昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は、明治天皇の皇后であられた方です。
黒船来航の3年前の嘉永3年の生まれ。
一条忠香公の第三女で、旧名を一条美子といいます。
欧州の王侯貴族・貴婦人と対等に付き合える日本人女性の育成のために、近代女子教育を振興され、また社会事業や国産の奨励等に尽力された御方でもあります。

この昭憲皇太后について、昭和13年初版発行、大阪府学務部編『女子鑑』「坤の巻」1〜22ページに、御逸事が掲載されてます。
原文は、旧仮名遣いですので、いつものようにねず式に現代語訳しています。
ただ、なにぶんご皇室にまつわるお話ですので、できるだけ旧文に近くしました。
むつかしい漢字などは、ふりかなとともに、意味も一緒に掲載しています。

是非、ご一読いただけたらと思います。

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大阪府学務部『女子鑑』昭和13年初版発行「坤の巻」 「昭憲皇太后の御逸事」

明治天皇が大業をお遂(と)げになられたことは、天皇の大御稜威(おほみいつ・偉大で神聖であられること)によることはいうまでもありません。
けれど他にもいろいろな原因があり、わけても昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の御内助の功の力が大きなものであったと伝えられています。

その昭憲皇太后は、きわめて下情に通じておいでになられる方でした。
そして民に御同情が深いことは、まことに恐れ入るほどであったと伝えられています。
それは生まれついてのものもあったでしょうけれど、御幼少時の御庭訓(ごていくん)や御修養の影響も少なくなかったといわれています。

明治23年のことです。
皇太后が大和に行啓されたとき、吉野の山で眺望の良い景色をご覧になられました。
その後、山をお下りになられて、田原本のある寺院に設けられた御座所(ござしょ)でご休憩になられたときのことを、お供の香川皇后宮大夫(こうごうぐうしき・お付きの女性事務官)が話しています。
昭憲皇太后は、次のように述べられたそうです。

「自分は京都で一条家に居た子供の頃の記憶です。
 父が邸(やしき)の隅に物見をこしらえるようにと
 御用人(ごようにん)に言いつけられました。

 用人は、
 『そのような物見などというものは、
  卑(いや)しい者が
  することでございます』と言う。

 父は、
 『いや決してそうではない。
  自分の子供たちの教育のためにするのです。
  我々はいま、このような幸せをもって
  大きな邸宅の奥深くに住まっているが、
  国民がいかなる生業(なりわい)をし、
  いかなる生活(くらし)をしているか
  ということを直接見せておかないと、
  子供たちの将来のために悪い』

 このようにおっしゃられたので、
 用人はかしこまって、
 さっそく物見をこしらえました。

 ところがちょうど向かいに染物業をする者がいて、
 染め物を高い物干しに干します。
 それが物見からよく見えました。

 そこでは親も子も、
 老いたる者も若きも一家皆で働いています。
 父はそれを指して、
 『かくのごとき生業を持っている者は、
  孜々(しし・熱心に努め励むさま)として
  勤(つと)めている。

  汝等(おまえたち)も
  安逸(あんいつ・何もせずにぶらぶら暮らすこと)を
  貪(むさぼ)ってはならぬ。
  しっかり勉強し、
  しっかり働かねばならぬ』

 ということを言い聞かされました。
 いま吉野の山から広々と展望して、
 幼き頃、あの物見から見たときの
 父の教訓が思い出されました」
と仰せになられたということです。

▼御幼少時の御聡明と御講学

昭憲皇太后がまだ一条家に坐(ま)しました頃、最初は富貴姫(ふうきひめ)といい、後に壽栄姫(ひさえひめ)と名を改められました。
一男三女の御兄妹中、一番の御末にあらせられましたが、幼い頃から御発明で、なんとなく御同胞の方々よりも、一段優れていらっしゃるようであったといいます。
御父君の忠香公も同様に思召(おぼしめ)られたようで、壽栄姫の教養にはことに力を注がれたと、貫名右近(ぬきなうこん)の家の言い伝えとして残っています。

貫名右近が一条家に仕えたのは、壽栄姫が御7歳のときでした。
当時、忠香公の御弟の建通卿が久我家を嗣(つ)いだのですが、その家の士に、有名な儒者の春日潜庵(かすがせんあん)がいました。

