有識者の多くが、現代日本について、もうダメだ、最悪だ、日本はオシマイだと仰られます。
メディアでも、Youtubeでも、そのように述べると、多くの人の耳目が集まるからです。

でも、「何を言っているんだ!?」と思います。
言っている方々は、ほぼほぼ戦後の復興期の生まれです。
日本がみるみるうちに復興し成長する時代に育ち、華やかな高度成長期を経験し、びっくりするほど豊かだったバブル時代を経験し、バブル崩壊後もそれまでに蓄えた資産で、ある意味、悠々自適の生活を送ってきた人たちです。
それはある意味、日本史上の最も良い時代です。

その「日本の最も良い時代」というのは、そうした戦後派の人たちによって築かれたものではありません。
戦前戦中の教育を受け、戦争の悲惨を体験した先輩たちが、必死に平和を願い、復興を願い、繁栄を願って日々の努力を重ねていたその時代に、学園紛争を起こして文句ばかりを並べ、高度成長期にはその文句を言っていた相手の人たちが必死に築いた経済の恩恵を受け、バブル期に遊び呆けて、バブル崩壊後もそれなりの豊かさを満喫してきた人たちです。
それはつまり、イソップ物語に出てくる「アリとキリギリス」のキリギリスと同じです。

経済が停滞し、冬になって寒くなって食べ物がなくなって、いまはアリさんたちに「お恵みを〜」。
さらに「日本はもうオシマイだ」。
「甘ったれるのも、たいがいにしろ!」と言いたくなるのです。

なるほどいまの日本には問題は多々あるし、これまでの時代に失ったものも数多くあります。
けれど、問題があるということは、そしてその問題が個々に指摘できるものであるということは、そしてまた失ったものが何かがはっきりわかっているということは、そこまで特定できているのなら、あとは解決すればよいだけのことです。
問題があるから「もうダメだ」ではなく、
問題点がわかったのだから、みんなで解決しようぜという前向きな思考が大切なのです。

『国体の本義』は、日本の国のはじまりから、天皇の聖徳、和の精神、武の精神、結、人の和、国民生活、祭祀と道徳、西洋思想や東洋思想の特質から我等の使命まで、幅広く日本精神を解き明かした名著です。
原文は文語で書かれていて、たいへん勉強になるものです。
現代語訳は、東大の法科を出て、ドイツから認証翻訳士の称号を得、中村国際事務所の代表を努めておいでの中村匡志さんです。
すこし引用してみます。

*******

清明心(せいめいしん)
http://tadashiism.jp/kokutai23.php

君民和合の家族的国家生活は、「明浄正直」の国民性を生んだ。
すなわち文武天皇御即位の宣命その他において、
 明(あか)き浄(きよ)き直(なお)き誠の心
 清き明き正しき直き心
と繰り返されている。

これはすでに、神道における「みそぎ祓え」の精神として語り事にもうかがわれる。
天武天皇の十四年に御制定になった冠位の名称には、勤務追進の上に明浄正直の文字が示されている。
いかにこの国民性が尊重せられたかがわかる。

「明浄正直」は、精神の最も純な力強い正しい姿であって、いわゆる真心であり、まことである。
このまことの外部的表現としての行為・態度が「勤務追進」である。
すなわちこの冠位の名称は、明るい爽やかな国民性の表現であり、また国民の生活態度でもある。
しかしてまことを本質とする明浄正直の心は、単なる情操的方面に止まらない。
明治天皇の御製に、

 しきしまの 大和心の おおしさは
 ことある時ぞ あらわれにける

と仰せられてあり、よく義勇奉公の精神として発現する。

万葉集には

 海行かば 水み潰づくかばね
 山行かば 草むすかばね
 大おお君きみの 辺へにこそ死なめ
 かえりみはせじ

と歌われ、蒙古襲来以後は、神国思想が顕著なる発達を遂げて、大和魂として自覚せられた。
まことに大和魂は「国祚の永命を祈り、紫極の靖鎮を護り」来たったのであって、近くは日清・日露の戦役において力強く覚醒せられ、且つ具現せられた。

