして近年西ドイツの研究チームの発表によれば、旧人類のDNAを最も濃厚に持っているのが、日本人なのだそうです。

ちなみに旧人類といえば、代表的なものがネアンデルタール種ですが、2007年にネアンデルタール人の舌骨が発見され、この発見によってネアンデルタール人は解剖学的に、現生人類と同じだけの音声を発する能力があるということが明らかになりました。

また英国の人類学者のロビン・ダンバーは、脳の容積とヒト族の群れの大きさの関係についての分析を行い、大きな脳を持っていた旧人類は120人以上のグループを形成して生活していたに違いないと結論付けました。
言語がなければ、それだけの大きな集団を保持することができません。
初期的言語コミュニケーションを用いるチンパンジーでは、50人以下のグループしか構築できないのです。

要するに、集団生活には言語によるコミュニケーションが欠かせないし、言語が発達する(これは特に女性のウワサ話によって発達してきたといわれています)ことによって、大脳に著しい進化が生まれ、また人々の生活も一変したというわけです。

日本列島に住んでいた12万年前からの人々は、そうした言語によるコミュニケーションを盛んに用いることのできた旧人類です。
そうであれば、万年という長い歳月の間に、その言語コミュニティ能力がたいへんな勢いで進化していったということは十分に考えられることになります。

さらに2万数千年前ものから3万年以上前の前頃の製造を示す複数の磨製石器が長野県飯田市(竹佐中原遺跡)から出土しました。
これもまたものすごい発見です。
伊豆半島の沖に浮かぶ神津島の石でできた磨製石器が、山奥の長野で発見されているからです。

神津島まで、伊豆の下田からでも海路を片道57キロです。
しかも島までの海路は、流れの早い黒潮に洗われています。
つまり、流れの早い横幅57キロの急流を往来するようなものなのです。

当然、丸木舟ではいけませんし、もちろん丸木につかまって泳いで行くこともできません。
しかもその神津島から、石を持ち帰っているということは、それなりの船を持ち、それなりの航海術が確立されていなければならないのです。
つまり、2万5千年以上の昔に日本列島に住んでいた人々は、外洋航海ができる船を持ち、往来していたのです。

先程も書きましたが、ひとくちに1万年とか2万年といっても、これはとほうもなく長い歳月です。
なにせ明治維新からまだたったの150年しか経っていないのです。
関ヶ原の戦いからでも、まだたったの400年です。
千年前となると、紫式部や清少納言が活躍した平安中期です。
二千年さかのぼっても、まだ垂仁天皇の時代です。

ちなみに垂仁天皇の時代に、出雲で捕らえた白鳥を、口のきけない皇子の本牟都和気命(ほむつわけのみこと)の遊び相手にしたところ、皇子が言葉を発するようになったので、出雲地方が鳥取と呼ばれるようになり、これがいまの鳥取県の名前の由来になっています。

こうして日本列島では、1万6500年前には縄文式土器が作られるようになり(大平山元1遺跡・青森県)、1万3000年前には人の形をした土偶(相谷熊原遺跡・滋賀県)が作られ、1万2500年前には工芸品のための漆が栽培され(鳥浜貝塚・福井県)、岡山県の朝寝鼻貝塚から約6500年前の稲の生育を示す大量のプラントオパールが見つかっており、さらに2500年前には稲の水耕栽培を行う集落が営まれるように(菜畑遺跡・佐賀県)なります。

また鉄器についても、日本人が鉄を用いるようになったのは4世紀頃からとされていたものが、福岡県春日市赤井手遺跡で発見された鉄片が、発見当時は紀元前300年(4世紀)弥生時代の始期のものとされていたのですが(それだけでも古い)、その後に炭素14年代測定法(C14)で再調査したところ、作られた時期は紀元前10世紀頃(紀元前940年頃)と判明しています。
つまりおよそ3千年前には、日本ではすでに鉄器が作られていたわけで、このことは東洋社会で、もっとも古くから日本で鉄器が生産されていたことを示します。

世界では、トルコにあるカマン・カレホユック遺跡から出土したおよそ4千年前の鉄片が世界最古とされ、ヒッタイトはこの鉄を用いて、いわゆる鉄鋼軍団を形成して大帝国を築いたことが知られています。
ちなみにヒッタイトのこの鉄器は、近年の考古学研究によって、ヒッタイトによるゼロからの開発ではなく、既に認識されていた鉄の生産方法を改良して、強靭な鋼を一定量確保するための生産システムを新たに確立したことにあった可能性が高い、とされています。
ということは、もしかすると、日本における鉄器の生産は、まだもっと千年以上さかのぼり、もしかすると4千年以上前から、鉄の生産が行われていたのかもしれない。
今後の考古学の研究成果の発表が、ほんとうに待ち遠しいところです。