忠香公は、日頃からこれを羨(うらや)んでおいでになられていたのですが、たまたま阿波出身の儒者の貫名海屋が下賀茂に家塾を開いているのを聞かれ、これを招いて家士にしようとされたのですが、海屋は老齢であるからという理由でこれを辞し、その養子の右近を薦(すす)めました。
忠香公は承諾して、海屋を家士とし、姫君たちの師とし、みずからも折にふれて経世済民の書などの講義を聴かれたそうです。

右近が初めて一条家に仕えたとき、忠香公は姫君らを集めて、今日からこの人を師とすると告げられ、まず右近に盃を賜ったところ、いちばん幼少の壽栄姫が立って酌(しゃく)をされたので、右近はこの態度を見て、後年御夙慧(しゅくけい・幼いころよから賢いこと)の一証として、このときのことを家人に物語ったといいます。
右近は、主として論語、女四書などを講じて姫君たちの御教育に任じました。
皇太后の漢学の御素養の因(よ)るところは、ここにあったといいます。

※女四書=女性のための教訓書として4種を集めたもの。江戸前期の辻原元甫(つじはらげんぽ)が、『女誡(じよかい)・後漢の曹大家著、『女孝経』唐の陳邈(ちんばく)の妻、鄭(てい)氏著)、『女論語』唐の宋若莘(そうじやくしん)著、『内訓』明の永楽帝の仁孝文皇后著の四書を和訳した。

貫名右近は、壽栄姫を御教導するにあたって、女子の徳育の要所として、まず女四書を選び、かたわらに他の書に及びました。
その頃の女四書は、得難き珍書となっていましたが、加賀の金沢の前田家がこれを翻刻(ほんこく)していました。
それを海屋の助言で、金沢から取り寄せて御用(おもち)いになったのだそうです。

これについても、ひとつの御逸話があります。
その女四書には訓点(返り点など)があったのですが、壽栄姫君は、かえって目障りで了解をさまたげるから、返り点ない本を得たいと仰せられたといいます。
漢文の御素養を窺(うかが)うべき御逸話です。

後年、細川潤次郎が元老院議官に奉職していたとき、同僚の副羽美静から聞いた話だと言って、女子高等師範学校で行われた終身講話のなかにも、次の一節があります。

「皇太后は常に女四書という書を御覧あそばされるものと見えて、御側(おそば)に伺候(しこう)する人々に向かって女四書に斯々然々(かくかくしかじか)のことがあるなどと仰せられることが折々ありました。
そこで自分はところどころを詮索(せんさく)したけれど、東京の書肆(しょし・出版社や書店のこと)にこれを持っている人がいません。
加賀の金沢に版本があるとの話を聞いて、ただちに注文して、ようやく手に入れることができました。
自分もこの書を見たことがなかったので、金沢出身の友人に依頼してその一部を得ました。
こうしてその本を一読したところ、その女誡(じょかい)は単行本があるので、記憶していたのですが、その他は初めて見るものばかりでした。」

この書は、すべて婦人の金科玉条(きんかぎょくじょう)なのですが、とりわけ内訓は仁孝帝の后(きさき)の文皇后のお作りになったもので、皇太后の御熟読あらせられた御用意の程も拝察し奉ることができる。
そもそも皇太后の御盛徳は、もとより御天禀(てんびん・天から授かった生まれつきの資質)のしからしめるところであることは言うまでもないことですが、平素に御心を御修養の上に注がせ給うた御ためであるのでしょう。
女四書も、その御修徳の御助けになったものであろうと思われます。

▼主上に対する御礼儀

昭憲皇太后が明治天皇に御仕えあそばされた御態度は、実に御貞淑で、万代にあって日本婦人の亀鑑とあおぎ奉るべきものです。
ことに御謙徳の極めて厚くましましたことは、御歌のなかにもよく伺われ、とくに注意すべきことは、明治天皇に御仕えあそばされては、明らかに君臣の礼を執っておられたということです。

主上の御前に御出ましになるときは、御褥(しとね)をお敷きになられず、絨毯(じゅうたん)のようなものの敷いてあるところに御座りあそばし、明治天皇が「褥を」を仰せになられてはじめて御敷きあそばすというふうであったと承(うけたまわ)ります。