明き清き心は、主我的・利己的な心を去って、本源に生き、道に生きる心である。
すなわち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。
ここにすべての私心の穢は去って、明き正しき心持が生ずる。

私を没して本源に生きる精神は、やがて「義勇奉公」の心となって現れ、「身を捨てて国に報ずる心」となって現れる。
これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が国においては、昔より「きたなき心、穢れたる心」といわれ、これを祓い、これを去ることを努めて来た。
我が国の祓(はらい)は、この穢れた心を祓い去って清き明き直き本源の心に帰る行事である。

********

戦国時代の日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは、日本を「ここは天国だ」と呼びました。
なんと、我々の目から見たら、最高に国が荒れた戦国時代が、ザビエルの目からは、地上の楽園、この世の天国に見えたというのです。

私たち日本人には、まさに蓬莱山、極楽浄土をこの地上に築き上げた実績があるのです。
いくら天国といっても、私たちは神の身ではありません。
熱い日もあれば、寒い日もある。
嬉しい時もあれば、悲しい時もあります。
不幸の波に沈むこともあるでしょう。
それでも、ひとりひとりが我が身を律しながら、互いを認め合い、互いに助けあって、次代を担おうと努力してきた歴史が、間違いなく日本にはあります。

そしてこのような歴史を日本が生んだ根幹にあるのが、日本における天皇の存在です。

世界の君主は、君臨する支配者です。
君主は神を代理する者であり、神の権威と権限をもって、領土領民の全てを支配しました。
支配するということは、所有するということです。
所有するということは、私有するということです。
だから歴史上に現れた世界の君主は、領土領民のすべてを私有する者です。

ところが日本は違いました。
もちろん日本の天皇も、領土領民の全ての所有者です。
けれど、欧米やアジア、アフリカ諸国の全ての王や皇帝と違うのは、日本の天皇は最高権威であるとともに、民こそを最高の「たから」としたことです。
これを古い日本の言い方で「シラス(知)」といいました。
単に「私有する」ということと、「たからとしてシラス」ということは、まるで意味が違います。

諸侯が王の私物だった世界に対し、日本では政治権力者である諸侯は、天皇から、天皇のたからである領土領民を預かる立場です。
王が諸侯を支配し、諸侯が民を支配するという上下の関係ではなく、
日本は天皇が民をたからとし、諸侯が民を守るという仕組みを築き上げました。
これが「君民和合」です。

ただ和合するだけでなく、天皇も諸侯も民も一体となってひとつの家族となる。
これが「家族的国民生活」です。
古い言葉では、これを「八紘一宇」といいます。

このような国の形(これを国体といいます)が根底にあればこそ、日本人は日本の社会において明浄正直の国民性を、長い歴史の中で保持することができたのです。

そしてこのような国民性があればこそ、日本では千年の時を超えてまさに女性が輝く日本を築くことができたし、世界最強の民族として、500年続いた世界の植民地支配を、たった3年半で完膚なきまでに消滅させることができたのです。

「明浄正直」の国民性は、「みんなで力を合わせて問題の解決に当たる国民性」でもあります。
考えてみてください。
現代日本の問題点を解決できた先に、私達はどのような未来を迎えるのでしょうか。

それは、「もうダメだ」という未来でしょうか。
栄えある、そして世界に冠たる日本の姿でしょうか。

それは日本人の生活が貧困化し、治安も安全も脅かされる未来でしょうか。
それとも誰もが豊かに安全に安心して暮らせる未来でしょうか。

未来は、「いま」の向こう側にしかありません。
どういう未来を築くかは、我々自身の「いま」によって決まるのです。
日本は元来、明浄正直の国民の国です。
誰もが曲がらず、明浄正直に生きることができる国こそ、理想国家です。
そして日本には、そんな理想国家を築いてきた実績があります。
その日本を取り戻す。
そのために、どんな時代にあっても、いまを大切に生きることではないかと思います。

※この記事は2015年11月のねずブロ記事のリニューアルです。

ブログも
お見逃しなく

登録メールアドレス宛に
ブログ更新の
お知らせをお送りさせて
いただきます

スパムはしません!詳細については、プライバシーポリシーをご覧ください。