日本では、7300年前に、鹿児島沖のアカホヤで、日本史上最大と呼ばれる破局噴火が起こり、このとき、日本列島に住んでいた人々が、安全な土地を求めて、チャイナの揚子江流域や、インドのタミール地方、紅海の奥にあるシュメルの地に散ったと論理的に推測されています。
その後の日本人は、現代における盆暮れの帰省よろしく、海洋国家として世界の諸国との往来を深めて行き、13世紀頃までは、日本はまさに神々の国、理想の国、蓬莱山、扶桑の国、そして不老長寿の国とされるようになっています。
日本は、世界の最先端にあり、世界で最も進歩した国であったのです。

日本の歴史は、諸外国と異なり、先住民を皆殺しにして土地も文化も奪い去って、ワープロでいうなら、いわば上書き方式で文化が形成されてきたのではありません。
もともと住んでいた人々が形成した基礎となる古い文化の中に、海外に散った日本人が新しい文化をもたらし、それらを受け入れて、国内を発展させるという、ワープロでいうなら挿入方式で文化を形成してきたのが日本です。
だから日本には、古い古代の文化が途絶えることなく現代に至っているのです。

日本人は何万年もの間、この日本列島という天然の災害の宝庫ともいえる列島に住んできました。
そしてその中で、お互いに助け合って生きていく和の文化を形成してきたし、それはもはや日本人にとって、後天的な文化というより、DNAに刻み込まれた先天的な本能となりました。

破壊よりも建設。
対立よりも和。
闘争よりも愛。
それが日本人です。

古い時代に触れたので、これからの日本のことにも少し触れておきます。

日本の人口は、
平成30年代の後半ですと、毎年高知県がひとつなくなっていきます。
令和10年代前半になると、毎年山梨県(約86万人)がひとつ消えていきます。
令和10年代後半になると、毎年和歌山県(約102万人)が日本から消えていきます。

そして西暦2100年頃になると、日本の人口はいまの半分になると予測されています。
だから「労働力が減少するので、外国人労働力を迎え入れよう」といういうのが、いまの政府の動きですが、これは違うと思います。

戦後の時代は、手作業による肉体労働が大型重機やロボットなどによって、機械が行うようになり、人がホワイトカラーとなって知的部分を受け持つことが求められた時代でした。
しかし長期的に考えると、そうした知的生産部分は、これからの時代は明らかにAIが受け持つことになります。
AIは、人間よりもはるかに正確で、記憶力、判断力に優れているのです。

しかしどんなにAIが進歩しても、AIというのはいわば人の脳にあたるものですから、人の手足や胴体の代わりはできません。
つまりこれからの時代に求められる労働力(人材)は、肉体労働を伴う農業や、建設工事、あるいは人が人に行うサービスなどが主体になっていきます。
つまり、これからの時代に求められる人材は、いま、政府が外国から招き入れようとする労働力そのものであるわけです。

従って、本来であれば、いま必要なことは、そうした労働のできる日本人の人材育成と、その分野における日本人の待遇改善をすること、そしてそうした仕事、つまりもともと日本で大切にされてきた、農業や職人や世に秩序をもたらす武士といった分野の仕事が、高待遇であって、誇りある仕事となっていくように、日本社会の価値観を改造していかなければならない。

そしてこうした人が行う労働やサービス分野において、個人所得が倍になれば、人口が半分になっても日本のGDPは横ばいになるし、所得が4倍になれば、日本人の経済生活は、いまの二倍の生活が可能になるのです。

日本が生き残るということは、戦後日本という国家体制を保持することではありません。
日本にもとからある、人と人とがたすけあうという文化を取り戻すことで、人によって人を支配してきた世界から、もともとの日本が大切にしてきた、庶民を「おほみたから」とする、庶民が豊かに安全に安心して暮らせる、古くて新しい国を建設していくところにあります。

すなわち、日本を取り戻すということは、そのまま日本を建設するという言葉に置き換えることができる事柄なのです。

※この記事は2018年10月のねずブロ記事を全面リニューアルしたものです。

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