皇太后には、晩年、御弱くて、沼津や葉山等に御避暑御避寒にいらっしゃられましたが、そこに勅使が参ると、いつでも座布団を除けて、両手をついて御話をお聴きになり、また御話あそばられました。
そうして御用向きが終わって、普通の御話になって、はじめて元の座布団に御坐りになられました。
しかしその後でも、話が一度(ひとたび)主上のことに及べば、またいつでも座布団を除けて両手をついて御話になられたということが、伊藤公の直話にも見えています。

御寝に就かせられるときにも、宮中から、聖上、ただいま御機嫌よく御寝(ぎょしん)との電話があるまでは、幾時になるまでも、御正座あらせられたということです。

▼御食事は必ず主上と共にし給う

両陛下の御食事は、いく晩とも常の御座所の二の間で、椅子とテーブルに御差向いで召し上がられました。
もっとも差し向かいとはいっても、皇太后は真正面ではなく、御遠慮あそばされて、少し左り手にお寄りになったといいます。

午餐(ごさん)は正午というお定めでしたが、国事御多端のときなど、主上の表御在所からの入御(じゅぎょ)が午後の1時となり、ときとしては2時に及ぶこともあったのだけれど、皇太后は必ず主上をお待ちになりました。
はなはだしきは3時に及んだこともあり、あまりの畏(かしこ)さに近侍の者が、何かちょっとした品でも差し上げようとしても御聴(き)き入れにならず、必ず主上の入御まで御待ちあそばされたとのことです。

▼旅館にても主上御寝の御間を敬せられる

静岡に大東館という旅館があり、日清戦争の際に、東京に還幸啓(かんこうけい)のおり、ここに御泊(と)まりになられたのですが、明治天皇には御一泊あそばされて、先に還幸(かんこう)され、あとから皇太后が御泊まりになりました。
旅館ですから、そうそうたくさんの部屋があるわけではありません。
そこで皇太后には、先に明治天皇が用(もち)いられた御部屋に御案内申し上げたところ、皇太后は、
「主上はどの御座敷(おざしき)であられたか」と御尋(たず)ねになられたので、
「天皇陛下もこの御座敷に御寝(ぎょしん)あそばされましたので、
 皇后陛下にもまた、ここを御用いますように」
と申し上げると、皇太后はおいに恐縮あそばされて、
「主上の御寝あそばしたところに
 自分が寝(やす)むということは
 おそれおおいから、
 他の室(しつ)に更(か)えてもらいたい」
とおおせられ、侍従が非常に恐縮して、段々申し上げたけれど、どうしても御聴き入れになられず、とうとう次の間に御寝(やす)みになられました。

皇太后は常にこういう御心持(こころもち)がおありになられたので、何かことがあれば、直(ただ)ちにそれがあらわれました。
このように、主上に対して、非常に御恭順(きょうじゅん)であらせられたことが、すべての点において拝せられました。

▼主上の上を深く思し召される

主上が北越御巡幸(じゅんこう)の年は非常に暑くて、赤坂御所の内でさえも30度を越える温度になりました。
奉仕の人々も、みな口々に暑さに堪えがたいことを申しあっていたのですが、皇太后は
「お上のことを考えると誠に畏(おそ)れ多い。
 慣れない地にお出ましになられて、
 今頃はどうしていらっしゃることかしら。
 それを想うとここにこうして居ることさえ
 もったいない気がいたします」
とて、御自身はついにひとことだに暑いと仰せにはなりませんでした。

その頃の御歌に、

 大宮の うちにありても あつき日を
 いかなる山か 君はこゆらむ

という歌があります。
また明治11年、主上北越御巡幸の御不在中にあそばされた御歌に、

 はつかりを まつとはなしに この秋は
 こしぢの空の ながめられつつ

すなわち世の中の人は風流に雁(かり)の音を待つかもしれないけれど、自分はただ主上の早く御還(かえ)りあそばされることを望んで、あちらの空ばかり眺められるという麗しい御歌です。

 夢さめて みふねの上を 思うかな
 舞子の浜の 波のさわぎに

 日和(ひより)待つ みふねのうちや いかならむ
 霧たちわたる 荒波の上に

これは明治24年大和に行啓(ぎょうけい)あそばされ、それより舞子の浜にお回りになられたとき、おりしも御船に召して、呉、佐世保の鎮守府へ行幸あそばれた主上の御上を思召しての御歌です。
皇太后の聖上に対したてまつっての御親愛の深さをうかがいまつることができます。

▼主上を御迎えの際、雨中に傘を用いたまわず

ある年の秋、皇太后には、主上とともに赤坂御所の萩の御茶屋に行啓あらせられました。
ここは元、紀州家の屋敷の跡で、池のほとりに萩の花が枝もたわわに咲き乱れているさまは、ことのほか風情がありました。

この日の行幸啓は、皇太后の方が御先着あらせられ、御茶屋の軒先に御佇(たたず)みになられて、主上の御着輦(ちゃくれん・手車で御到着されること)を御待ちあそばされました。
おりしも秋のことで、にわかに空模様が変わり、吹ききたる冷ややかな風とともに、はらはらと時雨が降ってきました。

この有様に、女官たちはおどろいて、ただちに雨傘を取ってまいり、これを開いて皇太后の御後からかざしまいらせたところ、微笑まれて、
「それには及ばぬ」
との御諚(ごじょう・主君の命令のこと)でした。

女官たちも少時、躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、雲足早く通り過ぎて、まもなく晴れたのですが、しばらくすると、またもやはらはらと降って来たので、女官たちは再びいそいで御傘をかざしかけました。
皇太后は、いよいよ声を高く、
「差し控えよ。主上の御成りぞよ」
と仰せられ、そぼ降る時雨にもおかまいなく、濡れそぼちながら、つつましやかに鳳輦(ほうれん・天皇が用いる輿(こし))を御待ちあそばされました。

かくて程なく着御あらせられたので、親しく御迎えあそばされ、御同列しずしずと御茶屋へ入らせられました。

▼主上の御看護のため御帯を解かせ給わず

明治45年の夏、主上の御悩(ごのう・貴人の病気を敬っていう語)に際しては、御寝食をも御忘れになって、ひたすら御看護あそばされました。

御疲労のあまり、万一御体(おからだ)に御障(さわ)りがあってはと、近侍から時々御休息を御進言申し上げても、お聞きあそばされないで、あいかわらず御介抱に御心身の限りをつくさせられ、その後、主上の御悩さらに重(かさね)らせ給うに及んでは、曽て(かつて)一度も御帯(おび)を解かせたまわず、連日連夜御病床に近侍あそばされ、御自身の御命を、主上の玉体に代え奉らんことを、天地神明に御祈願あらせられました。

しかるに悲しくも、ついに主上の崩御をみそなわせられて、爾来(じらい)、御心地すぐれさせ給わず、過度の御疲労と、御悲嘆の積りが、御不予のもとともなって、主上が神去りました明治45年の7月30日からかぞえて、ちょうど1年9ヶ月目の大正3年4月11日、溘焉(こうえん・にわかのこと)として御後を追わせたもうたのは、畏(かしこ)くもまた、おいたわしい極みです。

▼雨漏に民家をしのばせ給う

ある年、皇太后にはすくなからず御不例で、箱根に御転地あそばされました。
ちょうど梅雨の頃でしたが、その御道筋で、たいそう荒れ果てた民家を御覧あそばされて、かかる藁葺(わらぶき)の家にも、住めば住まれるものか、まことに気の毒であるとの御意を御洩らしあそばされました。

ところがその晩、御宿に御泊まりになられると、非常な風雨で御座所に近いところまで雨漏りがして、しかも風があおり、雨の飛沫が吹き込んできます。
御供の人は恐縮して、風雨を防ぐために屏風かなにかを持ってこさせようなどと騒ぐと、皇太后には、これを御制しになられて、
「この暴風雨では
 どうにも仕方がありません。
 雨漏りがしたとか、
 風が吹き込むなどというと
 この宿をしたものが
 どんなに心配するか知れません。
 雨漏りがしたら
 そこらにある
 自分の持ってきた瓶(かめ)なり、何なり置いて
 朝になってから
 そっと片付けておけばよいだろう。
 今日、あの沿道で見た民家は
 今頃はもしや倒れてはすまいか。
 かく考えると
 これだけの雨漏りや風の吹込むくらいは
 なんでもない」
とて、御諭(さと)しになったということです。
何事においても、このように御恵み深くあらせられました。

▼御小袖の袖を裁たせ給わず

皇太后が何事にもよく御気付かれ、かつ御思いやり深い御方であったという一例として、下田歌子女史は、次の一文を謹話(きんわ)しました。

「あるとき私は、
 ひとかど好い思いつきをした心算(つもり)で、
 古い女官の御方に申し上げました。
 それは御袿衣(うちかけ)の下に召します
 お内衣(ないえ)は(只今はお小袖と申していますが)
 白羽二重(しろはぶたえ)で、
 元禄紬(げんろくつむぎ)の極袖の短いもので、
 たいてい一尺一寸五分くらいのものであります。
 それを御袿衣の下に御召しになります。
 ところが冬になりますと、
 お小袖が二枚ですから、お袖が重くなる。
 それを私共がおたたみ申し上げますと、
 縫い込みがたいへんに多い。

 そこで古い女官の方に、
 『皇后様の御召し物は、
  たくさんなお縫い込みがあらせられますね。
  半分ほどもお縫い込みがございます。
  すこしお召しになれば、
  直に下にお下げになるものを、
  どうしてあんなに
  お縫い込みになるのでございましょうか。
  いくら御肩がお凝(こ)りになるというのに
  まことにおそれ多いことでございます。
  いくら御慣例だからと申しても
  御尊体(そんたい)には代えられません。
  お許しを得て、
  あの縫い込みを少なくするようにしたら
  いかがでございましょう」
 と申しますと、なるほどそれもおおきにそうだと
 その女官の方も仰ったのでしたが、
 あとになってその方の仰るには、
 『どうもおそれ入ったもので、
  あの通りお許しを願うように
  申し上げましたところ、
  皇后様には
 《自分もそれを知らないことはないけれど、
  あれはあのままにしておくがよい。
  ただしせっかく親切に申してくれるのであるゆえ、
  軽くなるように袖の先には
  綿を入れぬようにしたらよろしかろうと思う。
  自分が少しの間着て女官たちに下げると、
  女官たちはこれを着古して
  また局(つぼね)で召し使う女中どもに
  つかわすであろう。
  聞くところによれば、
  お下がりは袖の長いものでないと
  衣服として再び役に立たぬよしである。
  羽二重は地質の弱いものであるから、
  こうして縫込みを多くしておけば
  順々に下げても、
  まだなかなかそのまま衣服として
  用いられるであろうから、
  やはり小袖は元のように長く裁(た)って
  縫い込んでおくように》』
 と仰せられたということで、
 実に何事も御承知あそばして、
 しかも下々のために御不便を忍ばせられる御心には、
 私共おそれいった次第でございます。」と。

▼老人をいたわらせ給う

皇太后は沼津に行啓あらせられるごとに、必ず御用邸付近の高齢者に多額の御菓子料を賜りました。
最後の行啓の折にも、70歳以上の者866人に対して賜物がありました。
そのなか、最高齢の107歳になる野田サトという老婆に対しては、ことのほか御いたわりになられ、御用邸に召されて、かれかれとありがたい御言葉をたまわられたので、サト女が感涙を流すと、これを御手づから御ぬぐいくだされたとの御事です。

御用邸付近の者共は、それゆえ毎年の行啓を心から鶴首(かくしゅ)して御待ちもうしあげ、歓呼して奉迎し、御機嫌のうるわしきを拝しては、心から悦んでいました。

されば大正3年、突然御不例にならせられるや、所在の各町村明は、期せずして神社に請願をこめ、御平癒を祈り、神符を捧げて御用邸に参向(さんこう)しました。
これらの村民は、いずれも一所懸命であったために、御用邸の御混雑もはばからず参向したのであって、一面から申せば失体のようなのですが、御上からは民草の熱誠を御喜納のうえ、幾百人というこの人々にいちいち御菓子を賜りました。

しかるに皇太后には、ついにおかくれあそばされ給うたので、これらの人々の失望慟哭(どうこく)のさまは、たとえるに物もなかったといいます。
ことにかの107歳のサト女は、狂気のごとくに泣き悲しんだというのも、もっともなことでありました。

▼敵兵にまで義手義足を賜う

明治27〜8年の戦役(日清戦争のこと)のときに、皇太后には石黒忠悳(いしぐろただのり)氏を御前に召され、
「戦役で負傷した者の中に、
 手足を失った者も多くあって
 嘸(さぞかし)困難するであろう。
 いかにせば、その困難を減ずるか」
との御下問があったので、義手義足を付ける方法のあることを御答え申し上げたところ、日ならずして、
「該(がい)負傷者には、皇后陛下から
 義手義足を賜るによって
 陸軍省において、
 その制作方法を取り計らうように」
ということの趣が達せられました。

しかるにこの手足を失った傷者のなかには、敵兵も混ざっていることであるから、それはいかがいたしましょうかという趣(おもむき)を、石黒氏から香川皇后宮太夫を経て御伺い申し上げると、
「もとより敵兵にも下し賜る」
とのことで、一視同仁(いっしどうじん)の厚い御情から、敵国の負傷者までが、この恩沢(おんたく)に浴することができました。

日露戦争のときにも、また同様の御沙汰(さた)で、香川皇后宮太夫がかしこみて、その旨を陸海軍両大臣に通牒(つうちょう)したから、両大臣はそれぞれ思し召しを伝達して、その取扱方を規定したけれど、このときもまた、敵国捕虜にまで及ばされたので、いずれもその御仁徳に感じ、涙ながらに拝受したということです。

▼義手義足修繕のことを仰せだされる

明治35年5月27日、皇太后には東京慈恵病院へ行啓あらせられ、石黒忠悳氏に拝謁を仰せ付けられたときに、香川皇后宮太夫が御そばにいて、
「石黒は近来久しく拝謁いたしませんで」
と申し上げたために、皇太后より御言葉をも賜りました。

そこでその翌日、右の御礼を申し上げられたしとの依頼に、香川子爵方へ参ったとき、子爵が申されるには、
「いや、貴君にお聞かせ申し上げねばならない
 おそれおおいことがある。
 先ごろ、陛下が特に仰せられるには、
 『人は年齢によって
  身体の肥瘠(ひせき・肥えたり痩せたりすること)の程も変わり、
  また屈曲の度も変わるものなのですから、
  先に27〜8年の戦役によって手や足を亡くして
  義手義足を与えられた民も、
  もはや67ヶ月の星霜を経て、
  肥瘠屈曲の変わりによって、
  それらの義手義足もすでに
  不適になった者もあるであろうし、
  また破損した者もあるであろう。
  よく取り調べて、
  その不適をなったものを新しくし、
  破損したものは修補(しゅうほ)して
  取らせるように』
 との仰せがあって、
 やがてその取り調べ並びに修補のことを
 陸軍大臣に御達しになりました。
 そしてこれに要する諸費用は、
 特に御内帑(ないとう・皇室の金蔵のこと)より
 下し賜りました。
 もともとこの義手義足を
 内外軍人の負傷した者に賜った最初には、
 貴君は時の野戦衛生長官として
 このことについては親しく御前で
 申し上げたことがあるので、
 今日、このことを拝承(はいしょう)されたら、
 さぞ喜ばれるであろうと思って
 特にお話するのです。」

と言われたので、石黒氏は、このことを拝承し、ただただ涙にくれるばかりで、しばらくの間は何の答えも出なかったといいます。
そもそも戦地において、手足を失った者に、皇后陛下から義手義足を賜ったということは、わが朝はもとより、外国にもその例を聞かないことですし、いわんや敵軍の負傷者にまでもこれを賜ったというがごときは、なおさらのことです。

況(まし)て去るものは日に疎(うと)しとの諺(ことわざ)の通り、親しい付き合いの者でも、別れて二年となり、三年と隔(へだ)たれば、しばらく遠々(とうとう・長らく行き来がないこと)しくなって、ついには思い出さないようにまでなるのが常なのに、6〜7年も前に義手義足を下し賜った者の身の上を思いめぐらし給うとは、母の愛子におけるよりも、なお深い思し召しと申し奉(たてまつ)るべきことです。

ことに九重(こののえ)の内に坐(ま)します御身でありながら、義手義足は年齢による肥痩の変化と共に替えなければならないこと、また常に用いて居ると数年ならずして破損し、修理を要することまでも、思し召し付かせ給う御聡明のほどには、ただただ恐懼(きょうく・おそれかしこまること)し奉るのほかはありません。

【大阪府学務部『女子鑑』昭和13年初版発行「坤」の巻1〜22ページ一より】

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最後にねずからひとこと。
日本に国籍があれば日本人ではありません。
どこまでもご皇室とともにあるという自覚。
これを持つ人が日本人であると、強く申し上げたいと思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

※この記事は2019年10月のねずブロ記事の再掲です。

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